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第二章『性悪説』
第八話『そんなに溺愛されても困ります』
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黒塗りの車を地下駐車場に停め、丸い形のドームが建物の上部にくっ付いているその施設に入ると、そこには家族連れや若い男女のカップルが沢山いて。この場所が一体どんな場所なのかは、一応経験としても、知識としても把握していたから、隣に立つ傑に対しても、僕から話し掛ける為の話題に困る事は無かった。
「僕、こういう場所、個人的に来たことないんだ。子供の頃に、学校の行事で、一度だけ」
「俺もそうですよ。お揃いですね」
「え?……女の子とかと一緒には来なかったの?」
「どうして?」
どうして……どうして?と言われても、なんと答えるのが正しいのか分からず、うぅんと唸ってしまう。暫く沈黙の時間が訪れてから、僕はゆっくりと口を開いた。
「彼女に、こういう場所に行きたいから連れて行って……とか、頼まれなかった?」
「ああ、彼女を作った事がないので、そういうのはありませんでしたね」
「え?……あ、そうか、傑って」
こんな人に囲まれた場所で、聞き辛い話をしてしまったな、と思った僕は、慌てて手のひらで自分の口を覆った。すると、傑はくすりと僕を笑ってから、僕の耳元にひっそりと囁いた。
「これまでは、そうした気分になった時にだけ相手にする人が何人かいて、それで事足りていたんです。お互いに詮索し合わない関係性なので、貴方の思う様な交際は一度もしていませんよ。だから、瀬那さんは安心して」
「え……なにを?」
「俺の彼女……いや、初彼氏は、貴方ですから」
きょとん、と目を見開き、繁々と傑の顔を観察して、その表情に嘘がないかどうかを検索するけれど。僕の審美眼の働かない目には純度100%の純真さしか感じ取れず。僕はこれから、この子か、この子の部下の手によって殺される筈なのに。こんな風にリップサービスまでしてきて、一体何を考えているか、全く、本当に良く分からない子だなと思いつつも、取り敢えず。
「飼い主じゃなくて?」
一応の認識の擦り合わせは必要だよな、と思い、そう口にした。
「確かに、俺は貴方を買い取りましたけど、それを笠に着て、飼い主としての特権を振り回すつもりはありません。貴方は、自分の人生を、俺と一緒に生きてくれれば、それでいい。それ以上の事は、特別、俺からは望んでいません」
真摯な眼差しで、僕の今後の取り扱いについて語る傑の言葉を、僕は、ふぅん、とそのまま聞き流した。何処まで信用したらいいのか分からないし、僕は、『そうなんですね、ありがとう。それじゃあ、これからもよろしくね』と言える立場にはない。僕を『買ってやった』という前提が傑の中にある以上、今はそう思っていても、今後、僕の生き方そのものに関わってくる可能性は充分に有り得るし。そもそも、その言葉全てを鵜呑みにするのは、愚の骨頂だとしか思えなかった。
面子を潰した人間への報復には余念が無く、上げて落とすを信条として掲げている人種が存在する事を、これまでの借金地獄の生活を送る中で骨身に染みて理解してきた僕に、死角はない。だから、いつ何時、傑が手のひらを返しても、僕は絶対に動じないつもりでいた。殺される事への恐怖を感じても、僕は、『傑に裏切られた』という感情だけは何があっても持ちたくなかった。
だって、自分を強姦してきた少年犯罪者の言葉を信用して、そいつが主演の恋人ごっこに興じるだなんて。そんな愚か者は、喜劇にだって登場しないだろうから。
大体に置いて、傑の語った、僕達の甘いラブストーリーの中では、僕達は絶対に結ばれてはいけない、悲しい運命の二人……的なノリで紹介されていた様な。あの、お互いの人生に巻き込まない為に、泣く泣くお互いを突き放すしかなかった、という脳内設定は何処に行ったのか。もしかしたら、あの中間管理職の男を撃った事で、傑の中では、その障害を乗り越えた事になっているのかな。決して交わる事の無かった二人の運命の糸が、一人の男の死によって混じり合い、そして……的な。だとしたら、ゾッとしない話だな。
しかも、結局その後、やる事はやっちゃってるし、俺の事は借金ごと買い取るし、終いには初彼氏とか……傑の考えている事や思考回路は、分かる様でいて、全く分からない。ただ唯一分かる事は、傑がまだ未成年で、そんな彼の人生の主役は、いつだって自分だという事だけだ。だけど、これだけで大体の事の経緯や、心理の揺れ動き等の説明がついてしまう。若いって、それだけで凄いし、怖いし、危なっかしいなぁ。
ご都合主義上等。傑の頭の中は、きっとそれ一色で塗り固められている。こんな人間にうっかり愛されてしまったら、それはそれは振り回される事になるんだろうな。それがもしかしたら、本当に僕なのかもしれないという問題については、今はまだ、あまり考えたくない。
アナウンスが始まり、場内に入ってチケット通りの席に付くと、リクライニングの深さに戸惑って、後ろの座席の女性グループの人達に、少しだけ迷惑を掛けてしまった。そんな僕を、くすりと優しく笑って、傑は、僕のリクライニングの調節を買って出てくれた。僕はこの子より歳上なのに、何とも情け無い。だけど、有難い事は間違いなかったので、その申し出を素直に受け入れた。
傑によって、疲れの出にくい位置に調節された椅子に背中を預けて、その心地良さに、自分の立場も弁えずに、ふにゃり、と笑いながら、うっかり素直になって、『ありがとう』と告げると。傑は、リクライニングを合わせる為に僕の肩付近に置いていた手をそのままに、僕の身体の上に覆い被さってきて……なんと、そのまま、僕の唇に、触れるだけのキスをしてきた。
僕は、そのままびしり、と石の様に固まり、後ろの席に座っていた女性グループからは、きゃあ、と小さな叫び声があがって。その声に気が付いた瞬間、身体が再び動く様になり、傑の肩や背中をタップして、『早く離れて』と視線と態度で懸命に伝え続けた。
唇を合わせてから、たっぷり一分は経過してから、漸く傑は僕を腕の中から解放した。だけど、茹で蛸の様になってしまった僕の顔のラインを、傑は、指先ですぅ、と辿って。満足気な深い笑みを浮かべながら、最後に顎の先端に指を到達させると、そこを手でしっかりと固定して、再び僕の唇に、しっとりと唇を合わせてきた。
恥ずかしいにも程があるし、どうしてこの子は、いつだって唐突なんだ、と焦りと共に苛立ちを覚えて。僕は歯を食いしばって傑の舌の侵入を防いでいたのを一旦取り止めて、舌先を傑の口の中にずる、と突っ込み、舌を傑の舌の裏に差し入れて舌全体を引き摺り出してから、その傑の舌に、痛みを伴うかどうか、という加減の甘噛みを一つして、傑を驚かせた。その拍子に、空いた舌や歯の隙間を利用して、ちゅる、と自分の舌を抜き取ると、傑の両頬を両手でつまみ上げて、キッと強い眼差しで、その顔を睨みつけた。
「こんな、場所で……何考えてるの、もう」
至近距離で睨み付けながら苛立ちを露わにすると、傑は、眩しい物を目にした様に少しだけ細めた眼差しに、とろりと黒蜜を煮溶かした様な情欲を含ませて、僕の頬をゆっくりと指の背で撫で上げてから、『ごめんね』と小さく謝ってきた。
「貴方の顔が目の前にあったから、つい。だって、こんなに可愛いんだから……俺に、キスする以外の選択肢があると思う?」
背後に座っていはり女性グループは、固唾を呑んで見守り体勢を取っている様で、先程までとは打って変わって、水を打った様に静かだった。その代わり、傑や僕の一挙一動を取りこぼすまいと、じっと見つめている様な視線を、後頭部に掛けてバシバシと感じた。
「可愛いとか、いいから。いまは、人前だし、そろそろ上映が始まるし、本当にやめて」
「ふふ、見られるの嫌?」
「当たり前です」
「なら、誰にも見られない場所なら、止めなくていい?」
ぎゃぁ、と小さな叫び声が後方で上がる。ああ、また飛び火が。でも、さっきよりはまだ、心境的にも慣れてきた。人間は、環境や状況に慣れる生き物なんだな、としみじみ実感する。とは言え、このまま調子に乗らせたままにして置いていい物でもないから、『駄目です、それも止めて下さい』と、きっぱりと断って、僕は、自分の口を真一文字に固く結んだ。
傑は、最後に一つだけ僕の額に唇を落とすと、人差し指を一本だけ口元まで持っていき、女性グループに向けて、片目を瞑った。それだけで、傑の意図は伝わった様で、女性グループはそのまましっかりと頷いてから黙り込んでしまった。僕は、何なんだ一体、この流れ……とこの施設の本来の使用目的であるプラネタリウムの上映が始まるまで、ぐったりと背もたれに身体を預けて、遠くの景色を眺める様な気持ちで、暗くなっていく室内の明かりに、ゆっくりと目を慣らしていった。
プラネタリウムの内容は、とても美しいもので。クリスマス当日という事もあり、世界のクリスマスの風景や、その都市から見える冬の夜空などの紹介を、クリスマスソングに合わせて上映していくものだった。大人から子供まで楽しめるその内容に、年甲斐もなく、わぁ、と小さく声を上げて見入っていると、隣にいる傑が、ふふ、と漏らす様な声を上げて。何だろうと思って隣に視線を移すと、傑はプラネタリウムの上映している天井部ではなく、僕の方を向いて、じっと僕の横顔を見つめていたのだという事実が発覚した。その瞬間、身体中がかぁ、と熱くなって。本当に、この男は、こんな場所にまできて何をしているんだか、と呆れて物が言えなかった。
『前、ていうか、上?……見なよ』
何とか気を取り直して、ヒソヒソと小声で注意するも、穏やかな笑みを浮かべられるばかり。もしかして聴こえていないのか?と気を回して、背中の動きに合わせてリクライニングが戻ってしまうのを気にしながら傑に顔を近付け、『上、見て』と、静かでも強い口調で再び注意すると。
『好きだよ』
吃驚するくらい、綺麗な笑顔で。驚くほど、会話にならない返事が返ってきて。僕は、そのまま口を、はく、と微かに動かしてから、それに対しては何も言わずに、再び世界中の暖かなクリスマスの風景が映し出されるスクリーンに、視線を移した。
顔が熱い。胸が、というか、心臓が、痛い。
どんな顔をして傑と対峙したらいいか分からなかったから、上映が終わると、足早にロビーに出て、後ろにいる傑には何も言わずに、小走りでトイレに駆け込んだ。そして、トイレ自体には寄らず、洗面台で顔を洗って、自分の気持ちを一旦リセットした。
「………っ、はぁ、……ッ」
どうかしてる。あんな、小手先というか、ちょっとした言葉選びに動揺して。いい遊び道具になってるじゃないか。それこそ、傑と、傑の周囲にいる人間達の思う壺だ。このまま、他人から始めて受け取る好意に気を良くしていったら、それが裏切られた瞬間の衝撃は計り知れないのに。大体、僕はこの後、命を絶たれる可能性だって、それこそ無事に生き残るよりも全然あるっていうのに。こんな調子では、死ぬ間際に、絶対にしたくないと心に誓った、見窄らしい命乞いをしてしまうかもしれない。
冷静にならないと。僕は、傑に買われた人間なんだから。生きるも死ぬも、傑の胸先三寸で、決まってしまう。死ぬならせめて、痛みは少ない方がいいし、だから、傑の、本心かどうかすら分からない気持ちは、ある程度受け止めて、そうしていくうちに相手の気持ちを和ませていって、それでも受け止めきれない部分は、受け流して……
『好きだよ』
無理だ、そんなの。
だって、僕は、身体も、心も、あの子に作り替えられてしまった、人間だから。
「………知りたくない」
僕はもう、一条 傑という人間を、知りたくない。
黒塗りの車を地下駐車場に停め、丸い形のドームが建物の上部にくっ付いているその施設に入ると、そこには家族連れや若い男女のカップルが沢山いて。この場所が一体どんな場所なのかは、一応経験としても、知識としても把握していたから、隣に立つ傑に対しても、僕から話し掛ける為の話題に困る事は無かった。
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「俺もそうですよ。お揃いですね」
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「どうして?」
どうして……どうして?と言われても、なんと答えるのが正しいのか分からず、うぅんと唸ってしまう。暫く沈黙の時間が訪れてから、僕はゆっくりと口を開いた。
「彼女に、こういう場所に行きたいから連れて行って……とか、頼まれなかった?」
「ああ、彼女を作った事がないので、そういうのはありませんでしたね」
「え?……あ、そうか、傑って」
こんな人に囲まれた場所で、聞き辛い話をしてしまったな、と思った僕は、慌てて手のひらで自分の口を覆った。すると、傑はくすりと僕を笑ってから、僕の耳元にひっそりと囁いた。
「これまでは、そうした気分になった時にだけ相手にする人が何人かいて、それで事足りていたんです。お互いに詮索し合わない関係性なので、貴方の思う様な交際は一度もしていませんよ。だから、瀬那さんは安心して」
「え……なにを?」
「俺の彼女……いや、初彼氏は、貴方ですから」
きょとん、と目を見開き、繁々と傑の顔を観察して、その表情に嘘がないかどうかを検索するけれど。僕の審美眼の働かない目には純度100%の純真さしか感じ取れず。僕はこれから、この子か、この子の部下の手によって殺される筈なのに。こんな風にリップサービスまでしてきて、一体何を考えているか、全く、本当に良く分からない子だなと思いつつも、取り敢えず。
「飼い主じゃなくて?」
一応の認識の擦り合わせは必要だよな、と思い、そう口にした。
「確かに、俺は貴方を買い取りましたけど、それを笠に着て、飼い主としての特権を振り回すつもりはありません。貴方は、自分の人生を、俺と一緒に生きてくれれば、それでいい。それ以上の事は、特別、俺からは望んでいません」
真摯な眼差しで、僕の今後の取り扱いについて語る傑の言葉を、僕は、ふぅん、とそのまま聞き流した。何処まで信用したらいいのか分からないし、僕は、『そうなんですね、ありがとう。それじゃあ、これからもよろしくね』と言える立場にはない。僕を『買ってやった』という前提が傑の中にある以上、今はそう思っていても、今後、僕の生き方そのものに関わってくる可能性は充分に有り得るし。そもそも、その言葉全てを鵜呑みにするのは、愚の骨頂だとしか思えなかった。
面子を潰した人間への報復には余念が無く、上げて落とすを信条として掲げている人種が存在する事を、これまでの借金地獄の生活を送る中で骨身に染みて理解してきた僕に、死角はない。だから、いつ何時、傑が手のひらを返しても、僕は絶対に動じないつもりでいた。殺される事への恐怖を感じても、僕は、『傑に裏切られた』という感情だけは何があっても持ちたくなかった。
だって、自分を強姦してきた少年犯罪者の言葉を信用して、そいつが主演の恋人ごっこに興じるだなんて。そんな愚か者は、喜劇にだって登場しないだろうから。
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ご都合主義上等。傑の頭の中は、きっとそれ一色で塗り固められている。こんな人間にうっかり愛されてしまったら、それはそれは振り回される事になるんだろうな。それがもしかしたら、本当に僕なのかもしれないという問題については、今はまだ、あまり考えたくない。
アナウンスが始まり、場内に入ってチケット通りの席に付くと、リクライニングの深さに戸惑って、後ろの座席の女性グループの人達に、少しだけ迷惑を掛けてしまった。そんな僕を、くすりと優しく笑って、傑は、僕のリクライニングの調節を買って出てくれた。僕はこの子より歳上なのに、何とも情け無い。だけど、有難い事は間違いなかったので、その申し出を素直に受け入れた。
傑によって、疲れの出にくい位置に調節された椅子に背中を預けて、その心地良さに、自分の立場も弁えずに、ふにゃり、と笑いながら、うっかり素直になって、『ありがとう』と告げると。傑は、リクライニングを合わせる為に僕の肩付近に置いていた手をそのままに、僕の身体の上に覆い被さってきて……なんと、そのまま、僕の唇に、触れるだけのキスをしてきた。
僕は、そのままびしり、と石の様に固まり、後ろの席に座っていた女性グループからは、きゃあ、と小さな叫び声があがって。その声に気が付いた瞬間、身体が再び動く様になり、傑の肩や背中をタップして、『早く離れて』と視線と態度で懸命に伝え続けた。
唇を合わせてから、たっぷり一分は経過してから、漸く傑は僕を腕の中から解放した。だけど、茹で蛸の様になってしまった僕の顔のラインを、傑は、指先ですぅ、と辿って。満足気な深い笑みを浮かべながら、最後に顎の先端に指を到達させると、そこを手でしっかりと固定して、再び僕の唇に、しっとりと唇を合わせてきた。
恥ずかしいにも程があるし、どうしてこの子は、いつだって唐突なんだ、と焦りと共に苛立ちを覚えて。僕は歯を食いしばって傑の舌の侵入を防いでいたのを一旦取り止めて、舌先を傑の口の中にずる、と突っ込み、舌を傑の舌の裏に差し入れて舌全体を引き摺り出してから、その傑の舌に、痛みを伴うかどうか、という加減の甘噛みを一つして、傑を驚かせた。その拍子に、空いた舌や歯の隙間を利用して、ちゅる、と自分の舌を抜き取ると、傑の両頬を両手でつまみ上げて、キッと強い眼差しで、その顔を睨みつけた。
「こんな、場所で……何考えてるの、もう」
至近距離で睨み付けながら苛立ちを露わにすると、傑は、眩しい物を目にした様に少しだけ細めた眼差しに、とろりと黒蜜を煮溶かした様な情欲を含ませて、僕の頬をゆっくりと指の背で撫で上げてから、『ごめんね』と小さく謝ってきた。
「貴方の顔が目の前にあったから、つい。だって、こんなに可愛いんだから……俺に、キスする以外の選択肢があると思う?」
背後に座っていはり女性グループは、固唾を呑んで見守り体勢を取っている様で、先程までとは打って変わって、水を打った様に静かだった。その代わり、傑や僕の一挙一動を取りこぼすまいと、じっと見つめている様な視線を、後頭部に掛けてバシバシと感じた。
「可愛いとか、いいから。いまは、人前だし、そろそろ上映が始まるし、本当にやめて」
「ふふ、見られるの嫌?」
「当たり前です」
「なら、誰にも見られない場所なら、止めなくていい?」
ぎゃぁ、と小さな叫び声が後方で上がる。ああ、また飛び火が。でも、さっきよりはまだ、心境的にも慣れてきた。人間は、環境や状況に慣れる生き物なんだな、としみじみ実感する。とは言え、このまま調子に乗らせたままにして置いていい物でもないから、『駄目です、それも止めて下さい』と、きっぱりと断って、僕は、自分の口を真一文字に固く結んだ。
傑は、最後に一つだけ僕の額に唇を落とすと、人差し指を一本だけ口元まで持っていき、女性グループに向けて、片目を瞑った。それだけで、傑の意図は伝わった様で、女性グループはそのまましっかりと頷いてから黙り込んでしまった。僕は、何なんだ一体、この流れ……とこの施設の本来の使用目的であるプラネタリウムの上映が始まるまで、ぐったりと背もたれに身体を預けて、遠くの景色を眺める様な気持ちで、暗くなっていく室内の明かりに、ゆっくりと目を慣らしていった。
プラネタリウムの内容は、とても美しいもので。クリスマス当日という事もあり、世界のクリスマスの風景や、その都市から見える冬の夜空などの紹介を、クリスマスソングに合わせて上映していくものだった。大人から子供まで楽しめるその内容に、年甲斐もなく、わぁ、と小さく声を上げて見入っていると、隣にいる傑が、ふふ、と漏らす様な声を上げて。何だろうと思って隣に視線を移すと、傑はプラネタリウムの上映している天井部ではなく、僕の方を向いて、じっと僕の横顔を見つめていたのだという事実が発覚した。その瞬間、身体中がかぁ、と熱くなって。本当に、この男は、こんな場所にまできて何をしているんだか、と呆れて物が言えなかった。
『前、ていうか、上?……見なよ』
何とか気を取り直して、ヒソヒソと小声で注意するも、穏やかな笑みを浮かべられるばかり。もしかして聴こえていないのか?と気を回して、背中の動きに合わせてリクライニングが戻ってしまうのを気にしながら傑に顔を近付け、『上、見て』と、静かでも強い口調で再び注意すると。
『好きだよ』
吃驚するくらい、綺麗な笑顔で。驚くほど、会話にならない返事が返ってきて。僕は、そのまま口を、はく、と微かに動かしてから、それに対しては何も言わずに、再び世界中の暖かなクリスマスの風景が映し出されるスクリーンに、視線を移した。
顔が熱い。胸が、というか、心臓が、痛い。
どんな顔をして傑と対峙したらいいか分からなかったから、上映が終わると、足早にロビーに出て、後ろにいる傑には何も言わずに、小走りでトイレに駆け込んだ。そして、トイレ自体には寄らず、洗面台で顔を洗って、自分の気持ちを一旦リセットした。
「………っ、はぁ、……ッ」
どうかしてる。あんな、小手先というか、ちょっとした言葉選びに動揺して。いい遊び道具になってるじゃないか。それこそ、傑と、傑の周囲にいる人間達の思う壺だ。このまま、他人から始めて受け取る好意に気を良くしていったら、それが裏切られた瞬間の衝撃は計り知れないのに。大体、僕はこの後、命を絶たれる可能性だって、それこそ無事に生き残るよりも全然あるっていうのに。こんな調子では、死ぬ間際に、絶対にしたくないと心に誓った、見窄らしい命乞いをしてしまうかもしれない。
冷静にならないと。僕は、傑に買われた人間なんだから。生きるも死ぬも、傑の胸先三寸で、決まってしまう。死ぬならせめて、痛みは少ない方がいいし、だから、傑の、本心かどうかすら分からない気持ちは、ある程度受け止めて、そうしていくうちに相手の気持ちを和ませていって、それでも受け止めきれない部分は、受け流して……
『好きだよ』
無理だ、そんなの。
だって、僕は、身体も、心も、あの子に作り替えられてしまった、人間だから。
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