Metamorphose

鱗。

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第一章

第七話

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ネイビー、ホワイト、ブラック、グレー、ブラウン。色とりどりの布が、目の前にあるどっしりとしたアンティーク調のテーブルに広げられていく。俺はそのテーブルの直ぐ側にあるフカフカの深いキャラメル色した椅子に腰掛けながら、あぁでもないこうでもないと店員さんと話をしている加瀬さんの顔から視線を外し、深い溜息を吐いた。この店に入店してから、丁度一時間が過ぎた。それを、店内にある大きな古時計の文字盤から見て知る。これほどの時間が経って、俺は漸くきちんとした息がつける様になってきた。


下着は近くのコンビニで他のボーイさんに買ってきて貰って取り替えられたし、私服にも着替えているから体感的にはもう寒くはない。だから風邪を引く心配はしなくていいのだけど、鳥肌だけが全く収まらない。その理由は、至極簡単に導き出す事ができた。俺の鳥肌の原因。それは、今まさにいる、この店にこそある。


俺は、人生で初めて、看板も店名も何も掲げられていない店に足を踏み入れた。そして、店に入った瞬間に悟った。あ、ここは俺なんかには一生縁のない店だと。


木製のトルソーに着せられているのは、何処からどう見てもお高そうなスーツ。布から仕立て方からそのボタン一つに至るまで、全てに吟味がなされているが、素人目でも分かった。それが等間隔で数点点在していて、この店のサンプルとして鎮座していることが見て取れる。壁際には落ち着いた色の木製棚があって、その中に丸められた布地がずらりと並んでいた。中央には平らで大振りのガラスのショーケースがどっしりと置かれており、中にはネクタイピンやループタイなどの小物が品よく配され、そのどれもに値札が付けられていなかった。


へぇ、スーツって、こうやって作るんですね。なんだか、大人なのに社会科見学に来た気分。いや嘘。嘘言った俺。こんな怖い社会科見学絶対に嫌だ。身動き一つとれやしない。下手に好奇心を垣間見せたら、絶対にヤバイ金額振っ掛けられる店だってこれ。


加瀬さんは、確かにスーツを買いに行くと一言だけ言って俺をこの店に連れてきた。確かにそう言った。だから俺は、その用途は一先ず横に置くとして、新卒社会人御用達のチェーン店の、吊るしでズラズラとスーツが並んでいるような店に連れて行かれるとばかり思っていたのに。


これって、つまり。オーダーメイドってやつじゃん。しかも、フル。フルオーダー。無い無い、あり得ない。普通に考えて、あのシャンパン頭からビッシャー事件から、数時間後にこうなってましたはあり得ない。話が飛び過ぎ。だけど俺、中間省いてないからね。マジでこの流れだったからね。でも、これが現実。加瀬さんが俺の腕をガシッと掴んで、『お前、ちょっと面貸せ』からのコレ。でも俺下着が・・・と口にした次の瞬間に加瀬さんが他のボーイをインカムで呼び出して俺の下着をパシらせて、買ってきて貰った下着と出勤前に着ていた服に着替えたと思ったら、店の前に呼び出されたハイヤーに加瀬さんと二人して乗って、グッドラック!と親指を立てた遼さんに軽快に送り出された後、今ここ。


はっきり言って、何がなんだか全然分からない。そもそも、何でスーツ買う事になってるんですか?とか聞いてもいいものかどうかすら分からない。全て分からない事だらけだから、俺は一旦冷静になって、自分の生まれ持った性質に逆らわないという一手を大人しく選ぶ事にした。


水が、ただひたすらに低いところを目指し蕩々と流れていくように。流れに身を任せれば、自ずと答えには辿り着く。俺はいつも、そんな風にして生きてきた。父親が酒とギャンブルと女に嵌り、母親に暴力を振るい、その拳を俺に対しても振るう様になった時も、近所の人が気が付いて警察に通報して、俺を児童相談所預かりにしてくれた。


両親が母親の不倫をきっかけにして離婚をするとなった時も、父親のお前なんていらないという言葉と、母親のごめんねと謝りながら流す涙を心の中にある天秤にかけ、より天秤が傾いた方についていくと決めた。


人と話が出来なくなっても、いじめが苛烈になっていっても、勝手に伸びていく前髪を伸ばしたまましにておけば、それで他人と視線を合わせずに済むし、女子に纏わりつかれることもなく、俺に加害行為をしてくる理解不能な人間をこれ以上視界に入れる必要が無くなるから一石二鳥だと思った。


友達がいない方が付き合いに金を使わなくて済むから、母親の薬代も貯められるし、時間の無駄にもならない。だから、友達が沢山いる人間を見ても何の感慨も湧かなかった。


全てが万事、そうして低きに流れるようにして生きてきた。


その方が楽だから。痛みが少なくて済むから。馬鹿の相手をしなくて済むから。
自分が、これ以上可哀想な存在にならずに済むから。


でも、本当にそれでいいのか?間中 修。低きに流れ流された先に掴んだ運命が、本当の幸せだった事がいままでに一つでもあったのか?今いる自分の現状を打開し、そこから這い上がりたいと思ったから、毎日毎日、あれだけの時間をかけて必死に勉強をしてきたんじゃないのか?そして、その先で宮ノ内先生に出会い、自分を変えたいと思ったんじゃないのか?


爪はとっくに研げてるんだろう?牙だって、鋭く抜け変わっているんだろう?立て髪だって、綺麗に生え揃っているんだろう?


ならば。運命に、食らいつけ。


ちょっくら外でヤニ吸ってくる、と言い残して、加瀬さんは店を出て行った。すると、先程まで加瀬さんと布を広げながらああでもないこうでもないと首を捻っていた壮年の男性が、俺の前にきて綺麗なお辞儀をしてから一枚の名刺を渡してきた。俺には代わりに渡すものが『いまのところ』何も無いので、すみません、これからもよろしくお願いします、と言葉と態度だけは礼儀を尽くして対応した。


スーツを仕立てる人の事をテーラーと呼ぶらしい。受け取った名刺にそう記してあり、俺はまた一つ利口になった。これからもきっと、この店にはお世話になるのだろう。だから、俺は担当してくれたテーラーさんの名前と顔を瞬時に脳内にインプットした。ボーイの仕事に従事しているうちに身に付いた特技は、こんな場所にあっても生かされていた。無駄な経験などありはしない。苦労をすれば、それは己が血肉となり、その先を生き抜く為の糧になる。俺はそれを身をもって体感したのだった。


あらゆるポーズを取って身体中の寸尺をはかり、解放された時には既に小一時間が経過していた。慣れないポージングを取り続ける時間が続き、身体的疲労よりも精神的疲労の方を抱えはしたものの、それが心地良いとすら感じられる心の余裕がいつの間にか自分の中に生まれていた。作業は淡々と進み、何事もなく終わった。会計は既に加瀬さんの手によって終えていたらしい。その言葉を、担当して下さったテーラーさんから聞いて、ホッと胸を撫で下ろした俺は、長時間の拘束によって固まってしまった節々をほぐしながら店を出ると、外で待っていた加瀬さんと合流しようとした。


しかしその時、外にいた加瀬さんは電話の真っ最中だった。その穏やかな表情は未だかつて見たことのないリラックスしたもので、いま声を掛けるのは少々憚られるなと判断した俺は、何処か小時間待てるようなところは無いだろうかと、辺りをぐるりと見渡した。繁華街というよりは、同じ様な高級ブティックやショップが軒を連ねる通りといったところか。どちらにせよ、こうして半ば強引に連れて来られない限り、自分には一生縁の無い場所だったなと心の中で結論づけた。これから先は、どうなるか分からないけれど。今の、何も成していない俺にとっては、まだ身の丈に合っていない、そんな場所だった。


そうこうしているうちに、電話をしている加瀬さんと目が合ってしまった。俺は小さく頭を下げてから、電話中の加瀬さんのもとに静かに歩み寄って行った。


「終わったみたいです・・・はい、分かってます。俺に任せて下さいよ、陣内さん。俺が絶対に、このダイヤの原石を磨き上げてみせますから」


俺を見つめながら、口元だけに笑みを浮かべて通話相手にそう告げると、加瀬さんはスマホを耳元から離して通話を終了した。盗み聞きするつもりは無かったのだけど、聞こえてしまったものは仕方ない。ダイヤの原石云々は何を示しているかは分からないけれど、電話の相手の名前は知っている。恐らく、お客様以外の人間に対しては慇懃無礼な態度を崩さない加瀬さんが、唯一敬愛を傾けている男、総オーナーの陣内さんという人だと思う。まだ顔も見たことはないけれど、その人となりだけは漏れ聞いている。先見の明に優れ、人望にも厚く、まだ二十代だというのに二つの店舗を界隈で随一の売り上げを誇る店にしてみせた実業家だ。一体どんな人なのかまるで見当もつかないけれど、このままこの茨の道を突き進んで行けば、いつかまみえる日が訪れるだろう。この人を、加瀬さんを信じ、ついて行きさえすれば。


「お疲れ様です」

「おう、待たせて悪かったな」

「いえ、大丈夫です。ところで、これからまだ行く場所があるんでしょうか」

「あぁ。お前にもポリシーだとかこだわりがあるんだろうけどな。悪いけど、お前のその長ったらしい前髪、落しに行くぞ」

「はい、分かりました」

「・・・その面、もう説明しなくても分かってますってところか」

「はい」

「良く俺についてこれるな。普通はもっと反抗したり、色々聞きたいことがあるもんじゃねぇの?」 


こうして俺の事を振り回している人間の台詞じゃないなと呆れもしたけれど、まぁ普通はそうかもしれないなと思い直して。俺は少しだけ悩んだあと、胸の内側に湧いた素直な言葉を、そのまま口にした。


「でも俺、加瀬さんを信頼しているので。貴方の手だから、俺は握れるんです。輝かしい功績を残しながらそれを鼻にかけず、あの遼さんを育て上げた加瀬さんが、俺に何らかの才能を見出したっていうなら、俺は、それを信じてみたいんです」 


加瀬さんは、一瞬鳩が豆鉄砲を食らったかの様な表情を浮かべたのち、ふは、と一息で笑った。こんなに屈託なく笑える人なんだ、加瀬さん。老成した態度や達観した物事の捉え方をする人だから忘れてしまいがちだけど、そういえばこの人も、俺とそこまで歳が違わないのだった。


「俺はお前が思ってるほど良い人間じゃねぇよ。基本的に損得勘定で生きてる人間だ。遼の言ってることでも、間に受けたのか?だとしたら、辞めとけよ。あれは、あいつなりのバイアスが掛かってるだけだから。実際は、経営を盛り上げたらあの店を貰い受けるって約束を陣内さんと俺とで交わしてて、だから事故物件である鼻持ちならねぇキャストを引き入れても、文句も言わずに踏ん張ってんだ。いまだってこうしておぼこいお前を騙眩かそうとしてる。信用する相手は、良く良く選ぶこったな」


俺はその話を聞いて、きょとんと目を丸くした。この人何を言っているんだろう。これだけつめびらかに己の手の内を明かして置きながら、自分は信頼するに値しない人間であると、よく嘯けるもんだ。本当の悪い奴っていうものは、自分の手の内を絶対に明かずに近付いてくる。それでいて、偽善者や理解者の皮を被り、誰よりも一番貴方のことを考えているよとアピールをしてくる。その上で、実はそいつが裏で手を回すいじめや差別グループのトップや仲介人だったりするのだ。そんな奴、俺はごまんと見てきた。匂いですらそいつらの嘘を感じ分けられるほど、何遍も、何遍も。


人の嘘は、甘い香りがする。いつまでも鼻につく様な、毒々しい甘い匂いが。加瀬さんからは、その匂いが全くしない。いつも清潔さすら感じさせる、爽やかな煙草のメンソールの香りばかりを漂わせている。嘘や詭弁にすら優しさを込められるこの人だからこそ、こうして何の説明もされずに振り回されても、文句も言わずについて来たのだ。


この人は、俺という存在が生まれ変わるための、道標だ。この人に出会えたのは、俺の人生を語る上で僥倖でしかなかった。紛れもなく純粋な感謝の念が、ひしひしと俺の胸に寄せていた。


「俺は以前、自分の生い立ちから何から全て加瀬さんにお話しました。その時、加瀬さんは俺の話に親身になって耳を傾けてくれた。俺はそれを見て思いました。この人なら、信頼できると。金にも何もならないだろう俺の話を、急かすことなく聞いてくれる、遼さんが面倒を見ている子猫の名前まできちんと把握しているこの人なら、絶対に俺を悪いようにはしないだろうと」

「お前、そんな事まで覚えてたのか」


加瀬さんは、呆気にとられた様に、二の句を継がなかった。俺はその様子を口元だけでふっと笑うと、目の前にある、いつも俺の視界を遮って、見たくないものを俺の代わりに排除してくれていた、長く伸びた前髪を指先で弄った。


いままで、ありがとう。俺の代わりに、見たく無いものを遮断してくれて。俺を、世間の目から、刺激から、守ってきてくれて。でも、もういい。もう、こんな慰め必要ないんだ。このベールを脱いで、俺は変わる。そして、あの人に。宮ノ内先生に、会いに行く。
俺の人生にとって、あらゆる意味でイレギュラーな存在。それが、宮ノ内先生だった。


桜が一輪そのまま落ちるのは、鳥が花の根元にある花粉や蜜を食べたからだと知れたのも。置鮎さんの淹れてくれる美味しいコーヒーに出会えたのも。『いつもの場所』で、話が通じるような関係性を他者と構築できたのも。恥ずかしがり屋でも、工夫さえすれば人前に立って話しができるようになるのだという事が知れたのも。全部全部、宮ノ内先生のおかげだった。


宮ノ内先生は、変わりたい、この暗然たる運命に一矢も二矢も報いたいと思ったきっかけを与えてくれた、掛け替えの無い存在だ。俺は、あの人の隣にいるに相応しい立派な人間になり、確かに此処に、貴方のおかげで如実に変わることが出来た人間がいるのだと、立場を表明したい。


そして、すっかりと様変わりしてしまった俺を前にして驚くあの人に向けて、こう言うんだ。俺と出逢ってくれて、ありがとうございます、と。


「行くぞ。こっからだと、歩いた方が早い」


加瀬さんが、ぶっきらぼうにそう言って俺を先導する。俺は、はい、と簡潔に返事を返して、先を行く加瀬さんに追随した。夏の気配を濃厚に纏わせる初夏の宵。あと数日で夏至を迎える東の空には、夏の大三角形が煌々と瞬いていた。
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