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第一章『不可思議な生き物』
第三話『死ぬなら俺の事殺してからにして』
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・
思っていた通り、北瀬さんと和己が常連客になるのに、時間は掛からなかった。本人達の仕事の都合で来られない週はそれなりにあったものの、多い時には週に二回も来る事もあった。回を経ることに、北瀬さんのハイヤーに、和己がそのまま乗り込んで帰る日が徐々に増えていった。日中はきちんと自分の仕事に従事して、尚且つ、夜はツバメとしての仕事も熟さねばならないだなんて。はっきり言って恐れ入る。俺が若かった時と同じか、それ以上に、ハードなスケジュールを組んでいる事は明白だった。
和己は、目に見えて痩せていった。酒は太る要因の一つである筈なのに。食事に気を配っていないか、睡眠が上手く取れていないか。はたまた、その両方か。或いは、ツバメをやる事自体、性質に合ってないか。
プライドの高い男だ。精神的に、相当無理をしているのかもしれない。俺の場合は、相手の年齢関係なく、女を抱くのもストレスの発散に一役買っていたが、和己はそんなタイプには見えない。只管に奉仕の一手で、自分の事など、碌に構えていないのではないか。彼が目の前に居ても、居なくても。最近は、そんな風に勘繰っては、考えを滔々と巡らせてしまう。
はっきり言って不毛だ。仕事中もそんなだから、余計に無益だった。一番最初に俺の変化に気が付いたのは、仕事を共にする機会が多いマネージャーの富永さん。次いで、何かと絡んで来る率が高い、稼ぎ頭の綾瀬だった。
曰く、ぼんやりしている事が増えた。
曰く、細かいミスが頻発している。
曰く、無駄に笑顔。
曰く、かと思えば、急に一点を見つめて溜息を吐いたりと、情緒が不安定である等々。
自分自身、自覚があるので何も言い返せない。そうしてだんまりを決め込んでいると、興味本位か心配からか、ますます集られた。放って置いてくれ、と追い払っても無意味で。俺は、ある日とうとう、二人に壁際に追いやられた。
「最近の体たらくの原因、そろそろ話してもらおうか」
最初に踏ん反り返ったのは、現役ホスト時代からお世話になりっぱなしの、マネージャーの富永さん。以前は本店にて、№1ホストとして長年君臨していたが、俺が現れて早々に現役を引退した。事情をよく知らない他の人間は、俺という新星が現れたことで尻尾を巻いたのだろうと揶揄していたが、現役を退いた本来の理由はまるで異なる。
富永さんは、店を立ち上げたばかりのオーナーに学生時代から恩があり、その恩を返す為にホストに従事していた。そんな経緯があったからか元からホストとしての仕事にはあまり興味がなく、店の稼ぎ頭として機能する自分に変わる後任が現れるまで在籍だけはしていようと心に決めていたのだ。そして、俺という彗星が現れた事で、店の経営は安泰だろうと踏み、オーナーに直談判。ホストのいろはを俺に仕込んでから、さっさと現役を退くという、数々の伝説を持つホストだった。
現在は、支店であるこの店のマネージャー業に従事し、金勘定にいまいち疎い俺を影から支えてくれている。此方の方が性に合うといって驕らないが、富永さんの仕事姿目当てに足繁く通う客も後を絶たない。
「実際、どうしたんですか」
次いで立ち塞がったのは、この店の稼ぎ頭筆頭の綾瀬だ。ベビーフェイスにモデル並みの頭身。歌を歌えばその甘い歌声で聴く者を魅了させる、夜の街に燦然と輝く黄金の果実。その座に相応しい働きを見せている此奴はしかし、こちらもホストになりたくてなったタイプの人間ではない。
もともと苦学生だった綾瀬は、初めて面接に来た際には、ボーイとして働きたいと申し出てきた。前髪を長く伸ばし、ぼそぼそと覇気なく話すその態度に苛立った富永さんが、まずその面どうにかしてから来やがれ、と店から蹴り出し、そのまま散髪屋に連れて行ったのだ。そこで明らかになった綾瀬の類稀な容姿を見て、富永さんはあっさりと書類に合格印を押したのだった。ホストとして働く為の、契約書に。
最初はコミュ障を発揮して、客の前でガチガチになってしまっていた綾瀬も、富永さんのスパルタとも言える指導を受けながら、俺の齎すアドバイスを乾いたスポンジの様に吸収していき、今ではこの街の夜の帝王(仮)くらいの位置に座している。しかし、綾瀬はまだ若く、この世界に足を踏み入れて日が浅い。富永さんや俺の様に花開く日も、そう遠くはないだろう。
そんな綾瀬が心配そうに顔を曇らせた。表情にはあまり出ていないが、どうやら富永さんも同様の様で、此方を睨み付けるその双眸には、何処と無く労わりや慈しみが介在していた。これはもう、逃げられる状況じゃなさそうだ。腹を決めて話すしかないか。俺は腹を決めて大業に溜息を吐き、天井を仰いだ。
「二人はさ、初恋っていつ?」
その質問を投げ掛けると、思いの外すんなりと、二人は俺を解放した。去り際に寄せられた生暖かい眼差しは、これからも当分この身に付き纏うものだろう。不本意ではあるが、暫くは付き合っていくしかなさそうだ。
その後の無言の圧力が効いたのか、二人は、俺の心を初めて捕らえた相手に関して、探りを入れて来る様な真似はしてこなかった。一定の気を遣われた事実によって精神的にバランスを保てたので、俺は、内面で引き起こったむしゃくしゃを、自分の手でもってどうにか消化する事が出来た。
ホールに戻ると、わぁん、と反響する音と媚びた匂いに身を包まれる。薄暗い室内、煌びやかな照明。煙草、香水。歓声、罵声。終始あべこべの癖に、安直に一体化しようと踠くそれらが。折り重なって爆ぜあって、際限無く膨張していく。
あぁそうだ、自分の生きる場所はここだ。日常に踏み躪られ続けた轍。世俗の吹き溜まり。それなのに、そこに、純白な想いを馳せるだなんて烏滸がましい。今更、真っ当な人間の真似をしたがって何になる。自分が、こんなにも身の程知らずな生き物だとは知らなかった。
感情。熱。体温。ただ一人から向けられる、何かしら。それを只管に欲しがるような、向こう見ずで不恰好で子供染みた感覚が今更宿るだなんて、思いもよらなかった。
「………はは」
乾いた笑いが、唐突に腹の底から湧き上がってきた。自分でも驚く程、頭の中は白けていた。若いホストが、俺を後目に見ながら通り過ぎて行った。その甲斐性の無さが、今の自分には丁度良く感じた。
優しさや干渉なんて望んでもいない。だから、くれよ。
ただ一人をくれよ。
◇◇◇◇
「人間の身体って、大体が水で出来てるらしいな」
「うん。60%くらいだったかな、確か」
「お前体重いくつよ」
「企業秘密だけど、あんたになら教えてあげる」
手で招き寄せられて耳を其方に傾けると、こそこそと耳打ちをされた。そのあまりの儚い数値に、俺は目を剥いて驚いた。細いとは思っていたが、まさかそこまでとは。プロとは恐れ入ったものだ。しかし、大袈裟に反応をし返すものでもない。その世界で生きるとは、そういうストイックさが求められて当然だろうから。俺は、気を取り直して話を続ける事にした。
「……じゃあ、今渡した分で、半分は賄えるわけだ」
「計算早いな」
「暗算くらいはな」
「ていうか、数えてたんだ」
「当然」
ぶすっと不満げな表情を浮かべると、和己は、けち、と小さく溢した。それなのに再び水を口に含んで、躊躇する素振りを一向に見せてこない。その太々しい態度が、あざとく突き出した、唇が。やたらと、此方の琴線に触れてくる。
忌々しくなって唇を摘んでやると、その指先が、ぱくりと彼の口内へ消えた。一瞬食まれて、舌先で押し出される。唾液で濡れた指先が、非常階段に吹き込む夜風に晒されて冷えていく。歯型が指先に薄く残った。直ぐに消えてしまうのが、惜しく感じた。
少しだけひんやりとした和己の頬に掌を当てる。しっくりと馴染んでいく肌膚と体温が混ざり合い、境が曖昧になった頃。彼の薄い唇を、親指の腹で端から端までゆっくり撫でた。
いつも和己は、俺が顔を寄せると、静かに目を伏せる。そして、此方の唐突な行動をそっくりそのまま受け入れる。終わると決まって、不味い物を口にした様に顔を歪めるけれど。最初の一回目以降、彼は不満も何も言ってこなくなった。
あるがままで。しなやかで。気高い。そんな男が、自分にされるがままになっている、その様に、頭の天辺から爪先まで、どっぷり溺れた。
水一本、500ml。渡した水分の総量が彼の身体を占める水分量の半分に至った記念を、自分の中で勝手に打ち立てて。今日はいつも以上に、丁寧に、長く、深く、口内に舌を差し入れた。
歯列を辿り、上顎の凹凸をなぞり、舌の裏側の皮膚が薄い部分を突いて、存分に嬲って。後から後から湧いてくる唾液を、貪るように啜っていった。
互いの唇の間に銀糸が伝う。半開きのそれは紅く熟れた色をしている。俺が、その仕上がりに満足気に笑むのと同時に。和己の上体の力が、くたりと抜けた。腕と胸を使って受け止める。調子に乗って頸に唇を落としたら、引き換えに足を踏まれた。
高ぇんだけど、この靴。まぁいいか。なんて頭の端で考える。だがそれよりも、抱きとめたこの身体の薄さは、いい加減無視出来ない。さっきはプロならある程度は仕方がないと頭の中で一蹴出来たけれど、体感してみて気が変わった。これでは、いずれ。
「トップダンサーって、こんなに痩せてまで、なりたいもんなのか」
余計な事を口走りそうになる自己を押し留めながら、出来るだけ彼の負担にならない言葉を選ぶ。違うな。重いと思われたくないだけだ。つまりは保身だ。そんな気持ちで発した言葉が、相手にきちんと届く訳がなかった。
「倒れるまで、あの人の相手を続ける気か?」
「あんた、意外とおめでたい奴だな」
抱きとめた薄い肩が、一定のリズムで揺れる。和己は笑っていた。音もなく。
「あの人の相手をしてるだけでトップダンサーになれるなんて、本当に思ってるわけないだろ」
俺を嘲笑うようにしてそう口にすると、彼はゆっくりと顔を上げた。侮蔑混じりの視線を向けられて、胸の内側が大きく揺らぐ。頭は待ったを掛けているにも関わらず、俺は、その動揺に乗じて、いま一番言ってはいけない言葉を吐いてしまった。
「じゃあ、なんでこんな無理続けてんだよ」
そう、馬鹿みたいな質問をした瞬間。和己の顔から、表情という表情が、すう、と消え失せた。
分かりきった反応。なのに、俺は未だに。これで、彼がもし掴み掛かってきてくれたら。それで、夢のような言葉をいい加減口にしてくれたら。だなんて、どうしようもなく狡い考えを、頭の中で巡らしていた。そんな救いようの無い愚か者にはお似合いの、冷たい声が掛けられる。
「そこの自販機でさ、水一本買うと130円なんだよ。だから、これでいいか」
和己は、後ろポケットから財布を取り出して広げると、五千円札を指先で折って、俺のスーツの胸ポケットに差入れた。
「これまで、面倒掛けたな」
立ち上がり、階段を降りて行こうとする、その腕を咄嗟に掴んだ。けれど、振り返った彼の瞳には、此方に対する興味や関心といった熱量を伴った感情など、全く宿っていなかった。
「離せ」
「理由話したら、考えてやってもいい」
「どの?」
「これまでの、全部」
無理してツバメを続けてまで、店に来ていた理由。俺から送られるキスから逃げなかった理由。金を渡して今まさに逃げようとした理由。つまりは一言。病むほどに欲しい、その一言。
「言葉にしないと伝わらないくらい耄碌してるなら、まるっきり引退した方が身の為だと思うけど」
「へぇ、心配してくれてんの。ありがとな」
「馬鹿じゃねぇの」
何の感情の機微すら感じ取れなかった和己の瞳に、再び赤々とした焔が揺らめいた。例え怒りであっても、感情の矛先を何も向けられないよりかは、ずっといい。そんな風に考えてしまう俺は、全くもって度し難い屑だ。けれど、俺をそんな男にしてしまったのも、間違いなくお前なんだ。
これまで俺はそんな可哀想な存在を作っては捨てるを繰り返してきた側の人間だった。だから今こうして、情けないを形にしている人間が、どれだけ見窄らしい見目をしているのか、客観性を持って理解している。けれど俺は、そんな自分を押し留める事など出来なかった。
「どっちがだ、こら。人を誑かすのもいい加減にしろ」
「それ、あんたが言うんだ?俺をこんな風にした、あんたが」
俺に負けず劣らず、こんな風に、ぼろぼろになった理由。泣きながら、此方を詰ってくる理由。その全てを俺は知っているけれど。
「なぁ、和己」
全部全部、分かっているけれど。言わずには、いられなかった。
「死ぬなら俺の事殺してからにして」
「変態」
思っていた通り、北瀬さんと和己が常連客になるのに、時間は掛からなかった。本人達の仕事の都合で来られない週はそれなりにあったものの、多い時には週に二回も来る事もあった。回を経ることに、北瀬さんのハイヤーに、和己がそのまま乗り込んで帰る日が徐々に増えていった。日中はきちんと自分の仕事に従事して、尚且つ、夜はツバメとしての仕事も熟さねばならないだなんて。はっきり言って恐れ入る。俺が若かった時と同じか、それ以上に、ハードなスケジュールを組んでいる事は明白だった。
和己は、目に見えて痩せていった。酒は太る要因の一つである筈なのに。食事に気を配っていないか、睡眠が上手く取れていないか。はたまた、その両方か。或いは、ツバメをやる事自体、性質に合ってないか。
プライドの高い男だ。精神的に、相当無理をしているのかもしれない。俺の場合は、相手の年齢関係なく、女を抱くのもストレスの発散に一役買っていたが、和己はそんなタイプには見えない。只管に奉仕の一手で、自分の事など、碌に構えていないのではないか。彼が目の前に居ても、居なくても。最近は、そんな風に勘繰っては、考えを滔々と巡らせてしまう。
はっきり言って不毛だ。仕事中もそんなだから、余計に無益だった。一番最初に俺の変化に気が付いたのは、仕事を共にする機会が多いマネージャーの富永さん。次いで、何かと絡んで来る率が高い、稼ぎ頭の綾瀬だった。
曰く、ぼんやりしている事が増えた。
曰く、細かいミスが頻発している。
曰く、無駄に笑顔。
曰く、かと思えば、急に一点を見つめて溜息を吐いたりと、情緒が不安定である等々。
自分自身、自覚があるので何も言い返せない。そうしてだんまりを決め込んでいると、興味本位か心配からか、ますます集られた。放って置いてくれ、と追い払っても無意味で。俺は、ある日とうとう、二人に壁際に追いやられた。
「最近の体たらくの原因、そろそろ話してもらおうか」
最初に踏ん反り返ったのは、現役ホスト時代からお世話になりっぱなしの、マネージャーの富永さん。以前は本店にて、№1ホストとして長年君臨していたが、俺が現れて早々に現役を引退した。事情をよく知らない他の人間は、俺という新星が現れたことで尻尾を巻いたのだろうと揶揄していたが、現役を退いた本来の理由はまるで異なる。
富永さんは、店を立ち上げたばかりのオーナーに学生時代から恩があり、その恩を返す為にホストに従事していた。そんな経緯があったからか元からホストとしての仕事にはあまり興味がなく、店の稼ぎ頭として機能する自分に変わる後任が現れるまで在籍だけはしていようと心に決めていたのだ。そして、俺という彗星が現れた事で、店の経営は安泰だろうと踏み、オーナーに直談判。ホストのいろはを俺に仕込んでから、さっさと現役を退くという、数々の伝説を持つホストだった。
現在は、支店であるこの店のマネージャー業に従事し、金勘定にいまいち疎い俺を影から支えてくれている。此方の方が性に合うといって驕らないが、富永さんの仕事姿目当てに足繁く通う客も後を絶たない。
「実際、どうしたんですか」
次いで立ち塞がったのは、この店の稼ぎ頭筆頭の綾瀬だ。ベビーフェイスにモデル並みの頭身。歌を歌えばその甘い歌声で聴く者を魅了させる、夜の街に燦然と輝く黄金の果実。その座に相応しい働きを見せている此奴はしかし、こちらもホストになりたくてなったタイプの人間ではない。
もともと苦学生だった綾瀬は、初めて面接に来た際には、ボーイとして働きたいと申し出てきた。前髪を長く伸ばし、ぼそぼそと覇気なく話すその態度に苛立った富永さんが、まずその面どうにかしてから来やがれ、と店から蹴り出し、そのまま散髪屋に連れて行ったのだ。そこで明らかになった綾瀬の類稀な容姿を見て、富永さんはあっさりと書類に合格印を押したのだった。ホストとして働く為の、契約書に。
最初はコミュ障を発揮して、客の前でガチガチになってしまっていた綾瀬も、富永さんのスパルタとも言える指導を受けながら、俺の齎すアドバイスを乾いたスポンジの様に吸収していき、今ではこの街の夜の帝王(仮)くらいの位置に座している。しかし、綾瀬はまだ若く、この世界に足を踏み入れて日が浅い。富永さんや俺の様に花開く日も、そう遠くはないだろう。
そんな綾瀬が心配そうに顔を曇らせた。表情にはあまり出ていないが、どうやら富永さんも同様の様で、此方を睨み付けるその双眸には、何処と無く労わりや慈しみが介在していた。これはもう、逃げられる状況じゃなさそうだ。腹を決めて話すしかないか。俺は腹を決めて大業に溜息を吐き、天井を仰いだ。
「二人はさ、初恋っていつ?」
その質問を投げ掛けると、思いの外すんなりと、二人は俺を解放した。去り際に寄せられた生暖かい眼差しは、これからも当分この身に付き纏うものだろう。不本意ではあるが、暫くは付き合っていくしかなさそうだ。
その後の無言の圧力が効いたのか、二人は、俺の心を初めて捕らえた相手に関して、探りを入れて来る様な真似はしてこなかった。一定の気を遣われた事実によって精神的にバランスを保てたので、俺は、内面で引き起こったむしゃくしゃを、自分の手でもってどうにか消化する事が出来た。
ホールに戻ると、わぁん、と反響する音と媚びた匂いに身を包まれる。薄暗い室内、煌びやかな照明。煙草、香水。歓声、罵声。終始あべこべの癖に、安直に一体化しようと踠くそれらが。折り重なって爆ぜあって、際限無く膨張していく。
あぁそうだ、自分の生きる場所はここだ。日常に踏み躪られ続けた轍。世俗の吹き溜まり。それなのに、そこに、純白な想いを馳せるだなんて烏滸がましい。今更、真っ当な人間の真似をしたがって何になる。自分が、こんなにも身の程知らずな生き物だとは知らなかった。
感情。熱。体温。ただ一人から向けられる、何かしら。それを只管に欲しがるような、向こう見ずで不恰好で子供染みた感覚が今更宿るだなんて、思いもよらなかった。
「………はは」
乾いた笑いが、唐突に腹の底から湧き上がってきた。自分でも驚く程、頭の中は白けていた。若いホストが、俺を後目に見ながら通り過ぎて行った。その甲斐性の無さが、今の自分には丁度良く感じた。
優しさや干渉なんて望んでもいない。だから、くれよ。
ただ一人をくれよ。
◇◇◇◇
「人間の身体って、大体が水で出来てるらしいな」
「うん。60%くらいだったかな、確か」
「お前体重いくつよ」
「企業秘密だけど、あんたになら教えてあげる」
手で招き寄せられて耳を其方に傾けると、こそこそと耳打ちをされた。そのあまりの儚い数値に、俺は目を剥いて驚いた。細いとは思っていたが、まさかそこまでとは。プロとは恐れ入ったものだ。しかし、大袈裟に反応をし返すものでもない。その世界で生きるとは、そういうストイックさが求められて当然だろうから。俺は、気を取り直して話を続ける事にした。
「……じゃあ、今渡した分で、半分は賄えるわけだ」
「計算早いな」
「暗算くらいはな」
「ていうか、数えてたんだ」
「当然」
ぶすっと不満げな表情を浮かべると、和己は、けち、と小さく溢した。それなのに再び水を口に含んで、躊躇する素振りを一向に見せてこない。その太々しい態度が、あざとく突き出した、唇が。やたらと、此方の琴線に触れてくる。
忌々しくなって唇を摘んでやると、その指先が、ぱくりと彼の口内へ消えた。一瞬食まれて、舌先で押し出される。唾液で濡れた指先が、非常階段に吹き込む夜風に晒されて冷えていく。歯型が指先に薄く残った。直ぐに消えてしまうのが、惜しく感じた。
少しだけひんやりとした和己の頬に掌を当てる。しっくりと馴染んでいく肌膚と体温が混ざり合い、境が曖昧になった頃。彼の薄い唇を、親指の腹で端から端までゆっくり撫でた。
いつも和己は、俺が顔を寄せると、静かに目を伏せる。そして、此方の唐突な行動をそっくりそのまま受け入れる。終わると決まって、不味い物を口にした様に顔を歪めるけれど。最初の一回目以降、彼は不満も何も言ってこなくなった。
あるがままで。しなやかで。気高い。そんな男が、自分にされるがままになっている、その様に、頭の天辺から爪先まで、どっぷり溺れた。
水一本、500ml。渡した水分の総量が彼の身体を占める水分量の半分に至った記念を、自分の中で勝手に打ち立てて。今日はいつも以上に、丁寧に、長く、深く、口内に舌を差し入れた。
歯列を辿り、上顎の凹凸をなぞり、舌の裏側の皮膚が薄い部分を突いて、存分に嬲って。後から後から湧いてくる唾液を、貪るように啜っていった。
互いの唇の間に銀糸が伝う。半開きのそれは紅く熟れた色をしている。俺が、その仕上がりに満足気に笑むのと同時に。和己の上体の力が、くたりと抜けた。腕と胸を使って受け止める。調子に乗って頸に唇を落としたら、引き換えに足を踏まれた。
高ぇんだけど、この靴。まぁいいか。なんて頭の端で考える。だがそれよりも、抱きとめたこの身体の薄さは、いい加減無視出来ない。さっきはプロならある程度は仕方がないと頭の中で一蹴出来たけれど、体感してみて気が変わった。これでは、いずれ。
「トップダンサーって、こんなに痩せてまで、なりたいもんなのか」
余計な事を口走りそうになる自己を押し留めながら、出来るだけ彼の負担にならない言葉を選ぶ。違うな。重いと思われたくないだけだ。つまりは保身だ。そんな気持ちで発した言葉が、相手にきちんと届く訳がなかった。
「倒れるまで、あの人の相手を続ける気か?」
「あんた、意外とおめでたい奴だな」
抱きとめた薄い肩が、一定のリズムで揺れる。和己は笑っていた。音もなく。
「あの人の相手をしてるだけでトップダンサーになれるなんて、本当に思ってるわけないだろ」
俺を嘲笑うようにしてそう口にすると、彼はゆっくりと顔を上げた。侮蔑混じりの視線を向けられて、胸の内側が大きく揺らぐ。頭は待ったを掛けているにも関わらず、俺は、その動揺に乗じて、いま一番言ってはいけない言葉を吐いてしまった。
「じゃあ、なんでこんな無理続けてんだよ」
そう、馬鹿みたいな質問をした瞬間。和己の顔から、表情という表情が、すう、と消え失せた。
分かりきった反応。なのに、俺は未だに。これで、彼がもし掴み掛かってきてくれたら。それで、夢のような言葉をいい加減口にしてくれたら。だなんて、どうしようもなく狡い考えを、頭の中で巡らしていた。そんな救いようの無い愚か者にはお似合いの、冷たい声が掛けられる。
「そこの自販機でさ、水一本買うと130円なんだよ。だから、これでいいか」
和己は、後ろポケットから財布を取り出して広げると、五千円札を指先で折って、俺のスーツの胸ポケットに差入れた。
「これまで、面倒掛けたな」
立ち上がり、階段を降りて行こうとする、その腕を咄嗟に掴んだ。けれど、振り返った彼の瞳には、此方に対する興味や関心といった熱量を伴った感情など、全く宿っていなかった。
「離せ」
「理由話したら、考えてやってもいい」
「どの?」
「これまでの、全部」
無理してツバメを続けてまで、店に来ていた理由。俺から送られるキスから逃げなかった理由。金を渡して今まさに逃げようとした理由。つまりは一言。病むほどに欲しい、その一言。
「言葉にしないと伝わらないくらい耄碌してるなら、まるっきり引退した方が身の為だと思うけど」
「へぇ、心配してくれてんの。ありがとな」
「馬鹿じゃねぇの」
何の感情の機微すら感じ取れなかった和己の瞳に、再び赤々とした焔が揺らめいた。例え怒りであっても、感情の矛先を何も向けられないよりかは、ずっといい。そんな風に考えてしまう俺は、全くもって度し難い屑だ。けれど、俺をそんな男にしてしまったのも、間違いなくお前なんだ。
これまで俺はそんな可哀想な存在を作っては捨てるを繰り返してきた側の人間だった。だから今こうして、情けないを形にしている人間が、どれだけ見窄らしい見目をしているのか、客観性を持って理解している。けれど俺は、そんな自分を押し留める事など出来なかった。
「どっちがだ、こら。人を誑かすのもいい加減にしろ」
「それ、あんたが言うんだ?俺をこんな風にした、あんたが」
俺に負けず劣らず、こんな風に、ぼろぼろになった理由。泣きながら、此方を詰ってくる理由。その全てを俺は知っているけれど。
「なぁ、和己」
全部全部、分かっているけれど。言わずには、いられなかった。
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「変態」
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【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
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