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第一章『不可思議な生き物』

二話『あ、じゃあ絶対禁煙しねぇ』

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洗面所まで時任を案内すると、彼はすぐさま洗面台の前へと進んだ。清々しい表情とは裏腹に、その顔面は蒼白だったので、吐くのか?と思ったが、どうやら違う様だ。彼は洗面台に辿り着くと、猛然と手を洗い始めた。その鬼気迫る姿を目の端で確認してから、俺は静かに洗面所のドアを閉めた。


「昴、どうした?」


洗面所から戻ってバックヤードに進むと、壁に背を預けていた富永さんが、稼ぎ頭の綾瀬としていた話を切り上げて此方に視線を寄越した。それに併せて、綾瀬も此方を振り返った。


「もう店閉める時間ですよ?」

「んー……ちょい待ち。富永さん、タオル下さい。小さいのでいいから」

「おう」

「誰か吐いたんですか?」

「いや、でも必要かと思って」

「へぇ、優しい。珍しくお持ち帰りですか?」

「ぬかせ」


タオルを用意してくれた富永さんにお礼を言ってそれを受け取ると、綾瀬の頭を後ろ手で小突いてから、バックヤードを出た。そして再び洗面所に向かうと、時任は案の定その場にしゃがみ込んでいた。やれやれ、この美人ちゃん、これでいて世話が焼けるな、と胸が感想を漏らす。そんな彼の顔の横にそっとタオルを寄せると、彼は緩慢な動作で此方を振り仰いだ。


前髪が濡れて、額にへばり付いている。顔を洗ったのだろう。顔色は、先程に比べれば多少はマシになっていたが、今にも卒倒しそうな雰囲気は変わっていない。油断は禁物といったところか。時任は、差し出されたタオルと俺の顔を交互に見やると、小さく苦笑いを浮かべてから、タオルを受け取った。


「酔っている様に、見えますか?」

「無理してんのは、分かるかな」

「あの女(ひと)にも、バレてたかな」

「いや、それは大丈夫だと思いますよ。時任さん、酔いが顔に出ないタイプみたいですし」

「なら、いいや……プロって凄いですね。隠しきれたと思ったのに」


その言われ様に、俺は静かに口許を和ませた。下手に謙遜するよりはマシだろうと思って、黙って受け入れる。洗面台に手を付きながらゆっくり立ち上がると、タオルで顔を拭う。すると、幾分か楽になったのか、時任は、ほぅ、と漏らすように息を吐いた。


「仕事、戻らないで大丈夫ですか?」

「俺が居なくても、回る様に躾てあるんで」

「羨ましいな。俺もそうなら楽なんだけど・・・代わりがないから」

「身一つの苦労とかは、積んでおいても邪魔になりませんよ」


口に出してから、はたりと気が付いた。随分と上からな物言いをしてしまった事に。


「あー……偉そうに、すみません」


調子に乗っていた訳ではないが、彼と俺とでは一回りは年齢が違いそうに見えて、綾瀬の様な若いホストと話をしている感覚で話し掛けてしまった。すると時任は、気にするなという風に、ゆっくりと頭を振った。


「勉強になりました。最初は緊張してたんですけど、来てみて正解だった」


成る程、出会い頭の固い対応は、緊張からくるものだったのか。場慣れしていない人間には全く見えない堂々とした態度であったが、あれが虚勢を張っている姿だとしたならば、存外可愛らしい所もあるじゃないか、と彼に対する第一印象を和ませた。


「タオル、ありがとうございます」

「あ、持っていて下さい。お帰りの際にも、必要なんじゃないですか?」

「じゃあ、お言葉に甘えて・・・近いうちに、返しますね」

「安物なんで、気にしないで下さい」

「いえ。俺がそうしたいので」


思いの外ハッキリとした口調で告げられたので、お?と目を瞬いた。頑固な人間は嫌いじゃないが、何というか・・・そんな一言では片付けられない芯の強さを、そこから感じ取ってしまって、思わず苦笑いを浮かべた。


「……なんつうか、律儀ですね」

「じゃないと出来ませんよ、こんな仕事」

「俺なんかに胡麻すっても仕方ないでしょ」

「どこでどう転ぶか分からないのが、世の常でしょう?」


成る程。この歳で、あの名振付師兼演出家の北瀬さんに目を掛けられる、売り出し中のダンサーなだけの事はある。これでいて、一通りの苦労はしてきたのだろう。若い身空で、大したもんだ。これなら、自慢したくなるのも分かるな、と腑に落ちて。見た目の幼さに騙されてはならないなと感じた。彼には、いい意味での落差がある様だ。うちの店にも欲しいくらいだが、こんな場所に閉じ込めてしまうのは勿体無いかな、と即座に断念した。しかし、そうしてごく自然に観察していく間に、段々と時任 和己という男自体への興味が湧いてきて、俺はいつの間にか胸に沸いた疑問を口にしていた。


「時任さん……さっき、あの人の耳元で、なんて言ったんですか?」


雑音に紛れて、此方まで届かなかった言葉。アレがあってからの北瀬さんの機嫌は、目に見えて向上した。接客のプロとして、捻くれたあの人に向けてどんな事を囁いたのか、無性に気になったのだ。


「……あぁ、あれ?」


くすりと小さく笑うと、彼は此方へとゆっくり歩み寄ってきた。その足取りはしっかりしていて、先程まであった頼りない印象は、全く感じ取れなくなっていた。


「手、貸してくれますか」


言われた通り、何の衒いもなく手を差し出す。すると、その手を恭しく取られて、その上から掌をふわりと重ねられた。同性だというのに、不思議と嫌悪感を感じなかった。互いの間に身長差は少しだけある。彼の方が数センチ程低い。だから、俺の耳元には、簡単に彼の横顔が寄せられた。


「側に置いてくれるのは、今だけ?」


甘く、低い囁き声がこそばゆくて、首筋の産毛が、さわさわと逆立つ。


「ほら、言って」

「……何を?」

「あの人の台詞」


先程の情景を思い起こして、記憶をなぞる。そして北瀬さんが先程放った言葉を、自然に口腔内に沸いた生唾をごくりと飲んでから、そのまま口にした。


「……『さぁて、どうしようかしら』」

「困った?」

「『ちょっとだけ』」

「じゃあ、実験成功かな」 


彼と話をしながら、思う。


「『あら、揶揄ったの?』」

「たまには、噛みつかせて?」


なんだこの、言い知れぬ色気は。この年の青年が、処世術で身に付けるレベルを超えている。


「……『もう、仕方のない子』」


くすくすという忍び笑いが漏れ聞こえてきたので、俺はカッと顔に熱を籠らせ、反射的に彼の側から身を引いた。かちりと合う視線。蠱惑的な笑み。唇の、紅。


「わん」


似せる気の無い、犬の鳴き真似。


それを聞いた途端、俺は無性に口が寂しくなって。その感覚を誤魔化すために、煙草を一本ばかし燻らせてみたくなった。


この衝動の押し殺し方が他にあるなら教えてくれ。そう尋ねたいのに、ここには俺達二人以外誰もいないから。俺は黙って、頬の内側の柔い部分を奥歯で噛み締めた。


◇◇◇◇


北瀬さんは、次の週も店に訪れた。前回の件で味をしめたのか、彼女は当たり前のように時任を連れてきた。前回の時よりも、更に砕けた態度で二人を出迎える。軽く挨拶した後に、無意識に時任へと視線を移すと、前回とは打って変わって、彼は人好きのする笑顔を此方へ向けた。


「先生、すみません」

「あぁ、そうだったわね。待ってるから、すぐにおいでなさいね?」

「はい」

若いホスト達が北瀬さんを予約席へと案内していく。その小さな集団を見送って、俺と時任だけがその場に残った。彼から直接声を掛けられた訳ではないけれど。そうした方がいいんだろうな、という空気や気配を肌の感覚でもって感じ、そして、その勘は当たっていた。小さな集団がホールに消えていくと、時任は後ろ手に持っていた紙袋をそっと持ち上げて、俺に手渡そうとしてきた。


いやいや、まぁまぁという決まり切った押し問答を二回程繰り返した後、その紙袋は俺の手に渡った。当たり前のように、前回渡したタオル以上の重みを感じる。有名な洋菓子店の包装紙が、紙袋からちらりと覗いていた。


「この間は、どうも」

「いや、大した事はしてないんで」

「愚痴、聞いてくれたでしょう」

「あんなの、数にも入らないですよ」

「へぇ、格好いいな」

「どうも」

「難しそうですね、敬語。無理しないでいいですよ」

「あ、分かりましたか?」

「ふふ……カマかけただけ」

「マジか、やられたなぁ」


悪戯が成功した子供のように笑われて思わず嘆息すると、痒くも無い顳顬を掻いてから、肩の力を、す、と抜いた。じゃあ、まぁ、お言葉に甘えますか。


「今日は、前みたいに飲み過ぎんなよ」

「飲まなくちゃ、やってられないのに?」

「また介抱されたいのか?お前そういう趣味でもあんの」

「やめて下さいよ、自分がそうだからって」

「ばぁか、俺はストレートだっつの」

「水向けたのどっちですか、プロなら冗談くらい流して下さい」

「あのな、マジで心配してるわけよ俺は。大人の忠告は聞きなさい」

「はいはい、ありがとう」


ひらりと手を振って、北瀬さんの待つ席に向かう後ろ姿を見て。ありゃ何言っても駄目だなと肩を竦める。実力に比例して、プライドの高さも折り紙つきのようだ。素直に人の話は聞かねぇか。このままだと北瀬さんに引っ張られてあいつ自身も常連になりそうだし、どうしたもんかね。


合流した時任……和己を、北瀬さんが笑顔で出迎えた。どうやら今日も席に着いて早々にシャンパンを開けたらしい。北瀬さんに迎えられ、彼女の隣に腰を下ろした和己はフロートグラスに注がれたそれを豪快に煽った。男達の歓声が上がる。それを視界の端で捉えてから、処置無し、と溜息を吐いた俺は、新しく来店した客の対応に戻って行った。


次に北瀬さんが仕切る席に顔を出した時、その場は既に宴もたけなわ、といった状態にあった。にも関わらず、和己は、いまだに酒に口を付けていた。一目見た瞬間に俺の中にある混じりっけのない親切心が突き動かされ、あちゃあ、と顔を掌で覆う。そして、前回で知れた、和己の酒量をとっくのとうに超えている事を、目の動きと表情だけで本人に向けて諭した。すると。


『わん』


周囲にいる人間達の視界の外。声も無く吠えられて。人より少しばかり堪忍袋の緒が長い自覚のある俺でも、上等、もう面倒見てやんねぇ、と心に決めた。


筈、だったのに。


「馬鹿だねお前。頭良さそうなのに」

「自然に使うね、ゲインロス効果。流石はプロだな」

「は?・・・何それ」

「最初の印象を下げてから落とすと、ギャップが狙えるって、恋愛テクニック」

「それだと下がりっぱなしじゃねぇか」

「あれ、俺いまなんて言った?」

「・・・もういいから水飲め」


どういう訳だか、自分はまた、此奴の介抱をしている。此奴のダンスは現代の至宝だの何だのと持て囃していた北瀬さんは、うちの稼ぎ頭である綾瀬をすっかりと気に入って、綾瀬に相手をされている内に、此奴がこうして一人店に取り残されている事すら気が付かずに帰宅の途に着いてしまった。だから尚更、俺は思った。何者にも変えがたい、経験則で。頭をぱっくりと割って繁々と見てみた訳でもなし、根本の作りが同じならば、人は須らく同種なのだと。


世界中に名を轟かせている振付師兼演出家であろうと、ダンスの神様に愛された天才であろうと、こうして正体を失ってしまう程酩酊してしまったからには、もはや此方の掌の中だ。酔っ払いの扱いは慣れている。なのに。


「はぁい」


非常階段。その中腹。手摺に頭を擡げて、鈴を転がす様にくすくすと笑う和己と目を合わせている内に。今迄培ってきた経験を総動員して此奴に対峙している自分がいる事に気が付いた。なんで、こんなに気を張り続けているんだか。此奴を見ていると、はらはらする。危なっかしくて仕方が無いし、どうあっても目が離せない。面倒なんて看たくないと、確かに思っていたのに、否応無く手を差し伸べてしまう。


蓋を、ぱきりと音を立てて開けてやってからペットボトルの水を差し出すと、和己は緩慢な動きでもってそれを受け取った。当たり前の様に水を受け取り、介抱される側に回る彼を見て、余計に神経が逆撫でされる。どうして自分がこんな事を、という疑念が胸の内側で膨らんで弾けたが、その不満が言葉として口の端から表される前に、和己の微笑みによって、その衝動は搔き消されてしまった。


「優しいな」


口だけだと、すぐに知れた。


「それが売りなんで」


だから、此方もおざなりに返した。


「営業時間外だけど」

「な、一銭にもなりゃしねぇ」

「損してる?」

「水一本分な」

「じゃあ、ツケといて」

「支払い北瀬さんだろうが」

「いま小銭ないし」

「あー、もう。いいから、ちゃんと飲めよ」

「なぁ、昴って、当たり前だけど源氏名だよな?」

「は?」


突然、何を言い出すんだ、此奴は。酒も飲んでいないのに、頭が痛くなってくる。


「本当の名前教えてくれたら、飲む」


そして、なんだその交換条件は。


「お前ね・・・いい加減にしろよ?優しいお兄さんも、そろそろ限界だぞ」

「怒った顔、見たい」


とうとう苛立ちを抑え切れなくなって、あぁ?と軽く恫喝すると、和己は何が楽しいのか分からないが、くしゃりと子供の様に笑った。


「気に入ってるんだ、あんたの顔」


あどけない表情と言葉遣いに、あっさりと毒気が抜かれてしまう。一瞬でこの場の張り詰めていた空気が変わってしまった事実に、豪快に舌打ちすると、階段を少しだけ上がって、和己の顔を斜め下から伺える位置に腰を下ろした。そして懐から取り出したジッポで、懐から取り出した煙草の先端を炙った。


「弘明」

「……ひろあき」


一息煙草を燻らせると、下から風が柔く吹き上げた。和己が座る位置、風下に向かって紫煙が流れていく。和己が身動ぎしたのが分かった。煙草の匂いが苦手な事は、何となく知っていた。


「弘明」


大分年下の癖に、いきなり馴れ馴れしく呼び捨てにしてくるその豪胆さに呆れはしたが、不思議と気に障りはしかった。俺は煙草をふかしながら、ん?と小さく和己を促した。


「水ってさ、たまに甘いよな」

「それ甘いの」

「うん。ていうか……」


煙草の煙を吸い込んだ和己が、こほり、こほり、と咳をする。けれど俺の心の中の何処にも、罪悪感は見当たらなかった。


「あんたから貰うものは、全部甘い」


その言い様に、思わず首だけで振り返る。手摺に顔を寄せたままの和己は、繰り返し咳をした事による生理的な涙で目を潤ませていた。なのに、口許にはゆったりとした笑みを浮かべていて。なに余裕ぶってんだ、と無性に腹が立って。もう一度煙草を燻らせてから、態と彼の顔に向かって紫煙を吹き掛けた。


「これも?」


静かに頷かれる。だが、やはり噎せはするようで、彼はまた一つ、こほりと咳をした。


「あとは?」

「視線」

「……は」

「甘い、あんたの」


ペットボトルの薄い蓋を閉めながら、何でも無い様に口にする和己を、まじまじと眺める。呆気にとられて、二の句が継げない。煙草の灰が、はらはらと風に舞った。熱くは無かったが、整髪料で固められた前髪に少しだけ纏わりついた。和己が手を伸ばして、それを指先で払ってくる。何の表情も浮かべずに。端整な作りのそれを目前にして。唐突に、胸がずくりと疼いた。


あって、いい筈がない。この界隈で長年に渡り成功者として名を馳せた自分が。こんな格好で自分の気持ちを自覚するなんて事。


「それってさ……俺めっちゃ、ダサいな」

「うん」


返答が率直すぎて、逆に笑えた。今時、餓鬼だってしない失態。俺は、くつくつと漏れる笑いを嚙み殺すと、携帯用の灰皿に煙草を捨てて内ポケットにしまった。立ち上がり、階段をまた上がり、今度は和己の隣に腰を下ろす。


この柔らかそうな黒髪は、触れたらどんな感触がするだろう。


この明らかに透き通った白い肌は、果たして本当に温かいのだろうか。


このふっくらとした唇の紅は、吸ったら、より深みを増すのだろうか。


想像が足早に現実に追い付いていく。


「苦い」


ゆっくりと顔を離すと、和己が初めて眉を顰めて不快を露わにしたので。あ、じゃあ絶対禁煙しねぇ、なんて、決めた。

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