〜蛇苺〜年下幼馴染に溺愛され過ぎて、何故か僕自身がストーカーになってしまいました。

鱗。

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第二章『蛇苺』

第三話『ときめきは、珈琲の香りと共に』

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窓から渓流の望める水上コテージには、この別荘の本来の持ち主である藤崎さんが収集した絵が飾られている。藤崎さんは自然を愛し、休日を見つけては車で遠出し、自転車でサイクリングを楽しむという趣味を持っていて、そのサイクリング中に見つけたこの穏やかな風景の場所が売り地になっているのを発見し、即断即決に近い形でその土地を購入し、自らと、自分の恋人とで過ごす為の別荘を建造した。


けれど、肝心の恋人である真宮寺さんは、釣り好きではあるものの、それ以上にゲームをこよなく愛するインドアな人だったから、釣りシーズンが終わってしまうとその別荘に向ける関心はなくなってしまい、一年の大半は使わずに無駄に経費だけが掛かる場所になってしまったらしい。


手放す気はないけれど、人が使わない分、定期的にメンテナンスや掃除をする必要があり、僕達が掃除をするので、その別荘を借りさせて欲しいと、快気祝いの席で申し出ると、先に話が通っていたのもあり、喜んで応じてくれた。だから、僕達は、予め用意していた休暇期間を、その別荘で過ごす事に決めたのだった。


家族の後押しもあって始めた、克樹との二人暮らしが始まって、今日で三ヶ月と少しの時間が経過した。まだ、交際についての話し合いはしていないし、プロポーズの返事についても保留している。克樹は、病院で僕を一度だけ抱いたきりで、それ以上の関係性を僕に求めてはこず。それだって、僕の身体を気遣って、僕は殆どうつ伏せに寝転んでいるだけで終わってしまった。


だから、この三ヶ月と少しの期間も、毎日する朝晩のキス以外は、他に何も要求して来なかった。僕は、その一度の経験から、なんだか違った、と思ったり、僕自身に対する興味も、僕に対するそうした欲求すらも失われてしまったのかと、不安で胸が押し潰されてしまいそうだったけれど。いまの自分の中途半端な関係性では、『どうして手を出して来ないの。もう僕に興味が無くなったの』と口に出して問い詰める事はとても難しかった。


だけど、そんな言葉に出せない不安を抱えている一方で。一緒に朝食を食べ、克樹が淹れてくれた珈琲を飲んでその日の予定を話し合ったり。一緒に部屋に置く家具や家電を購入しに行って、高橋さんのカフェでゆっくりと談笑して。帰って来たら購入した家具を、こうじゃないああじゃないと一緒に組み立てたりして。そんな一日が終わると、一緒のベッドで同じシーツに包まって、手を繋ぎながら眠って……そんな穏やかで、ゆっくりと流れて行く時間を過ごしていくうちに、次第に不安を紛らわす方法を覚えていって。克樹自身も、僕と過ごす毎日を送るなかで、とても満たされた表情をして生活していたし、僕の生活が何の障害もなく、滞りもなく進んで行けているのは、間違いなく克樹の努力と献身の賜物だと分かってもいたから、そんな、僕の為に一心に尽くしてくれるその子に向けて、僕の中にある不安なんて、余計に口に出せなかった。


それくらい、今の僕には、克樹という存在が必要で。克樹が、もしいま僕の前からいなくなったら、煩わしいと感じて、僕を捨てて違う人の所に行ってしまったら、と考えるだけで、他に何も手に付かなくなってしまうくらい、動揺してしまうんだ。だから、今のこの穏やかな生活がいつまで続くかは分からないけれど、こんな素敵な場所で、休職中の今みたいな期間を、克樹と二人きりで過ごせる時間を、大事に過ごそうと考えていた。


「瑠衣君、面白い物見つけたよ。キッチンに来てごらん」


木材と鉄筋の構造がハイブリットされているコテージから出て、隣接している近代的な雰囲気の建物に探索の足を伸ばしていた克樹が、其方の建物にあるキッチンに、僕を呼び寄せた。なんだろう、と思いながら、先を行く克樹の背中を追って建物内に足を踏み入れると、彼は真っ直ぐにその一階にあるキッチンへと足を進めた。そして、キッチンに備え付けてある無骨な印象の家電機器の前に立つと、悪戯っ子の様な顔をして、僕を振り返った。


「これ、なんだか分かる?」


クイズを出してくる克樹の、上機嫌な姿に、可愛いなぁ、とくすりと微笑んでから、分からないを示す為に、首を横に振る。すると、克樹は、その機械に視線を移し、得意げな顔で、その家電機器について説明し始めた。


「エスプレッソマシンだよ。結構本格的なやつだね。最近ではカプセル式にして簡単に済ませる人も多いのに、個人でこんな物持つなんて、藤崎さんやるなぁ……だけど、このままだと使えないから、掃除するのを手伝って欲しいんだ。部品を外したり組み立てたりするのは俺がやるから、瑠衣君は外した部品を洗って、俺に渡して」


流石は専門家だな、と感心した僕は、こくりと頷いて、克樹の手伝いを始めた。克樹は、掃除に必要な用具や洗剤の一式をカウンターキッチンの上棚から発見すると、部品を外して専用クリーナーの入れた水に付け置きしてから、マシン全体を食器洗剤を少し付けたスポンジで擦っていき、湯で湿らせたマイクロファイバーのクロスで磨き上げていった。


その間にマシンでお湯を温めて、今度はグレープと説明された部品の掃除に取り掛かった。お湯を出してから専用ブラシでシャワーフィルターとガスケットを擦っていく。かなり熱いらしいので、それは俺が全部やります、と克樹は頼り甲斐のある穏やかな表情で、その部分の掃除の全てを自分で終わらせてしまった。


付け置きしておいた部品を洗い終えると、それをピカピカに拭きあげてから、克樹に手渡して行く。すると克樹は、それを素早く組み立てていき、エスプレッソマシンを、また元通りの姿にしてしまった。振り返ってみればあっという間だったけれど、時計を見れば30分以上経っていた。
これをカフェの店員さんは毎日行っているのだろうか。どんな仕事も、手入れや下準備というのは大変なんだな、と思って。それと同時に、手慣れた様子でエスプレッソマシンのメンテナンスを終わらせてしまった克樹に対する尊敬の念や、頼り甲斐のある男らしいを感じてしまって、うっかりと、ときめきを覚えてしまった。


「マシンが温まるまで時間が掛かるから、少し外に出て、散歩でもしない?」


端正な横顔に見惚れていると、克樹はそんな僕に、エスプレッソマシンがきちんと使える様になるには、マシン全体を充分に温める必要があるのだと説明してくれた。それには家庭用であれば30分掛かり、業務用には大体一時間は掛かるのだという。このマシンは性能が良く、余裕を見て一時間はそうしていたい、と言われたので、僕は熱くなった頬を悟られないかとドキドキしながら、その提案に頷いた。


川沿いにある別荘なので、川の流れを望みながら、ゆっくりと散歩が出来る道が整備されていた。藤崎さんがあの別荘をこの場所に建てようとしたのも、この道を自転車でサイクリングしたからなので、その素晴らしい景観は言わずもがなだった。


周辺には人家らしい建物はなく、殆どが同じ様な別荘が立ち並んでいる。基本的に別荘地として開かれた場所なんだな、という印象を抱いて。なんだかいつの間にか凄い場所まで来てしまったな、と思った。


「この道沿いに歩いて行くと、刈谷さんのお店があるんだ。純粋な焙煎工房だから喫茶スペースは無いんだけれど、俺や高橋さんが訪ねると、珈琲を淹れてお持てなししてくれるんだ。滅多に人里には降りて来ないけど、国内だけでなく、世界的にも有名なコンテストで優勝していたり、本当に凄い人で……高橋さんと並んで、俺の憧れの人でもあるんだよ」


離れている間に、克樹の周りには沢山の大切な人が増えていた。その中でも、精神的に相当参っていた時期の克樹を支えて、暗闇から引っ張り上げ、新しく奥深い世界がある事を教えててくれた高橋さんや、仕事に対して飽くなき探求を続ける姿に憧れを抱き、前を向くきっかけをくれた刈谷さんには、多大なる恩を感じているようだった。
そんな、その道の一流のプロでありながら、人に対して気遣いや優しさを向けられる懐の深さを持つ人達のもとで、克樹が自分の羽根を休ませられた経験は、彼の人生に多大なる影響を与えた様に、僕の目にも映る。


「よう。もう着いたのか、早いじゃねぇか」

「こんにちは、刈谷さん。でも、もう昼過ぎですよ。また二度寝したんですか?」

「まぁな。これがあるから飲食の方に手ぇ出してないってのもあるし。立ち話もなんだから、入れよ」


出迎えてくれた刈谷さんの髪には、大胆な寝癖が付いていた。仕事以外にはあまり頓着しない人で、豆の仕入れや店に焙煎した豆を卸しに行く時以外は、常に焙煎工房に詰めているか、寝ているかしているらしい。気に入っている店にしか豆を卸さないし、その時に決まって自分の豆で淹れた珈琲を飲んで査定して行くので、店ではまるで仙人の様な扱いを受けている。


そんな刈谷さんは、高橋さんの淹れる珈琲を大変気に入っているらしく、その弟子である克樹も、見所があるといって可愛がってくれているらしい。そんな、世界的にも有名な焙煎士さんと初めて出会ったのは、克樹のお世話になったカフェを貸切にして行った、僕の快気祝いの席だった。


むっつりと押し黙って、僕の顔や身体全体をジーッと見つめながら、高橋さんの淹れてくれたエスプレッソを一口で飲み干した刈谷さんは、僕に、おい、とぶっきらぼうに声を掛けて、僕をじろりと睨み付けた。


『こいつがどんだけ苦労してきたか分かってない訳じゃないんだろうが、それだけの価値と責任が自分にある事だけは自覚しろよ。だから、もう二度とふらふらすんじゃねぇ』


堂々とした凄みのあるその風格と、それに似合った言動をする刈谷さんに圧倒されたけれど。言われた事の意味は分かっているし、この人が克樹を事件現場で制してくれたから、今こうして克樹と一緒に居られるのだというのも理解していたので。僕は、それに深く頷いてから、刈谷さんに向けて頭を下げて、『もう二度と、同じ過ちは犯しません』という誓いを立てたんだ。


「観光案内すんのは明日の予定だったよな。今日はどうした?」

「藤崎さんがエスプレッソマシン買ってたみたいで、それに使う豆を買いに来たんです」

「なんだと?あいつ、自分がクラッシャーだって事忘れてんのか」

「ああ見えて買う時は、衝動買いしがちなんですよね、あの人……」

「ったく、仕方ねぇ奴だな。ちょっと待ってな、適当に見繕ってやるから」


ぶつぶつと文句を言いながらも、生来の面倒見の良さが滲み出ている刈谷さんに、くすりと笑ってから、焙煎工房というものに初めて足を踏み入れたので、好奇心からその部屋を見渡す。すると直ぐに、大きな麻袋が床にずらりと並び、そこから覗いた大量の生豆と、椅子の備え付けてあるテーブルの上に広がる、無数の生豆とが目に入って。克樹に、コソッと、あれは何をしているの?と好奇心そのままに尋ねた。


「ああ、あれはピッキング……欠点豆を選別して、使える豆と分けているんだよ」

「分けないと、どうなるの?」

「豆が均等に煎り上がらなかったり、悪い匂いが付いたりして、美味しい珈琲に仕上がらなかったりするんだ」

「へぇ……」


これだけあっても、使える豆と使えない豆があるんだ、と思って。そして、それを全て手作業でやっているのに、驚いてしまった。何とも気の遠くなる話だ。僕は、特別単純作業は苦手というわけではないけれど、それが毎日となると、気が滅入ってしまいそうだな、と思った。


「欠点豆は、無い方が良いんだね」

「そうだね。珈琲の味や香りを濁さない為には」

「そうなんだね……なんだか、人間のそれと、少しだけ似ているね」


僕は、こんな場所に来てまで、何の話をしているのか。思春期只中の、子供じゃあるいし。しかも、相手はずっと昔から一緒に過ごしてきた幼馴染の弟みたいな存在で。絶対に、こんな話をする相手ではないのに。だけど、克樹は、そんな僕を笑ったりはしなかった。


「人は、珈琲ほどシンプルじゃないし……それに、どこが欠陥なのかも、感じ方も、人それぞれだけどね」

「それでも、欠陥は無い方に越した事は無いでしょう?」


これ以上食い下がって、どうするつもりなんだ。僕は、この子から、どんな言葉を掛けられるのを待っているんだろう。何となく、その理由は、朧げながら自分の心の中に、見当たるけれど。


「他者の欠陥に対して寛容でない世界は、とても脆くて崩れやすい。そして、そんな世界に、本当の愛は存在しないと思う。その人の欠陥を受け入れて、そこにいて欲しいと願う人がいて、友達や恋人や家族になっていく。それこそが、正しい人間の営みなんじゃないかと、俺は思うな」


僕は、だから、この子の話を聞いて、思い知ったんだ。僕は、幼いと。


「それでも、そんな自分が嫌で仕方ないなら、どうしたらいいの」

「人は、時間と共に変わっていく生き物だから。焦らずに、いま近くにいる大切な人と、自分自身を大切にしていけば、自然に良い方向に、変化していくんじゃないかな」


僕は、この世界の正常な営みという輪から外れてしまった自分を恥ずかしいと思っているのに、変わろうという努力すら、碌にしていない人間だ。だから、自分や大切にしたいと思ってきた人を傷付けてばかりいる僕に、そんな良い変化が訪れるとは到底思えず。恐らく、僕の心境に照らした気遣いを見せてくれたのだろう克樹にも、無言という間しか返せなかった。


なんで、僕なんだろう。どうして、克樹は、こんなにも情け無い僕を、こうして慕ったり気遣っては、明るい方に導こうとしてくれるんだろう。僕と一緒にいて、克樹のプラスになる事なんて、何も無いのに。僕は、克樹にとって、今では単なるお荷物に過ぎない存在で。だから、こんな風に優しくされると、どうしたらいいか、分からなくなる。きっと、克樹は、僕の返事を待ってくれている。だけど、こんな気持ちのままでは、克樹の手を取るなんて、絶対に出来っこない。僕の所為で親と離れ離れにしてしまった少年が独り立ちをする年齢になっても、僕の心境の変化や、僕自身の心の成長が果たされていなければ、こんなにも真っ直ぐ、堂々と成長した克樹の隣に立とうとは、絶対に思えないからだ。


この旅行が終わったら、今の生活に区切りを付けて、克樹と暮らしている部屋から出て行く必要があるかも知れないな、と。本当は、ずっとそう感じながら生活していたけれど、その限界が、とうとう目の前に聳え立ってしまったなと、まざまざと思い知って。そして、もう二度と、克樹にも、会わない様にして、そんな生活に、早く慣れて。僕は……駄目だ、こんな想像だけで、泣かないでよ、僕。


「ほらよ。これ全部ピッキングは終わってるから、この袋から好きなだけ取ってけ。場所は貸してやるから」


麻袋を抱えた刈谷さんに声を掛けられて、暗い思考の海に漂わせていた意識を袂に手繰り寄せると、僕は刈谷さんに向けて軽く頭を下げて感謝してから、ふと、『場所を貸す』という言葉選びに疑問を抱いて、隣にいる克樹に意図を説明して欲しいという目を向けるた。すると、その子は、僕を安心させる様な笑みを浮かべて、刈谷さんの言葉を解釈して、僕に説明してくれた。


「焙煎機貸してくれるって。多分、小型の手回しのやつ。まだ時間はあるから、お言葉に甘えようか」

「え……それって、僕も?」

「最初は戸惑うかもしれないけど、やってみると楽しいよ。俺も手伝うから、一緒にやってみようよ」


突然の申し出には、戸惑いしかないけれど。僕に、新しい事をさせたり、挑戦を促したりするのに、最近の克樹はとても意欲的だ。昔は、危ない事は勿論の事、僕に降り掛かりそうな面倒事は、全て先回りして排除して行く様な子だったから、その変化には驚かされてばかりいる。この子が、こんな風に本当の意味で明るく前向きな発想で僕と接してくれる様になったのは、どうしてなんだろう。


一体、どんな心境の変化があって、こんなにも。格好良くなっちゃったの、お前。


「パチパチ、弾ける音がするでしょう。中では、豆が膨張しているんだけど、水分は熱で蒸発するから、質量は減ってるんだ」

「へぇ……」


お前が近くにいるだけで、胸が苦しい。焙煎機の取手を持つ、僕の手を、補助の為に大きな手で包み込んで。背後から身体をすっぽり包み込みながら、耳元で囁かれると、話している内容が、全然頭に入ってこなくて。気の抜けた生返事しか返せない。


「豆の表面にあるチャフって薄皮が剥がれて、回収箱に落ちる仕組みになってるんだ。これが出来るだけ少ない方が、美味しい珈琲が淹れられるよ」

「そう、なんだ……ねぇ、出来上がりまで、どれくらい、掛かりそう?」

「フルシティにするつもりでいるから、全体で20分前後かな……2ハゼしたら終わりだから、そうなったら教えるよ。だから……」


『それまで、俺にドキドキしていて』


そう、僕の心境や身体の変化なんて丸分かりとばかりに、吐息と共にそっと囁かれて。僕の身体は、痺れた様に動かなくなってしまった。


手も、心臓も、呼吸すら止まってしまった様な感覚。どんな感情からくる生理現象なのか、涙が目尻に滲んだ。顔も、多分、耳まで真っ赤になっている。だけど、それが分からないこの子では無いから。


「ごめんね、瑠衣君が、生まれたばかりの小鹿みたいに震えてるのが、可愛過ぎて……俺がシてあげるから、安心して身を任せて」


言葉選びが、いちいち卑猥なのが引っかかって仕方ないけれど、その申し出に、僕は必死になって頷いた。すると、克樹はクスクスと楽しそうに笑ってから、僕の熱くなった耳や、剥き出しの首筋に、ちゅ、ちゅ、と音を立てて唇を落としていって。


「ぁ、……や、……か、つき、……んっ」

「可愛い。どうしてこんなに可愛いの。俺をどうしたいの……ずっと自分だけで我慢してるのに、貴方がそんなだから、直ぐにこんなになっちゃう。これでも朝、二回も抜いたんだよ?」


ごりと、僕の尻たぶに、固く滾った怒張をズボン越しに押し当ててくる克樹に、びく、と身体を震わせる。そんな事していたなんて、全然知らなかった。それなのに、こんな風に?もしかして、という可能性に行き当たって、僕は、口の中に勝手に湧いた唾をこくん、と飲んでから、恐る恐る口を開いた。


「それって、もしかして、僕と一緒に暮らす様になってから……ずっと?」

「当たり前でしょ。貴方が目の前にいて、一緒に同じ部屋に住んで、腕の中に貴方を抱き締めて眠ってるのに、普通の状態でいられる訳ないじゃない」

「なんで、そんな……じゃあ、ずっと、その……我慢してたの?」


溜息と共に、深く頷かれ、言葉を無くす。僕に意図的に手を出さない様にしていただなんて、全然知らなかった。


「久し振りに病院で繋がった時、貴方に負担ばかり掛けてしまって。それが、ずっと後悔として心の中に残っていて……だから、貴方から求めてくれない限りは、自分からは絶対に手を出さないって、決めたんだ」


『貴方からの返事も、まだ聞いてないし』と、苦笑いを浮かべる克樹の顔を、繁々と眺めて、僕は、一緒に暮らしていたのに、こんなにもすれ違っていただなんて、と唖然としてしまった。


「僕、もう、お前に興味が無くなったんだと、思ってた。だから、キスしかしないんだって、ずっと……」

「は?俺が、貴方に興味が無くなる?ある筈ないでしょ、そんな事。もしかして、そんな無駄な事考えてたから、最近ずっと落ち込んでたの?」


苛立ちを露わにして、克樹が、腕の中にいる僕を責め立てる。僕は、あまりの豹変ぶりにすっかり慌ててしまって、ごめんなさい、と平謝りをした。


「俺が貴方に、いつもどれだけ煽られて参っているか、本当に知らないの?プロポーズだって、ずっと返事を待っていたのに……あぁ、今のは、その、聞かなかった事にして……」


勢いに任せて、言わなくても良い事を言ってしまった、とばかりに顔を掌で覆って、また再び深い溜息を吐く克樹に、自分の胸にずっとあった不安がほろほろと崩れて、胸に運ばれてきた暖気に乗って、何処かに消えていってしまった。これだけ近くにいたのに、僕達は、また対話の大切さを忘れていたんだと気が付いて。僕は、このままじゃ、絶対に良くない、と思い至った。


「あのね、僕……本当は、旅行が終わったら、あの部屋を出て、もう恋なんて絶対にしないで、一人で生きていこうと思っていたの。いつまでも、全然進歩しないし、過去に捉われてばかりいるし、こんなに立派になったお前には、僕なんて釣り合わないと思ったから。僕は、お前の足枷になんて、なりたくない。だから、綺麗な思い出しかないうちに、って」

「そんな真似、俺が許すと思う?釣り合い?過去?悪いけど、そんなの、俺にとってはどうでも良い。貴方が、どれだけ過去の出来事に縛られていても、それが理由で幸せになったらいけないと考える、意味が分からない」

「でも……僕は、人一人の人生を台無しにして、まだ幼いあの子を不幸せにした。そんな僕には、自分の幸せなんて」

「……埒があかない。瑠衣、話があるから、後でキチンと話し合おう。だから、心の中にある正直な気持ちを、全部話して。俺も、もっと自分に正直になるから」


有無を言わさない、強い憤怒の気を放つ克樹に、これ以上の言葉を尽くしても、いまは聞く耳を持ってくれないだろうと理解した僕は、キュッと唇を噛み締めてから、小さく頷いた。


克樹が、手回しの小さな焙煎機の回転を止めて、中身をチェックしている。その後ろ姿を、半歩離れた場所から見つめながら、本当にこれで良かったんだろうか、と後悔に苛まれた。


「よう、そろそろ終わっただろ。見せてみな」


何処からともなく現れた刈谷さんが、克樹の手元をひょいと覗き込んだ。そして、微かに眉間に皺を寄せて、克樹に向けてチクリと刺す様な視線を投げかけた。


「お前、ちゃんと回転見てなかったな?折角俺が選りすぐりの良い女見繕ってやったのに……」

「すみません、刈谷さん」

「ったく……何に気を取られてたんだか」


チラッと僕に向けて意味深な視線を送る刈谷さんに、どき、と胸が飛び跳ねる。僕達の為に『適当に』厳選した豆を台無しにした元凶が何なのか、全てを分かっている様な目だった。


「まぁ、飲めない訳じゃないから、勉強のつもりで持っていきな。俺が焙煎した方もやるから、飲み比べて、今後の教訓にしろよ」

「はい。ありがとうございます」

「また明日会った時にでも、感想聞かせろよな」


面倒見が良い人だとは思っていたけれど、まさか、ここまで優しくて気遣いが出来る人だったとは知らず、驚いてしまう。焙煎しながら克樹に聞いた話だと、確かこの豆は、なかなか市場にも出回らない超ハイグレードなスペシャリティコーヒー豆で、生豆の状態でも驚く程の値打ちで取引きされている代物だと言っていた。それを、これも勉強だといって、失敗品と成功品の両方を持たせてくれるだなんて。しかも、どれだけ言っても、お金を渡させてくれないときたから、いよいよ弱り果ててしまった。


でも、克樹は流石というか、『ありがとうございます、刈谷さん』なんて言って、普通に受け取ってしまった。刈谷さんも、気に障った様な雰囲気がないどころか、何故かご満悦の様子。克樹から、刈谷さんには可愛がって貰っているとは聞いていたけれど、まさかここまでとは思わなかったから、呆気に取られてしまった。


「どうだ。本当は、ピッキングからしてみた方が醍醐味が分かるんだけどな。それでも、生豆が焙煎されて、艶や光沢が出てくる過程は、面白いだろう?」


暫く僕の存在を忘れてしまったかの様に克樹と戯れていた刈谷さんが、克樹の斜め後ろにいた僕に、突然声を掛けてきた。さっき、折角頂いた豆を台無しにした流れもあったから、少し緊張しながら、頷いた。克樹に翻弄されてはいたけれど、豆の煎り上がっていく過程は一緒に確認してきたので、その手応えというか、魅力は充分に感じられた気持ちはあった。


「確かに、欠点豆という存在は、美味い珈琲を淹れる為には邪魔な存在だ。だけど、その豆を集めれば、焙煎機の使い方を学べる練習台としても活用出来る。つまり、職人が一杯の珈琲を淹れるという一連の流れの中には、無駄な行為そのものが一切存在しないと言っていい。だから俺は焙煎士になったし、珈琲が好きなんだ。自分の人生全てを掛けるくらいにはな」


人生に無駄な経験などない。そんな風に、背中を押してくれている様な、刈谷さんの言葉を聞いて、思わず、斜め前にいる克樹の横顔を見つめると、そこには、微苦笑を浮かべている幼馴染の姿があって。もしかしたら、僕にさっき話してくれた、欠点豆の話の下りは、克樹が昔、刈谷さんにして貰った話なのかもしれないな、と思った。


刈谷さんとは、焙煎工房の出入り口の前で別れた。見送りはしない、との言葉そのものはぶっきらぼうだったけれど、克樹は、『あれでいて照れ屋なんだよ。久し振りにあんなに話す刈谷さん見たな』なんて、目尻に皺を寄せて笑っていた。


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