7 / 10
第二章『性悪説』
第七話『最恐の未成年』
しおりを挟む
・
マンションの扉を開けて、中に入った瞬間に、分かった。僕が、一応は男だから、なのかも知れないけれど。このマンションは、完全なるヤる為の目的だけに用意された部屋だと。
玄関の靴棚はスペースが少ないのに、姿見の鏡だけは大きく。大理石のキッチンは使用された形跡が無く、グラスは多いのに皿は少ない。客室ごとに風呂場が付いていて、風呂場がガラス張りになっていて寝室から風呂場の全容が見渡せるし、客人を収容出来るキャパシティはあるにも関わらず、収納スペースは殆ど無い。これだけの要素が揃っていれば、鈍い人間であっても、このマンションの大体の使用目的がなんなのか位は分かる筈だ。つまり、こんなマンションに通された以上、これから先、自分の身に何が起こるかくらい、僕にだって分かるという寸法だった。
「寝室にカメラ用意してあるから、その前で服を脱いで。お風呂場に、腸内洗浄のキットも置いてあるから、カメラに向かってちゃんとお尻が見える様にするんだよ。上手くできたら褒めてあげる。でも、出来なくても落ち込まないでいいからね。まずは、一人で頑張る事が大切なんだから」
どちらが歳上なのか分かったもんじゃない言葉遣いをしてくる一条……傑は、僕が服の上から着ていたサンタの服を脱ぎ、黒塗りの車に誘われる形で乗り込んでからと言うもの、その態度をがらりと変貌させた。
クリスマスだからといって、何故か僕の左手薬指にピッタリと合うシンプルな指輪をプレゼントしてきたり、その指輪をせっせと僕の指に嵌めてから、お揃いの指輪を自分自身も嵌めて、その手をぴったりと上から重ね合わせてスマホで撮影会を始めたり。
まるで恋人同士の様に繋ぎ合わせた僕の手の指にちゅっ、ちゅっ、と音を立てて唇を落とすと、『爪の先まで可愛いね。食べちゃいたい』とうっとりと目を細めながら呟いて………本当に、どちら様でしょうか?という言葉が頭の中で乱立して、僕は、突っ込み所しかないこの状況を、呆気に取られながら受け流していった。
なんなんだ、一体。こいつの考えている事が、全く分からない。突然ちやほやし始めたと思ったら、マンションに着いた途端に、変態でしかない要求を真面目な顔で言い放つし。有無を言わさぬ状況に落とし込んで置きながら、『出来なくても落ち込まないで』なんて、謎の計らいをしてくる。別に、浣腸~排泄~洗浄のルートがちゃんと踏めなかったからといって、僕は落ち込まないし、何でもいいから、早く終われとしか思わない。
こいつの頭の中、どうなってるんだろう。自分自身も大好きで、自分の事めっちゃ好きな子を相手にしている様な、何だろう……兎に角、『俺の事が大好きな君の全てを、俺は受け入れるし、受け止めるよ』感が、あまりにも強くて。これまで、傑の圧倒的な勢いに流されがちだったけれど、流石に、これは一言言っておいた方がいいよな、と思い。
「………なんで、こんなに、優しいというか、良くしてくれるの?」
「え?だって、瀬那はもう俺の物なんだし、瀬那だって、俺の事、大好きでしょ?だから、俺の気遣いに対しても、申し訳ないとか思ったり、気にしなくてもいいんだよ。だって、もう俺達は、一心同体なんだから」
やはり、話が通じない人間というのは、この世に存在するんだな、としみじみ実感した。
「なんで、僕が、お前を……好きになっ……経緯、そう、何故そう思う様になったのかを、順を追って説明してくれない?」
「あはは、瀬那って本当に可愛い。俺達の馴れ初めを話し合いたかったの?なら、早く言ってくれたら良いのに………でも、そうだね。いくら早く繋がりたくても、そうした手順はきちんと踏まないと駄目だよね。寂しい気持ちに気が付いてあげられなくて、ごめんね」
いや、謝るとかいいし、クイーンサイズのベットにぴったり寄り添いながら腰を下ろして、僕の腰に手を回し、片方の手では僕の顔を引き寄せて、おでこに優しくキス……とか、本気で要らない。だから、はよ、経緯。
「俺達の出会い、覚えてる?聖さんのやってる歯医者で、初めて出会ったよね。その時、貴方は俺を視線で追い掛けて……俺が目を閉じて、貴方の視線をこの身に受けている間も、貴方は、俺から視線を外さなかった」
そして、始まる。一条 傑のいう、僕達の、『運命の出会い』についての、物語が。
◇◇◇◇
自分の姿に見惚れていた瀬那の視線に、傑は気が付いていた。そんな視線に気が付かない人間ではないけれど、四六時中、四方八方から浴びている其れに、いちいち反応しては男が廃るし、つまらない男に思えてしまう。傑自身は尻軽ではないというか、狙っている獲物……相手は一人に絞りたい人間で、あの時の傑は、歯科医の宗川に狙いを定めていたから、瀬那の視線には反応する事は叶わなかった。
窓口での岸と宗川の話も、恐らくは耳にしていただろうから、きっと自分には可能性が無いと思って、声を掛けては来ないだろうと、傑は踏んでいた。そして、その予想を裏切らずに、瀬那はその名前が呼ばれる寸前まで、傑をただ只管に見つめ続け、ついぞ自分からは声を掛けては来なかった。傑は、自分の名前が呼ばれて、慌てて視線を自分から外して、歯科の出入り口に向かって、恥ずかしそうに小走りで駆けていく瀬那を、フッと鼻で笑った。
慎ましく、謙虚な人間は好ましい。グイグイと自分の存在をアピールしてくる人間に、良い印象を持った試しは無い。でも、瀬那であれば、そんな風に自分の存在をアピールしてきても、不思議と不快には思わないな、と感じて。そう感じたのと同時に、受付の岸に呼ばれた名前を、自然と口の中で転がしていた。
『……笹川 瀬那、ね』
歯医者での出会いから数日、自分自身の親の会社……子会社ではなく、『本社』の跡目相続の話が佳境を迎え、周りの煙たい親族連中からの、早く身を固めて跡目を継いで欲しいという強い突き上げを受けていた傑は、息抜きも兼ねて外の空気を吸いに出た。どこもかしこも、傑を本社の跡目にと推している親族の息の掛かった人間達が言わずとも着いてきてしまうので、そんな時に逃げ込める場所は限られていて。そんな人間がついて来れない場所の一つが、総合病院の一角にある歯科だった。
歯科であれば、何かと都合を付けて通い易く、親族達からも口煩く言われない。何故なら、親族の上役連中達は、こぞって自分の歯に問題を抱えている人間達ばかりで、傑が幼い頃から、『自分の歯は大切にして下さい、坊ちゃん』などと言って口酸っぱく言ってきた者達ばかりだったからだ。そんな傑に、歯医者ばかり通って、などと文句を言える立場にはなく、かと言って、病院の中にまでぞろぞろと黒服達を送り込む事も叶わず。そんな自分の自由を取り戻し、一人きりの時間を過ごして、宗川という自分好みの美人に会いに来れる環境は、傑にとって、心のオアシスと言っても言い過ぎではなかった。
しかし、傑は、そこで再び、瀬那と遭遇を果たす。
『先生が折角処置してくれた歯を台無しにしてしまって、すみませんでした。ただ、今はそれに代わる歯を用意して頂くだけの余裕がなくて。せめて、傷口が塞がるまでの間の痛み止めの薬だけでも頂けないでしょうか?』
待合室にいても、その必死な訴えは、傑の耳にも届いた。その声には聞き覚えがある様な気がして、傑は、無意識のうちに、その声に耳を澄ませていった。
『お願いします。どうか、それだけでも……これ以上、母に心配を掛けたくないんです』
話振りからして、その人物が、金銭的に深刻な状況に置かれているというのは分かったので、傑は他人事ではあるものの、大変だなぁ、と少しだけ同情した。そして、それと同時に、傑は、そんな同情心を抱いてしまった自分自身に驚いた。どれだけの人を殺めても、無辜の人を闇に引き摺り込んで苦しませ足掻かせても、心の中に掻痒すら感じない人間が、他人に対して同情心を抱くだなんて。そんな自分自身が全く信じられなかったのだ。
そして、そんな同情心を俄かに胸中に沸き起こさせた瀬那が、自分の目の前に現れた瞬間。傑は、自分の胸が、どくん、と強く、不快感を持ってして脈打つ音を聞いたのだった。
赤黒く変色した、どう見ても誰かに強く殴られたという見方しか出来ない頬を、べったりとガーゼで覆った、見るも無惨な、その姿。それを目にした瞬間に、傑は、初めて自分以外の誰かの為に己の拳を振るう人間の気持ちを理解した。そして、気が付いた時には、既に、自分の意思とは無関係に、瀬那に声を掛けていた。
『殴った奴、下手くそだなぁ。跡に残る怪我させたら、面倒にしかならないのに。ビビらせるだけなら、『ぶん殴られた』って意識と痛みだけ与えて、跡にしないのがプロってもんでしょ。そう思いません?』
一体、誰にやられた。力加減から考えて、恐らく相手は男だろう。金絡みで問題を抱えている所と、周囲がこれだけ後押ししても他人に頼ろうとしない所を踏まえれば、どんな人間に纏わりつかれているかくらいは簡単に想像が付く。恐らく、三下もいい所の人間の仕業だ。
素人が。この顔に傷跡が残ったらどうしてくれようか。
だが、もしも、痴情絡みの問題ならば、例え相手が別会社に属していたとしても、会社同士の問題にも発展させずに対象出来るかも知れない。
自分の名前を出し、勝手に自分の持ち物に手を出した、として。
自分の会社や、子会社の人間や、堅気の人間であれば、尚の事対処しやすい。だが、それだけ自分が立ち回ってやるだけの価値が、果たしてこの男にあるのだろうか。頭に血が上りすぎて、冷静な判断が出来なくなっている自覚はある。だから、ここは一旦落ち着いて、笹川 瀬那という人間の出方を待とう。
男か、金か、それともその両方か。自分が手を差し出すだけの価値が、この男にあるのか。それを見極める為に。
『DVなら仕方ないけど、好きでもない相手からなら、訴えた方がいいよ。だけど、それ以上に厄介な相手だっていうなら、ちゃんと最後まで戦いな。道端の蟻みたいに踏み潰されても仕方ないと思ってんなら、話は別だけどね』
『DVなら、仕方ないって、なんで』
男か?
『好きなんでしょう?洗脳かもしれないけど。でも、そこに二人にしか分からない幸せがあるなら、他人が口挟む問題じゃないじゃん』
『それは、でも、突き放し過ぎてやしない?』
『何、違うとは思うけど、あんたそれなの?』
『違う、けど』
ならば、金か?
『じゃあ、目の前に居もしない可哀想な人なんて同情してないで、自分の事もっと大事にしなよ。他人の心配するよりか、まずは、自分でしょ』
自分が、助ける価値は、この男にあるのか。
『自分が、幸せになる方法、考えなくちゃ』
自分は、この男を、どうしたいのか。
『折角、あんた、可愛い顔してんだしさ』
自分は、この男と、どうなりたいのか。
『勿体無いよ』
その答えは、恐らく。瀬那に声を掛けるという選択肢を選んだ瞬間に、自分自身の中にあった。
けれど、自分は。どうあっても、真っ当な生き方を選べない人間で。人の不幸を、人の屍を、山々にして築き上げ、その上にどっかりと椅子を置き、その椅子に踏ん反り返って座りながら、欠伸を一つ打たなければならない、そんな人種で。
だから、間違っても、そんな人間には、関わらせてはいけないんだ。
それが、自分にとって、大切な存在であれば、あるほどに。
『一条 傑さん、中へどうぞ』
『あ、呼ばれた。じゃあね………『おにーさん』』
笹川 瀬那さん。俺は、貴方と、普通の出会いをして、普通に恋をして、普通に結ばれる事は、出来ません。貴方を、俺の人生に巻き込むことは、したくない。貴方の幸せを、誰よりも側で祈りたいけれど、それは、どうあっても叶わない願いだから。
貴方の知らないうちに、貴方が俺の手を借りて、幸せになれたとしても。
『あと、俺に惚れても良いけど、面倒臭いから、嵌まったり纏わり付いたりしないでね』
貴方は、どうか俺を忘れて、幸せに生きて下さい。
『しない』
胸を劈く、鋭い刃の様な眼差しと、声と、拒絶。それを、この身に受けた瞬間に、傑は。
この世で、最も一番深い愛とは。
エロス(情欲的な愛)
フィリア(深い友情)
ルダス(遊びとゲームの愛)
アガペー(無償の愛)
プラグマ(永続的な愛)
フィラウティア(自己愛)
ストルゲー(家族愛)
マニア(偏執的な愛)
その、どれでも無いことを知った。
『君に、恋なんてしない。絶対に。君に何が分かるの。僕のこの絶望が、悪夢が、どれだけ深いか知らない癖に。今こうして、季節の変わり目にしか見れない窓辺の紅葉に、ほんのひと時だけでも癒されたいと思う僕の邪魔をして……言いたい事だけ、偉そうにペラペラと。何様なの。誰だよお前。なんでも良いから、僕の時間を、返して』
どれだけの献身を捧げようと。どれだけの愛を捧げようと。それを、『自分の時間を邪魔するな』という理由一つで無碍にする、瀬那のその傲慢さに、傑は、全身が痺れる程の多幸感を感じた。
初めて心の底から愛した者に、その愛を無碍に扱われる、快感。
しかし、傑は、知っている。瀬那が、どれほど自分自身の不幸に、他の人間を巻き込まずに生きようとする、潔白な人間なのかを。
自分自身が、瀬那を自分の生きる世界に巻き込んではならないと、敢えて瀬那を突き放したのと、同じ様に。瀬那は、今こうして、これ以上自分に近付いてはならないと、手を差し伸べようとする他者達に対して、懸命になって、毛を逆立てているのだと。
これほどの深い愛を、自己犠牲を、配慮を、自分に向けてくれた人を、傑は、知らない。この愛を、笹川 瀬那という存在を知らずに生きてきた、自分のこれまでの人生全てが、まるで霞の様に感じられる程に、傑の全身は、圧倒的な幸福感に包まれていた。
『ふぅん。おにーさん、最初の時と全然印象違うね。悪くないなぁ。俺、今のあんたの方が、好みかも』
戯れ合いすらも、愛おしい。
『いいから、さっさと僕の視界から消えて』
その拒絶すらも、愛おしい。
貴方の全てが、愛おしい。
だから、貴方が望むなら、俺は。
『お前なんて、死ねばいい』
それが例え誰であっても、自分のこの手で、排除する。
貴方は、俺の運命の人だから。
◇◇◇◇
「あの人は、初めて、俺に銃の撃ち方を教えてくれた人で。歯医者に熱心に通う様に勧めてくれたのも、その人で。幼い頃から、俺の教育に携わってくれた、父親からの信頼も厚かった人でした」
話が、通じないのも、仕方がないなと、思った。
「娘さんが二人いて、どちらかを俺に嫁がせようとしてくれてたんだけど、その娘さん達が他に男を作ってしまって、そいつがその人の管理していた『子会社』の若い衆だったもんだから、そこでケチが付いてしまって。そこからズルズルと、出世街道から外れて行ったんだ。それから先は、見ていられないくらいに金に意地汚くなって、人柄も底意地が悪い人に変わっていって、立場も以前より低くなって……父親の信頼も次第に途切れていった」
生きている世界が違うという事は、見えている世界が違うという事だから。
「女に唆されて、子会社の金にも手を出し始めて。だから、そのまま野放しにして、会社全体の士気に影響が及ぶ前に、いつかは、ああするしかなかった。そして、会社全体の士気を高めて、社員全員の信頼を一度に集めて、本社の跡目相続に向けて地盤を固める為には、俺が殺るのが一番手っ取り早かったんだ」
価値観の違いが当たり前の様に、両者の間に聳え立つのは、仕方のない事なんだ。
「貴方があの場で俺に助けられたのは、流石に偶然ではなかったけれど。運命の再会としては、気が利いてたでしょう?愛する人を守る為に自分の身内を手に掛けた男と、その男の手から救い出されたオンナが、その男の死体を前にして、あんなラブシーンを展開するなんて、望んでもなかなか演出出来ないし。だからさぁ、教えて欲しいんだよね」
だから、顳顬に銃口を突きつけられながら話される、僕達の甘い甘いラブストーリーが、例えどれだけ僕の胸に空虚に鳴り響いていても。それに、異議を申し立てたり、話の途中で口を挟める権利なんて、僕には初めから存在しないのだ。
「なんであの日、俺を置いて逃げたのか」
引き金が、がち、と耳元で引かれる音が、頭蓋骨越しに、身体全体に響き渡り。僕は、浅く繰り返す呼吸の合間に、何とか傑の気持ちを落ち着かせる言葉を生み出そうと、必死になって頭を働かせた。
「ぼ、く……目の前で、ひとが、しんで、きが、動転してて……頭が、まっしろになって、だから、気が付いたら、その……」
「あっそう。俺も気が動転したよ。まさか、本当にあのおっさんのちんこ咥えるとは思わなかったから。俺、これでも一途な人間だから、撃つ時も手元が狂わなくて良かったなって。でも、この距離なら絶対手元が狂ったりしないよね」
「ごめ、なさ……ごめんなさい」
「んー、別に謝れって言ってるんじゃないんだよね。身内を手に掛けてまで、死ぬ気で貴方を助け出した俺にさ、何か一言あっても良かったんじゃない?って言いたいの……ただ、それだけなんだ」
謝っても、本当の事を言っても、この男の胸には、響かない。なら、他にどうしたら良いのか、分からなくて。だけど、只管に謝り続けるにしても、この男にとっての正解では無い以上、この状況を打開するのは不可能だという事だけは、確かで。
震える身体を、カチカチと鳴る歯を、押し留めて、この男が求めている正解がなんなのかを、必死になって、考え続けた。
感謝だろうか。有り体に考えれば、それが一番正しい答えの様な気がする。『助けてくれて、ありがとう』それが、傑の求める答えだろうか。だけど、それは、何故だか、今この場面で、一番口にしてはいけない言葉であると、僕の心が叫び声を上げて押し留めていた。
それでは、『僕の為に、大切な身内である人を殺してくれて、ありがとう』と言っているのと同じだ。確かに、傑は、僕の意外性のある傲慢な態度を見て、そこからありもしない愛情を感じ取り、すっかりとお互いが恋に堕ちたと思い込んでくれている様だけど。その事実を元にして居直ってしまうというのとは、全くの別問題なのだ。だからこそ、こうして、僕の顳顬に冷たい銃口を押し付けたまま微動だにせず、僕の口から自分の求める正解が導き出される『以上』の結果を求め続けている。
僕が生き残る為には、傑の中にある既存の常識を覆す必要があるんだ。
そう思い付いた瞬間に、傑は、このまま、この僕と結ばれ、この僕と本当に一緒に幸せになって……そんな、未来を本気で夢見ているんだろうかと、ふと、そんな考えが頭を過った。そう考えついた、瞬間。僕は、天啓の様に、悟りを得たんだ。
僕を迎えにきてからの会話も、行きの車の中の甘い空気も、このマンションも、寝室からお風呂場に至るまでの仕掛けも、その全てが、フェイクであると。
「何でも暴力で解決しようとする人は、嫌いだ。だから、助けてくれたのは、本当に助かったとは思ったけど、何も、本当に殺す必要は無かったんじゃないかって、今でも思う」
傑の話だけを信じて、良いわけがない。本当にあの男が、会社にとって、傑の勢力にとって、邪魔な存在だったのかも、不透明なのだから。
僕を救い出す為に、命懸けであの場所に潜り込んで来たのかもしれない。そう、それこそ、本当に『死ぬ気』で。そして、もしかしたら、そのまま命を散らすかもしれない自分の人生の最後のひと時を、僕と共に過ごしたいと願っていたのかもしれない。
そして、あの場所から僕だけを逃す最適な環境を整えて、会社の方針に孤軍奮闘の勢いで逆らいながら、僕をあの場所から送り出そうとしていたとしたら……全て、想像でしかないけれど。もしその考えが正しかったとしたら、僕の幸せな人生だけを願い続けてきた傑や、それを陰ながらサポートしてきた目には見えない人達の気持ちを全て裏切って、傑を置いて一人逃げ出した僕を、傑や、その周囲の人間達が逆恨みしていたとしても、なんら不思議では無かった。
こうした人種は、得てして、己の面子が潰される事を、一番忌避している。それを、僕は、これまでの会社の人間達に甚振られてきた人生で、骨身に染みて理解していた。だから、僕の為に影ながら動いていた自分達の面子を潰した癖に、のうのうと、あんなに目立つ場所で、あんなに目立つ格好で、クリスマスケーキ何ていう幸せの塊を売っていた僕を、そう簡単に傑の周りにいる人間が許せる筈もない。
それはきっと、傑自身にとっても。
しかし、これだけは確かだ。僕は、まだスグと、その周囲にいる人間達の手に掛けられずに、生かされている。だとしたら、今のこの状況は、文字通りに僕の命運が掛かった、ラストチャンス。
僕は、あらゆる人間達によって、命そのものの品定めを受けている真っ最中……なのかもしれない。
「だけど、僕の常識と、傑の生きる世界の常識は違うし、これから先も、どれだけ一緒にいても、その価値観の差は埋められないと思うから。傑が、あの人を殺してしまった事に対しても、言える事は、何もないし。あの人の死を願ってしまった僕には、そもそも、そこを論ずる資格なんて無いと思う」
深い愛情は、翻れば、強い憎しみとなる。甘い言葉も、高価な指輪も、甘ったるいラブストーリーも、傑の中にある僕への憎しみや、溜まりに溜まった目に見えない人間達の憂さを、思う存分に晴らす為の仕掛けだとしたら。
『持ち上げられてから落としてやった方が、見ていて気持ちが良い』
それが、傑の様な人間が生きる世界の人間達の持つ、常識や感性なのだとしたならば。
「僕には、君が思うほどの価値なんて無い。そんな僕の為に、こんなに頑張って、身内まで手に掛けて、しかも、そんな僕にはあっさり逃げられて……その後も、会社の人間の反感を買った僕の命を陰ながら守ってくれていただろうに、僕は、あんなに目立つ場所で、のうのうとケーキを売っていた。これまで散々守ってきてやった自分達の気も知らないでって、恨まれて、憎まれて、当然だと思う……いまの君みたいに」
僕に、逃げ道なんて、最初からありはしないのだ。
「だから、死ぬ前に、せめて、これだけ言わせて」
つまり、この僕が人生で最後に出来るのは、この銃に撃たれて死ぬ前に、せめて、この人の気持ちに、誠心誠意報いる事のみ。その後、崖から真っ逆さまに突き落とされても、その姿を指を刺されながら嘲笑されようとも、僕は、僕の気持ちに最後まで正直に生きる。
僕を、一度でも助けようとしてくれた、この人が、『あんなちんけな奴に嵌って、あいつも下手打ったな』と、周囲の人間達から、これ以上、嘲笑されない様に。
「こんな僕を、見つけてくれて、好きになってくれて、ありがとう。もっと早く、出会いたかった。もっと後に、生まれたかった。友達から始めて、親友になって、どんな悩みも相談しあって、慰め合って、喧嘩して、許し合って……君と、ちゃんとした絆を結びたかった」
死ぬのが分かると、怖いもの知らずになれる。だから、僕の口はするすると滑らかに動いて。心のままに、自分の本音を口にしていった。
「そしたら、もっと、素敵なハジメテが、出来たかなぁ……なんてね。あはは、今のは冗談だから、忘れ……」
なんだか、段々と調子に乗って、口を滑らかにし過ぎたな、と思って、恥ずかしくなって頬を掻いていると、僕の顳顬に押し当てられたままだった銃口が、スッと静かに離された。
僕は、『あれ?撃たないの?』と思って、内心で首を傾げて、傑がいまどんな顔をしているのかと、恐る恐る、目線だけを動かして、その表情を窺った。すると、そこには、今にも大粒の涙を零しそうになりながら震えている、見る者全ての庇護欲を掻き立てる様な姿になった傑がいて。僕は、ギョッと目を剥いてから、慌てて何か拭く物を持っていないかと自分自身の身体検査をした。
すると、ズボンのポケットに一つだけ、ケーキ売りのバイトを始める直前にしていた、テッシュ配りのバイトの余りのポケットティッシュが見つかって。僕は、それをすぐさま開封してから、傑の頬を伝い始めた涙を、優しい手付きを意識しながら、そっと拭った。
「な、なんで……どうして、こんなに、泣いて。何が君にあったの……」
「……貴方の、所為です」
「……そ、うなんだ……そっか……なんだか、その………本当に、色々と、ごめんね」
自分の所為で泣いてしまった人間を前にしたら、人は平謝りするしか無くなってしまう。面倒だと思う人も居るには居るらしいけど、多分そういった人とは僕は話が合わないので、関わらない方がお互いの身の為だ。傑は、きっと、これまで僕を助ける為にも、その後の僕の命を守る為にも、必死になって周りに掛け合って、僕の為に動いてきてくれたんだろう。その努力を、経緯を、口にする機会は、これから先も訪れないかもしれないけれど。何も言われなくても、その努力や、僕に掛けた気持ちだけは、受け止めなくちゃいけないよな、と思った。
僕に対する、本当にあるかどうかも分からない好意に関しては、その、まだ、受け止めきれていない部分の方が、大きいのだけれど。
「……瀬那、さんは、どんなハジメテが、良かった、ですか」
「……え?」
突然だなぁ、この子はいつも。こうした話し方をする子は、大抵、甘やかされて育った末っ子に多い気がする。敬語も、何で無理して使ってるんだろう。最初からタメ口だったのに、今更ですか、という気持ちはあるけれど。とは言え、話が前に進まないので突っ込んだりはせず、そのまま、うぅん、と考え込んでしまった。
「夢というか、願望としては、綺麗な夜景が見える公園で、ゆっくり散歩して、あったかいココアとか飲みながらお話して、お互いのどちらかの家に帰ったら、そこで自然に……とかかなって」
うわ、恥ずかしい、なんてもんじゃない。今時、こんな話、というか妄想、高校生でもしないだろうに。なんだか、僕の経験人数の少なさが露呈している感覚が凄くて、顔が熱くなってしまうのを抑えられない。僕が、羞恥心に身悶えていると、傑は、手に持っていた拳銃を枕元のテーブルに置いて、がばりとベッドから立ち上がり、僕の腕を掴んで僕まで立ち上がらせて、そのままずんずんと寝室の出入り口に向かって歩き出した。そして、その勢いを衰えさせる事もなく、長い廊下を歩き、今いるマンションから出て、胸ポケットに入れてあったスマホを取り出して、誰かと連絡を取り始めた。
無言で促される形で靴を履いて、マンションの廊下に出ると、傑は、僕の手を再び掴んで、駐車場まで直通で運転しているエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの扉が開いたら、直ぐ目の前に、横付けされた黒塗りの車がでん、とのさばっていて。傑は、殆ど無表情のまま、僕に先に乗る様にと促した。
もしかして、僕はこのまま海か山か何処かに連れて行かれて、そこで、背中に銃を突き付けられながら、自分の入る墓穴を掘らされたり、足にコンクリートの塊を括り付ける様に促されたりするんだろうか……と遠い目をしながら乗り込んでシートベルトを締めると、車はすぐに出発した。到着予定時刻も、これから先どこに向かうかも知らされていない。教えてくれるかは分からないけれど、一応は、気持ちの準備をしておきたいから、隣に座る傑に、小さな声で尋ねてみる事にした。
「あの、さ……僕達、これから何処にいくの?」
「今日は生憎の雨だったでしょう。だから、綺麗な夜景が見られる場所は少ないので、これからそれを打開できる場所に向かいます」
『夜景が見たいの?どうしていま?』という疑問は、僕の、シートの上に投げ出された左手を、上から包み込む様にして繋ぎ始めた傑の、真っ赤になった耳を見た瞬間に、霧散して。これが、演技や何かで出来たなら、この子は冗談抜きで俳優業にも向いているな、と心から思った。
僕を助ける為に身内の人間の命を奪い、あれだけの無体を僕に強いた人間と、同一人物だとは全く思えない。やっている事は無茶苦茶だし、人身売買とかブラックな言葉を平然と口にしたり、情緒もいまいち安定していない気もするし。なんていうか、そう、子供だ。身体の大きな、幼い子供。思考回路が、大人のそれとは違うんだよな、どうも……と、そこまで考えて。そう言えば、傑は一体いくつなのかなと、自然な疑問を胸に抱いた。
「ねぇ、そう言えば、傑は、歳はいくつなの?」
「え……」
なんだか、口をぽかんと開いて、何処となく嬉しそうな顔してる。なんでだろう。君ほどの唐突さのある質問では無いと思うんだけどな。と思っていると、傑は僕の疑問に答える様にして、はにかみながら。
「18です。一応、高校にも通ってます……貴方が、俺に興味持ってくれるの、嬉しいな」
傑の持つ羞恥心や、僕の興味が自分に向いて嬉しいという、本当にあるかどうかも分からない感情が、僕にまで移ってしまったんじゃないかと思うくらいに、目的地に着くまで、車の中はずっと静かなままで。そして、そんな空間の中にいた僕の頭の中には、傑に対して言いたい事が、山の様に堆く積もり積もっていって。
だけど、アレも、コレも、僕との出会いや馴れ初めに対する脳内妄想に至るまでの全部が、未成年のした事なのか、と思ったら。
「……そっかぁ。成る程ね」
偏見でしかないけれど、酷く納得がいったのは、確かだった。
マンションの扉を開けて、中に入った瞬間に、分かった。僕が、一応は男だから、なのかも知れないけれど。このマンションは、完全なるヤる為の目的だけに用意された部屋だと。
玄関の靴棚はスペースが少ないのに、姿見の鏡だけは大きく。大理石のキッチンは使用された形跡が無く、グラスは多いのに皿は少ない。客室ごとに風呂場が付いていて、風呂場がガラス張りになっていて寝室から風呂場の全容が見渡せるし、客人を収容出来るキャパシティはあるにも関わらず、収納スペースは殆ど無い。これだけの要素が揃っていれば、鈍い人間であっても、このマンションの大体の使用目的がなんなのか位は分かる筈だ。つまり、こんなマンションに通された以上、これから先、自分の身に何が起こるかくらい、僕にだって分かるという寸法だった。
「寝室にカメラ用意してあるから、その前で服を脱いで。お風呂場に、腸内洗浄のキットも置いてあるから、カメラに向かってちゃんとお尻が見える様にするんだよ。上手くできたら褒めてあげる。でも、出来なくても落ち込まないでいいからね。まずは、一人で頑張る事が大切なんだから」
どちらが歳上なのか分かったもんじゃない言葉遣いをしてくる一条……傑は、僕が服の上から着ていたサンタの服を脱ぎ、黒塗りの車に誘われる形で乗り込んでからと言うもの、その態度をがらりと変貌させた。
クリスマスだからといって、何故か僕の左手薬指にピッタリと合うシンプルな指輪をプレゼントしてきたり、その指輪をせっせと僕の指に嵌めてから、お揃いの指輪を自分自身も嵌めて、その手をぴったりと上から重ね合わせてスマホで撮影会を始めたり。
まるで恋人同士の様に繋ぎ合わせた僕の手の指にちゅっ、ちゅっ、と音を立てて唇を落とすと、『爪の先まで可愛いね。食べちゃいたい』とうっとりと目を細めながら呟いて………本当に、どちら様でしょうか?という言葉が頭の中で乱立して、僕は、突っ込み所しかないこの状況を、呆気に取られながら受け流していった。
なんなんだ、一体。こいつの考えている事が、全く分からない。突然ちやほやし始めたと思ったら、マンションに着いた途端に、変態でしかない要求を真面目な顔で言い放つし。有無を言わさぬ状況に落とし込んで置きながら、『出来なくても落ち込まないで』なんて、謎の計らいをしてくる。別に、浣腸~排泄~洗浄のルートがちゃんと踏めなかったからといって、僕は落ち込まないし、何でもいいから、早く終われとしか思わない。
こいつの頭の中、どうなってるんだろう。自分自身も大好きで、自分の事めっちゃ好きな子を相手にしている様な、何だろう……兎に角、『俺の事が大好きな君の全てを、俺は受け入れるし、受け止めるよ』感が、あまりにも強くて。これまで、傑の圧倒的な勢いに流されがちだったけれど、流石に、これは一言言っておいた方がいいよな、と思い。
「………なんで、こんなに、優しいというか、良くしてくれるの?」
「え?だって、瀬那はもう俺の物なんだし、瀬那だって、俺の事、大好きでしょ?だから、俺の気遣いに対しても、申し訳ないとか思ったり、気にしなくてもいいんだよ。だって、もう俺達は、一心同体なんだから」
やはり、話が通じない人間というのは、この世に存在するんだな、としみじみ実感した。
「なんで、僕が、お前を……好きになっ……経緯、そう、何故そう思う様になったのかを、順を追って説明してくれない?」
「あはは、瀬那って本当に可愛い。俺達の馴れ初めを話し合いたかったの?なら、早く言ってくれたら良いのに………でも、そうだね。いくら早く繋がりたくても、そうした手順はきちんと踏まないと駄目だよね。寂しい気持ちに気が付いてあげられなくて、ごめんね」
いや、謝るとかいいし、クイーンサイズのベットにぴったり寄り添いながら腰を下ろして、僕の腰に手を回し、片方の手では僕の顔を引き寄せて、おでこに優しくキス……とか、本気で要らない。だから、はよ、経緯。
「俺達の出会い、覚えてる?聖さんのやってる歯医者で、初めて出会ったよね。その時、貴方は俺を視線で追い掛けて……俺が目を閉じて、貴方の視線をこの身に受けている間も、貴方は、俺から視線を外さなかった」
そして、始まる。一条 傑のいう、僕達の、『運命の出会い』についての、物語が。
◇◇◇◇
自分の姿に見惚れていた瀬那の視線に、傑は気が付いていた。そんな視線に気が付かない人間ではないけれど、四六時中、四方八方から浴びている其れに、いちいち反応しては男が廃るし、つまらない男に思えてしまう。傑自身は尻軽ではないというか、狙っている獲物……相手は一人に絞りたい人間で、あの時の傑は、歯科医の宗川に狙いを定めていたから、瀬那の視線には反応する事は叶わなかった。
窓口での岸と宗川の話も、恐らくは耳にしていただろうから、きっと自分には可能性が無いと思って、声を掛けては来ないだろうと、傑は踏んでいた。そして、その予想を裏切らずに、瀬那はその名前が呼ばれる寸前まで、傑をただ只管に見つめ続け、ついぞ自分からは声を掛けては来なかった。傑は、自分の名前が呼ばれて、慌てて視線を自分から外して、歯科の出入り口に向かって、恥ずかしそうに小走りで駆けていく瀬那を、フッと鼻で笑った。
慎ましく、謙虚な人間は好ましい。グイグイと自分の存在をアピールしてくる人間に、良い印象を持った試しは無い。でも、瀬那であれば、そんな風に自分の存在をアピールしてきても、不思議と不快には思わないな、と感じて。そう感じたのと同時に、受付の岸に呼ばれた名前を、自然と口の中で転がしていた。
『……笹川 瀬那、ね』
歯医者での出会いから数日、自分自身の親の会社……子会社ではなく、『本社』の跡目相続の話が佳境を迎え、周りの煙たい親族連中からの、早く身を固めて跡目を継いで欲しいという強い突き上げを受けていた傑は、息抜きも兼ねて外の空気を吸いに出た。どこもかしこも、傑を本社の跡目にと推している親族の息の掛かった人間達が言わずとも着いてきてしまうので、そんな時に逃げ込める場所は限られていて。そんな人間がついて来れない場所の一つが、総合病院の一角にある歯科だった。
歯科であれば、何かと都合を付けて通い易く、親族達からも口煩く言われない。何故なら、親族の上役連中達は、こぞって自分の歯に問題を抱えている人間達ばかりで、傑が幼い頃から、『自分の歯は大切にして下さい、坊ちゃん』などと言って口酸っぱく言ってきた者達ばかりだったからだ。そんな傑に、歯医者ばかり通って、などと文句を言える立場にはなく、かと言って、病院の中にまでぞろぞろと黒服達を送り込む事も叶わず。そんな自分の自由を取り戻し、一人きりの時間を過ごして、宗川という自分好みの美人に会いに来れる環境は、傑にとって、心のオアシスと言っても言い過ぎではなかった。
しかし、傑は、そこで再び、瀬那と遭遇を果たす。
『先生が折角処置してくれた歯を台無しにしてしまって、すみませんでした。ただ、今はそれに代わる歯を用意して頂くだけの余裕がなくて。せめて、傷口が塞がるまでの間の痛み止めの薬だけでも頂けないでしょうか?』
待合室にいても、その必死な訴えは、傑の耳にも届いた。その声には聞き覚えがある様な気がして、傑は、無意識のうちに、その声に耳を澄ませていった。
『お願いします。どうか、それだけでも……これ以上、母に心配を掛けたくないんです』
話振りからして、その人物が、金銭的に深刻な状況に置かれているというのは分かったので、傑は他人事ではあるものの、大変だなぁ、と少しだけ同情した。そして、それと同時に、傑は、そんな同情心を抱いてしまった自分自身に驚いた。どれだけの人を殺めても、無辜の人を闇に引き摺り込んで苦しませ足掻かせても、心の中に掻痒すら感じない人間が、他人に対して同情心を抱くだなんて。そんな自分自身が全く信じられなかったのだ。
そして、そんな同情心を俄かに胸中に沸き起こさせた瀬那が、自分の目の前に現れた瞬間。傑は、自分の胸が、どくん、と強く、不快感を持ってして脈打つ音を聞いたのだった。
赤黒く変色した、どう見ても誰かに強く殴られたという見方しか出来ない頬を、べったりとガーゼで覆った、見るも無惨な、その姿。それを目にした瞬間に、傑は、初めて自分以外の誰かの為に己の拳を振るう人間の気持ちを理解した。そして、気が付いた時には、既に、自分の意思とは無関係に、瀬那に声を掛けていた。
『殴った奴、下手くそだなぁ。跡に残る怪我させたら、面倒にしかならないのに。ビビらせるだけなら、『ぶん殴られた』って意識と痛みだけ与えて、跡にしないのがプロってもんでしょ。そう思いません?』
一体、誰にやられた。力加減から考えて、恐らく相手は男だろう。金絡みで問題を抱えている所と、周囲がこれだけ後押ししても他人に頼ろうとしない所を踏まえれば、どんな人間に纏わりつかれているかくらいは簡単に想像が付く。恐らく、三下もいい所の人間の仕業だ。
素人が。この顔に傷跡が残ったらどうしてくれようか。
だが、もしも、痴情絡みの問題ならば、例え相手が別会社に属していたとしても、会社同士の問題にも発展させずに対象出来るかも知れない。
自分の名前を出し、勝手に自分の持ち物に手を出した、として。
自分の会社や、子会社の人間や、堅気の人間であれば、尚の事対処しやすい。だが、それだけ自分が立ち回ってやるだけの価値が、果たしてこの男にあるのだろうか。頭に血が上りすぎて、冷静な判断が出来なくなっている自覚はある。だから、ここは一旦落ち着いて、笹川 瀬那という人間の出方を待とう。
男か、金か、それともその両方か。自分が手を差し出すだけの価値が、この男にあるのか。それを見極める為に。
『DVなら仕方ないけど、好きでもない相手からなら、訴えた方がいいよ。だけど、それ以上に厄介な相手だっていうなら、ちゃんと最後まで戦いな。道端の蟻みたいに踏み潰されても仕方ないと思ってんなら、話は別だけどね』
『DVなら、仕方ないって、なんで』
男か?
『好きなんでしょう?洗脳かもしれないけど。でも、そこに二人にしか分からない幸せがあるなら、他人が口挟む問題じゃないじゃん』
『それは、でも、突き放し過ぎてやしない?』
『何、違うとは思うけど、あんたそれなの?』
『違う、けど』
ならば、金か?
『じゃあ、目の前に居もしない可哀想な人なんて同情してないで、自分の事もっと大事にしなよ。他人の心配するよりか、まずは、自分でしょ』
自分が、助ける価値は、この男にあるのか。
『自分が、幸せになる方法、考えなくちゃ』
自分は、この男を、どうしたいのか。
『折角、あんた、可愛い顔してんだしさ』
自分は、この男と、どうなりたいのか。
『勿体無いよ』
その答えは、恐らく。瀬那に声を掛けるという選択肢を選んだ瞬間に、自分自身の中にあった。
けれど、自分は。どうあっても、真っ当な生き方を選べない人間で。人の不幸を、人の屍を、山々にして築き上げ、その上にどっかりと椅子を置き、その椅子に踏ん反り返って座りながら、欠伸を一つ打たなければならない、そんな人種で。
だから、間違っても、そんな人間には、関わらせてはいけないんだ。
それが、自分にとって、大切な存在であれば、あるほどに。
『一条 傑さん、中へどうぞ』
『あ、呼ばれた。じゃあね………『おにーさん』』
笹川 瀬那さん。俺は、貴方と、普通の出会いをして、普通に恋をして、普通に結ばれる事は、出来ません。貴方を、俺の人生に巻き込むことは、したくない。貴方の幸せを、誰よりも側で祈りたいけれど、それは、どうあっても叶わない願いだから。
貴方の知らないうちに、貴方が俺の手を借りて、幸せになれたとしても。
『あと、俺に惚れても良いけど、面倒臭いから、嵌まったり纏わり付いたりしないでね』
貴方は、どうか俺を忘れて、幸せに生きて下さい。
『しない』
胸を劈く、鋭い刃の様な眼差しと、声と、拒絶。それを、この身に受けた瞬間に、傑は。
この世で、最も一番深い愛とは。
エロス(情欲的な愛)
フィリア(深い友情)
ルダス(遊びとゲームの愛)
アガペー(無償の愛)
プラグマ(永続的な愛)
フィラウティア(自己愛)
ストルゲー(家族愛)
マニア(偏執的な愛)
その、どれでも無いことを知った。
『君に、恋なんてしない。絶対に。君に何が分かるの。僕のこの絶望が、悪夢が、どれだけ深いか知らない癖に。今こうして、季節の変わり目にしか見れない窓辺の紅葉に、ほんのひと時だけでも癒されたいと思う僕の邪魔をして……言いたい事だけ、偉そうにペラペラと。何様なの。誰だよお前。なんでも良いから、僕の時間を、返して』
どれだけの献身を捧げようと。どれだけの愛を捧げようと。それを、『自分の時間を邪魔するな』という理由一つで無碍にする、瀬那のその傲慢さに、傑は、全身が痺れる程の多幸感を感じた。
初めて心の底から愛した者に、その愛を無碍に扱われる、快感。
しかし、傑は、知っている。瀬那が、どれほど自分自身の不幸に、他の人間を巻き込まずに生きようとする、潔白な人間なのかを。
自分自身が、瀬那を自分の生きる世界に巻き込んではならないと、敢えて瀬那を突き放したのと、同じ様に。瀬那は、今こうして、これ以上自分に近付いてはならないと、手を差し伸べようとする他者達に対して、懸命になって、毛を逆立てているのだと。
これほどの深い愛を、自己犠牲を、配慮を、自分に向けてくれた人を、傑は、知らない。この愛を、笹川 瀬那という存在を知らずに生きてきた、自分のこれまでの人生全てが、まるで霞の様に感じられる程に、傑の全身は、圧倒的な幸福感に包まれていた。
『ふぅん。おにーさん、最初の時と全然印象違うね。悪くないなぁ。俺、今のあんたの方が、好みかも』
戯れ合いすらも、愛おしい。
『いいから、さっさと僕の視界から消えて』
その拒絶すらも、愛おしい。
貴方の全てが、愛おしい。
だから、貴方が望むなら、俺は。
『お前なんて、死ねばいい』
それが例え誰であっても、自分のこの手で、排除する。
貴方は、俺の運命の人だから。
◇◇◇◇
「あの人は、初めて、俺に銃の撃ち方を教えてくれた人で。歯医者に熱心に通う様に勧めてくれたのも、その人で。幼い頃から、俺の教育に携わってくれた、父親からの信頼も厚かった人でした」
話が、通じないのも、仕方がないなと、思った。
「娘さんが二人いて、どちらかを俺に嫁がせようとしてくれてたんだけど、その娘さん達が他に男を作ってしまって、そいつがその人の管理していた『子会社』の若い衆だったもんだから、そこでケチが付いてしまって。そこからズルズルと、出世街道から外れて行ったんだ。それから先は、見ていられないくらいに金に意地汚くなって、人柄も底意地が悪い人に変わっていって、立場も以前より低くなって……父親の信頼も次第に途切れていった」
生きている世界が違うという事は、見えている世界が違うという事だから。
「女に唆されて、子会社の金にも手を出し始めて。だから、そのまま野放しにして、会社全体の士気に影響が及ぶ前に、いつかは、ああするしかなかった。そして、会社全体の士気を高めて、社員全員の信頼を一度に集めて、本社の跡目相続に向けて地盤を固める為には、俺が殺るのが一番手っ取り早かったんだ」
価値観の違いが当たり前の様に、両者の間に聳え立つのは、仕方のない事なんだ。
「貴方があの場で俺に助けられたのは、流石に偶然ではなかったけれど。運命の再会としては、気が利いてたでしょう?愛する人を守る為に自分の身内を手に掛けた男と、その男の手から救い出されたオンナが、その男の死体を前にして、あんなラブシーンを展開するなんて、望んでもなかなか演出出来ないし。だからさぁ、教えて欲しいんだよね」
だから、顳顬に銃口を突きつけられながら話される、僕達の甘い甘いラブストーリーが、例えどれだけ僕の胸に空虚に鳴り響いていても。それに、異議を申し立てたり、話の途中で口を挟める権利なんて、僕には初めから存在しないのだ。
「なんであの日、俺を置いて逃げたのか」
引き金が、がち、と耳元で引かれる音が、頭蓋骨越しに、身体全体に響き渡り。僕は、浅く繰り返す呼吸の合間に、何とか傑の気持ちを落ち着かせる言葉を生み出そうと、必死になって頭を働かせた。
「ぼ、く……目の前で、ひとが、しんで、きが、動転してて……頭が、まっしろになって、だから、気が付いたら、その……」
「あっそう。俺も気が動転したよ。まさか、本当にあのおっさんのちんこ咥えるとは思わなかったから。俺、これでも一途な人間だから、撃つ時も手元が狂わなくて良かったなって。でも、この距離なら絶対手元が狂ったりしないよね」
「ごめ、なさ……ごめんなさい」
「んー、別に謝れって言ってるんじゃないんだよね。身内を手に掛けてまで、死ぬ気で貴方を助け出した俺にさ、何か一言あっても良かったんじゃない?って言いたいの……ただ、それだけなんだ」
謝っても、本当の事を言っても、この男の胸には、響かない。なら、他にどうしたら良いのか、分からなくて。だけど、只管に謝り続けるにしても、この男にとっての正解では無い以上、この状況を打開するのは不可能だという事だけは、確かで。
震える身体を、カチカチと鳴る歯を、押し留めて、この男が求めている正解がなんなのかを、必死になって、考え続けた。
感謝だろうか。有り体に考えれば、それが一番正しい答えの様な気がする。『助けてくれて、ありがとう』それが、傑の求める答えだろうか。だけど、それは、何故だか、今この場面で、一番口にしてはいけない言葉であると、僕の心が叫び声を上げて押し留めていた。
それでは、『僕の為に、大切な身内である人を殺してくれて、ありがとう』と言っているのと同じだ。確かに、傑は、僕の意外性のある傲慢な態度を見て、そこからありもしない愛情を感じ取り、すっかりとお互いが恋に堕ちたと思い込んでくれている様だけど。その事実を元にして居直ってしまうというのとは、全くの別問題なのだ。だからこそ、こうして、僕の顳顬に冷たい銃口を押し付けたまま微動だにせず、僕の口から自分の求める正解が導き出される『以上』の結果を求め続けている。
僕が生き残る為には、傑の中にある既存の常識を覆す必要があるんだ。
そう思い付いた瞬間に、傑は、このまま、この僕と結ばれ、この僕と本当に一緒に幸せになって……そんな、未来を本気で夢見ているんだろうかと、ふと、そんな考えが頭を過った。そう考えついた、瞬間。僕は、天啓の様に、悟りを得たんだ。
僕を迎えにきてからの会話も、行きの車の中の甘い空気も、このマンションも、寝室からお風呂場に至るまでの仕掛けも、その全てが、フェイクであると。
「何でも暴力で解決しようとする人は、嫌いだ。だから、助けてくれたのは、本当に助かったとは思ったけど、何も、本当に殺す必要は無かったんじゃないかって、今でも思う」
傑の話だけを信じて、良いわけがない。本当にあの男が、会社にとって、傑の勢力にとって、邪魔な存在だったのかも、不透明なのだから。
僕を救い出す為に、命懸けであの場所に潜り込んで来たのかもしれない。そう、それこそ、本当に『死ぬ気』で。そして、もしかしたら、そのまま命を散らすかもしれない自分の人生の最後のひと時を、僕と共に過ごしたいと願っていたのかもしれない。
そして、あの場所から僕だけを逃す最適な環境を整えて、会社の方針に孤軍奮闘の勢いで逆らいながら、僕をあの場所から送り出そうとしていたとしたら……全て、想像でしかないけれど。もしその考えが正しかったとしたら、僕の幸せな人生だけを願い続けてきた傑や、それを陰ながらサポートしてきた目には見えない人達の気持ちを全て裏切って、傑を置いて一人逃げ出した僕を、傑や、その周囲の人間達が逆恨みしていたとしても、なんら不思議では無かった。
こうした人種は、得てして、己の面子が潰される事を、一番忌避している。それを、僕は、これまでの会社の人間達に甚振られてきた人生で、骨身に染みて理解していた。だから、僕の為に影ながら動いていた自分達の面子を潰した癖に、のうのうと、あんなに目立つ場所で、あんなに目立つ格好で、クリスマスケーキ何ていう幸せの塊を売っていた僕を、そう簡単に傑の周りにいる人間が許せる筈もない。
それはきっと、傑自身にとっても。
しかし、これだけは確かだ。僕は、まだスグと、その周囲にいる人間達の手に掛けられずに、生かされている。だとしたら、今のこの状況は、文字通りに僕の命運が掛かった、ラストチャンス。
僕は、あらゆる人間達によって、命そのものの品定めを受けている真っ最中……なのかもしれない。
「だけど、僕の常識と、傑の生きる世界の常識は違うし、これから先も、どれだけ一緒にいても、その価値観の差は埋められないと思うから。傑が、あの人を殺してしまった事に対しても、言える事は、何もないし。あの人の死を願ってしまった僕には、そもそも、そこを論ずる資格なんて無いと思う」
深い愛情は、翻れば、強い憎しみとなる。甘い言葉も、高価な指輪も、甘ったるいラブストーリーも、傑の中にある僕への憎しみや、溜まりに溜まった目に見えない人間達の憂さを、思う存分に晴らす為の仕掛けだとしたら。
『持ち上げられてから落としてやった方が、見ていて気持ちが良い』
それが、傑の様な人間が生きる世界の人間達の持つ、常識や感性なのだとしたならば。
「僕には、君が思うほどの価値なんて無い。そんな僕の為に、こんなに頑張って、身内まで手に掛けて、しかも、そんな僕にはあっさり逃げられて……その後も、会社の人間の反感を買った僕の命を陰ながら守ってくれていただろうに、僕は、あんなに目立つ場所で、のうのうとケーキを売っていた。これまで散々守ってきてやった自分達の気も知らないでって、恨まれて、憎まれて、当然だと思う……いまの君みたいに」
僕に、逃げ道なんて、最初からありはしないのだ。
「だから、死ぬ前に、せめて、これだけ言わせて」
つまり、この僕が人生で最後に出来るのは、この銃に撃たれて死ぬ前に、せめて、この人の気持ちに、誠心誠意報いる事のみ。その後、崖から真っ逆さまに突き落とされても、その姿を指を刺されながら嘲笑されようとも、僕は、僕の気持ちに最後まで正直に生きる。
僕を、一度でも助けようとしてくれた、この人が、『あんなちんけな奴に嵌って、あいつも下手打ったな』と、周囲の人間達から、これ以上、嘲笑されない様に。
「こんな僕を、見つけてくれて、好きになってくれて、ありがとう。もっと早く、出会いたかった。もっと後に、生まれたかった。友達から始めて、親友になって、どんな悩みも相談しあって、慰め合って、喧嘩して、許し合って……君と、ちゃんとした絆を結びたかった」
死ぬのが分かると、怖いもの知らずになれる。だから、僕の口はするすると滑らかに動いて。心のままに、自分の本音を口にしていった。
「そしたら、もっと、素敵なハジメテが、出来たかなぁ……なんてね。あはは、今のは冗談だから、忘れ……」
なんだか、段々と調子に乗って、口を滑らかにし過ぎたな、と思って、恥ずかしくなって頬を掻いていると、僕の顳顬に押し当てられたままだった銃口が、スッと静かに離された。
僕は、『あれ?撃たないの?』と思って、内心で首を傾げて、傑がいまどんな顔をしているのかと、恐る恐る、目線だけを動かして、その表情を窺った。すると、そこには、今にも大粒の涙を零しそうになりながら震えている、見る者全ての庇護欲を掻き立てる様な姿になった傑がいて。僕は、ギョッと目を剥いてから、慌てて何か拭く物を持っていないかと自分自身の身体検査をした。
すると、ズボンのポケットに一つだけ、ケーキ売りのバイトを始める直前にしていた、テッシュ配りのバイトの余りのポケットティッシュが見つかって。僕は、それをすぐさま開封してから、傑の頬を伝い始めた涙を、優しい手付きを意識しながら、そっと拭った。
「な、なんで……どうして、こんなに、泣いて。何が君にあったの……」
「……貴方の、所為です」
「……そ、うなんだ……そっか……なんだか、その………本当に、色々と、ごめんね」
自分の所為で泣いてしまった人間を前にしたら、人は平謝りするしか無くなってしまう。面倒だと思う人も居るには居るらしいけど、多分そういった人とは僕は話が合わないので、関わらない方がお互いの身の為だ。傑は、きっと、これまで僕を助ける為にも、その後の僕の命を守る為にも、必死になって周りに掛け合って、僕の為に動いてきてくれたんだろう。その努力を、経緯を、口にする機会は、これから先も訪れないかもしれないけれど。何も言われなくても、その努力や、僕に掛けた気持ちだけは、受け止めなくちゃいけないよな、と思った。
僕に対する、本当にあるかどうかも分からない好意に関しては、その、まだ、受け止めきれていない部分の方が、大きいのだけれど。
「……瀬那、さんは、どんなハジメテが、良かった、ですか」
「……え?」
突然だなぁ、この子はいつも。こうした話し方をする子は、大抵、甘やかされて育った末っ子に多い気がする。敬語も、何で無理して使ってるんだろう。最初からタメ口だったのに、今更ですか、という気持ちはあるけれど。とは言え、話が前に進まないので突っ込んだりはせず、そのまま、うぅん、と考え込んでしまった。
「夢というか、願望としては、綺麗な夜景が見える公園で、ゆっくり散歩して、あったかいココアとか飲みながらお話して、お互いのどちらかの家に帰ったら、そこで自然に……とかかなって」
うわ、恥ずかしい、なんてもんじゃない。今時、こんな話、というか妄想、高校生でもしないだろうに。なんだか、僕の経験人数の少なさが露呈している感覚が凄くて、顔が熱くなってしまうのを抑えられない。僕が、羞恥心に身悶えていると、傑は、手に持っていた拳銃を枕元のテーブルに置いて、がばりとベッドから立ち上がり、僕の腕を掴んで僕まで立ち上がらせて、そのままずんずんと寝室の出入り口に向かって歩き出した。そして、その勢いを衰えさせる事もなく、長い廊下を歩き、今いるマンションから出て、胸ポケットに入れてあったスマホを取り出して、誰かと連絡を取り始めた。
無言で促される形で靴を履いて、マンションの廊下に出ると、傑は、僕の手を再び掴んで、駐車場まで直通で運転しているエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの扉が開いたら、直ぐ目の前に、横付けされた黒塗りの車がでん、とのさばっていて。傑は、殆ど無表情のまま、僕に先に乗る様にと促した。
もしかして、僕はこのまま海か山か何処かに連れて行かれて、そこで、背中に銃を突き付けられながら、自分の入る墓穴を掘らされたり、足にコンクリートの塊を括り付ける様に促されたりするんだろうか……と遠い目をしながら乗り込んでシートベルトを締めると、車はすぐに出発した。到着予定時刻も、これから先どこに向かうかも知らされていない。教えてくれるかは分からないけれど、一応は、気持ちの準備をしておきたいから、隣に座る傑に、小さな声で尋ねてみる事にした。
「あの、さ……僕達、これから何処にいくの?」
「今日は生憎の雨だったでしょう。だから、綺麗な夜景が見られる場所は少ないので、これからそれを打開できる場所に向かいます」
『夜景が見たいの?どうしていま?』という疑問は、僕の、シートの上に投げ出された左手を、上から包み込む様にして繋ぎ始めた傑の、真っ赤になった耳を見た瞬間に、霧散して。これが、演技や何かで出来たなら、この子は冗談抜きで俳優業にも向いているな、と心から思った。
僕を助ける為に身内の人間の命を奪い、あれだけの無体を僕に強いた人間と、同一人物だとは全く思えない。やっている事は無茶苦茶だし、人身売買とかブラックな言葉を平然と口にしたり、情緒もいまいち安定していない気もするし。なんていうか、そう、子供だ。身体の大きな、幼い子供。思考回路が、大人のそれとは違うんだよな、どうも……と、そこまで考えて。そう言えば、傑は一体いくつなのかなと、自然な疑問を胸に抱いた。
「ねぇ、そう言えば、傑は、歳はいくつなの?」
「え……」
なんだか、口をぽかんと開いて、何処となく嬉しそうな顔してる。なんでだろう。君ほどの唐突さのある質問では無いと思うんだけどな。と思っていると、傑は僕の疑問に答える様にして、はにかみながら。
「18です。一応、高校にも通ってます……貴方が、俺に興味持ってくれるの、嬉しいな」
傑の持つ羞恥心や、僕の興味が自分に向いて嬉しいという、本当にあるかどうかも分からない感情が、僕にまで移ってしまったんじゃないかと思うくらいに、目的地に着くまで、車の中はずっと静かなままで。そして、そんな空間の中にいた僕の頭の中には、傑に対して言いたい事が、山の様に堆く積もり積もっていって。
だけど、アレも、コレも、僕との出会いや馴れ初めに対する脳内妄想に至るまでの全部が、未成年のした事なのか、と思ったら。
「……そっかぁ。成る程ね」
偏見でしかないけれど、酷く納得がいったのは、確かだった。
1
お気に入りに追加
76
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。
〜それよりも、もっとずっと。〜天才山岳写真家の愛息子は、俺に初恋を運んでくれました。
鱗。
BL
山岳写真家を目指す望月 周は、憧れていた写真家、尾身 登の死をきっかけに、彼の遺作展に足を運ぶ。初めて尾身の作品に直に触れた周は、二度と更新される事の無い槍ヶ岳シリーズの新作『初雪』の前から立ち去る事が出来ずにいたのだが、そんな周に、尾身の長男、尾身 深雪が声を掛けてきた。
父親の作品と父親自身に向ける周の熱い想いに胸を打たれ、深雪は周を、母親の生まれ故郷である山梨にある喫茶店兼ギャラリーに招待する。そして、卒業制作の写真撮影の為に、南アルプスにある仙丈ヶ岳を訪れた帰り道に、周は、深雪の経営している喫茶店へと訪れ、その二階にあるギャラリーで、未発表の尾身の作品に次々と触れていくのだが……その中に、ただ一つだけあった『違和感のある作品』に、周の視線は集中していくのだった。
『すみません、深雪さん。もしかして、あの作品は、尾身先生の作品では無いのでは?』
『……何故、そう思われるんですか?』
南アルプスの大自然を舞台に育まれる、純愛ラブストーリー。ほんの少しだけミステリー(謎解き)が含まれますが、怖い話ではありません。二人の温かい恋愛模様を楽しんで頂けたら幸いです。全二章。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
黄色い水仙を君に贈る
えんがわ
BL
──────────
「ねぇ、別れよっか……俺たち……。」
「ああ、そうだな」
「っ……ばいばい……」
俺は……ただっ……
「うわああああああああ!」
君に愛して欲しかっただけなのに……
イケメンモデルと新人マネージャーが結ばれるまでの話
タタミ
BL
新坂真澄…27歳。トップモデル。端正な顔立ちと抜群のスタイルでブレイク中。瀬戸のことが好きだが、隠している。
瀬戸幸人…24歳。マネージャー。最近新坂の担当になった社会人2年目。新坂に仲良くしてもらって懐いているが、好意には気付いていない。
笹川尚也…27歳。チーフマネージャー。新坂とは学生時代からの友人関係。新坂のことは大抵なんでも分かる。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる