〜性悪説〜一家に借金を背負わせた性悪女に復讐を誓った僕でも愛せますか?

鱗。

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第一章『最悪の出会い』

第一話『絶望とは』

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奥歯の詰め物が取れた。中学の時に、虫歯治療を受けて詰めたまま、碌にメンテナンスや歯科検診に行っていなかったから、どうやら隙間から虫歯の原因菌が入り込んで悪さをしていたらしく、歯と詰め物の間に隙間を形成して、ポロリといったようだ。普段は痛みはないけど、何かを食べるにしろ飲むにしろ気になって仕方がないし、冷たい物は当たり前の様に沁みるから、僕は仕方なく、地元にある歯医者に罹る事にした。


歯医者の口コミは当てにならないとは思いつつも、一応ざっくりと検索した中でも割と評判な部類の、総合病院の一角に新しく新設された歯科に向かうと、白を基調とした新しく清潔な作りの窓口に、人の良さそうな笑顔が印象的な受付の男性がいて、穏やかに僕を出迎えてくれた。


「こんにちは。ご予約されていらっしゃいますか?もしそうでしたら、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「あの、予約した、笹川ささがわ 瀬那せな……です」

「……はい、確認が取れました。でしたら、ご案内するまで、お掛けになってお待ち下さい」


歯医者に対して苦手意識を持っている僕にとって、受付を担当している男性の柔らかな物腰は、とても有難い物だった。ネームプレートにちら、と視線を移すと、岸、とだけあって、名前までは窺い知れなかったのだけど。僕が待ち合い席に移動しようと窓口を離れて直ぐに現れた、マスクをしていても分かるくらいにびっくりするほど顔の整った、青いユニフォームを着た先生が現れて。その先生が、修、とその受付係の男性を呼びつけたので、その受付係の人の『きし おさむ』という名前までしっかりと頭にインプットされてしまった。


ホームページに顔写真付きで乗っていた先生だ。確か、宗川むねかわ せいという名前だったはず。顔が良いだけじゃなく身長まで高くて、それでいて歯科医師なんて……天に二物も三物も与えられた人だなぁ、と思って見ていると、宗川先生は、マスク越しにも分かる重たい溜息を吐いて、首を微かに横に振った。


「……もう、俺は限界だ。あいつ、来る度に調子に乗ってる。さっきだって、あれだけ注意したのに、また俺にプライベートな話を根掘り葉掘り……」

「宗川先生、気持ちは分かりますが、うちも一応はサービス業でもあるんで、堪えて下さい」

「歯科矯正する代わりに、一晩を持ち掛けてくる様な変態が相手でもか?」

「だとしても、です」

「うちは、そんなサービスはしていない……」


なんだか、凄い話を聞いてしまった様な。窓口で話す内容では無いんじゃ、と思いつつ、一体どんな痴女なんだ、その患者は、と呆れ返ってしまう。歯医者という肩書きには、それだけの魅力があるのかもしれないけれど、時と場合というものがあるだろうに。だけど、これだけ芸能人ばりに顔の良い、身長も申し分ない先生なら、女性から逆ナンされてもおかしくは無いのかな、と思って、先生も大変だなぁ、と少しだけ同情していたんだけれど。


「本当に、あいつ、どうかしてる。どうせまた何かと理由付けて予約していくだろうから、適当に追い返してくれ」

「そんな無茶な……」

「今度、焼肉奢る」

「はぁ……分かりましたよ。努力はしますから、あいつの機嫌が悪くなる前に早く戻った方がいいですよ」


一応の約束を取り付けたのに胸を撫で下ろした風にして、宗川先生は自分の職務に戻っていった。その背中は、哀愁みたいなものすら漂わせていたけれど、単なる初診患者でしかない僕がいくら心配したとて、どうなるわけでも無い。だから、心の中で先生の背中に向かって、頑張って、とエールを送った。


それから程なくして、歯科の出入り口である引き戸が静かな音を立てて開き、中から男性が現れた。頭が小さく、足がすらっと長くて身長もあるから、最初はモデルかと思ったけれど、それ以上に胸板が厚く、体格が良かったので、その可能性を頭の中で打ち消した。けれど、どう考えても纏っている雰囲気が、一般人の持つ其れではない。銀幕の向こう側にいるべき、圧倒的なスター性が全身から迸っていて、僕は、言葉を無くして呆気に取られてしまった。


男性は、そんな唖然としている僕に、チラッと一眼だけ向けると、直ぐに興味を失った様にして、僕の座っている長椅子の一番端にどっかりと腰を下ろした。長い足を組んで、長時間の施術の所為で固まってしまった首をほぐす様に首を捻って、こきり、と鳴らすと、そのまま瞼を閉じて、会計待ちの体勢を整える。その一部始終を、具に観察していた僕は、笹川 瀬那さん、と岸さんに名前を呼ばれるまで、何故だか彼から目がずっと離せなくて。名前を呼ばれたタイミングで、直ぐに手荷物を持って立ち上がり、慌てて歯科の出入り口に向かった。


そんな僕の背中に、まるで鼻で笑ったかの様な微かな笑声が掛けられた気がしたけれど。それに振り向いた瞬間に、出入り口の扉は呆気なく、僕の目の前で閉じてしまった。


宗川先生の施術は、とても丁寧で、詰め物が取れた後の虫歯になっていた部分を綺麗に落として、新しい詰め物をするまでの処置の工程全てにおいて、全く痛みを感じなかった。こんなに丁寧に、それでいて早く処置してくれるなら、もっと前から通っていれば良かった、と思うくらいに、僕の歯医者嫌いも克服されてしまって。調子に乗った僕は、歯石を取って貰う為の予約をしてから、その歯科を後にした。


腕が良く、褒め上手で、アットホームな雰囲気のある先生でなければ、今の時代、顧客の獲得には繋がらないんだろう。上から目線の殿様商売は、きっと通用しないし、直ぐに違う歯科に顧客が流れていってしまう。だから、そんな、通いたくなる歯科に出会えて、僕は恵まれているなぁ、と思っていたんだけど。


人生には、良いこともあれば、当然、悪い事もある。



◇◇◇◇



「歯医者に行ける金、あったんだ。その余裕があるならさぁ、返済に回そうとか思うでしょ、普通。駄目だねぇ、脳天気な奴は、これだから」


治療したばかりの僕の奥歯が、血溜まりの中に転がる光景は、あまりにも惨めで。自分自身が、一丁前の、人並みの生活を送る身分にはないのだという現実を、まざまざと目の前に突きつけられた気持ちになった。


「治療したいなら、早く言ってよ。さっさとこうしてやったのに。なぁこれ、ボランティアだよ?そんな親切な人には、どうすんのが正解かくらい、分かるよなぁ?」


殴られ、ボールの様に蹴られた頬は腫れ上がり、歯がかち合った影響で出来た口内の裂傷と、歯が抜けた後の歯茎から、止めどなく血液が溢れ出す。けれど、事務所の床をこれ以上僕の血や唾液や鼻水で汚してしまったら、目の前にいるこの事務所の『末端社員』と、その奥に居る、黒い皮張りのソファに座った『中間管理職』の機嫌を損ねてしまうかもしれない。だから、それらを吐き出す事もままならず、僕は、必死になって、それら全てを啜り上げ、飲み下しながら、自分自身が形成した血溜まりの中で、土下座した。


「……ありがとう、ございま、した」


黒い皮張りのソファに座り、股の間に全裸の女を座らせて奉仕させ、此方をジッと眺めるだけ眺めていた中間管理職の男が、僕のその殊勝な態度を見て、くく、と腹の底から湧き出した様な低い笑声を上げると、それに呼応した様に連動した社員達に、そのどす黒い笑いが広がっていった。


げらげらと品の無い、心の底からの嘲笑を全身に浴びながら、悔しさと惨めな思いに打ちのめされていると、さっきまで笑っていた中間管理職の男が、その笑いをぴたりと止め、冷たい声で周囲にいる黒スーツの男達に命令を飛ばした。


「消毒してやれ」


その声を受けて、周りの男達は一斉に動きを取り出した。僕は、頭を上げて周囲を確認したり、中間管理職の男の意図を把握するために質問したり出来る立場には無かったから、黙って冷たい床に頭を擦り付けて、これからどんな目に遭わされてもいい様に身を縮めて待つしかなかったのだけど。僕の周囲を取り囲んでいた男達が、一斉にズボンのチャックを下ろし始めたのは、音や気配で分かったので、そこで漸く、これから自分の身に何が起こるのかの悟りを得た。


「なぁ、瀬那よぉ。例え、てめぇの親がくたばってても、親との縁ってやつは、そう簡単には、切れんのよ」


四方八方から浴びせられる、生暖かい液体。後頭部を中心として、その暖かい液体は僕の全身を濡らしていき、時間の経過と共に、独特の強いアンモニア臭を放っていった。


「事業に失敗した親父さんが自殺しても、誰もお前を助けてやらないのは、周りの大人が、それを分かってるからなんだわ」


中間管理職の男が、股の間に座らせて奉仕させているのは、僕の父親が事業に失敗した原因である元従業員で愛人だった女で。その女は、僕の父親の信頼を一心に受けていたのを良い事に、会社のお金を横領していた。父親は、その女との関係性の発覚と、事業の失敗と、女による会社のお金の横領とが重なり、自死を選んだ。


母親はその心労が祟って病床に臥し、僕は付きっきりで母親の看病をしながら高卒で働きに出て、昼も夜もなく駆けずり回り、母親の薬代の為に奔走している。会社は倒産し、僕達は自己破産の道を選んだけれど、最後まで残ってくれた社員の為に、僕が自腹を切って払った退職金の支払いの所為で、再び借金を作る事となり、こうして、借金返済の催促の為に、度々事務所に呼び出されたり、今住んでいるボロアパートを訪れられては、質の悪い取り立てを繰り返されている。


「次は、ねぇぞ。その意味分かってんだろうな」


分かっている。それこそ、骨身に染みて。


「………はい」


僕は、父親の様に逃げたりしてはいけない、自分自身の意思で死ぬ事も許されない人間なのだと。


「じゃあ、お前に丁度いい仕事紹介してやるって話、先に進めるからな」


にたり、と下卑た笑みを浮かべる中間管理職の男の口元には、金歯がぎらり、と光り、その鈍い輝きに、背筋がゾッとした。がたがた、と全身が震えるのは、四方八方から浴びせられた生暖かい液体が蒸発して、身体の熱を奪っていったからではないと分かるから、余計に惨めで。


「ケツ洗って、待ってろよぉ」


この男にとって僕の価値は、道端の石ころよりも低く、そもそも無価値に等しく。自分の新しい金歯の足しにでもなれば御の字のだと思われている存在でしかないのだと、思い知った。

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