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第21話 ひと夏の共同生活
しおりを挟むよく分からない男との、よくわからない共同生活が始まった。
「カップ麺とか、適当に食べていいから」
バイト先の制服に腕を通しながらそんなことを言う。母さんの世話を焼いていた頃を思い出して、懐かしい気持ちになった。
「なんか欲しいものある?」
「……酒」
タオルの上にパタリと力なく横たわったまま呻くみたいに返す男に、ああ、傷が痛むのか、と思った。そりゃそうか。痛いわな。覚えのある激痛を思い出しながら答える。
「痛み止めな」
酒は傷がマシになったらね。出血してんだから。
男が小さく呻いて返事をする。
「血止まったんならソファー使いなね。行ってきます」
「……いってら」
ほとんど癖みたいに言った言葉に返事が返ってきたから、驚いて振り返った。
閉まりかけのドアから、身を起こして、黒い前髪の間からジッとこちらを見つめる表情の読めない男の顔が見えた。
……いや、動くなって。まだ起きちゃダメだろ。そんなことを思いながら、がちゃ、と閉まったドアの前でパチクリ瞬きする。
正直、寝てる間に殺されてても文句は言えないな、くらいの気持ちで見知らぬ男との夜を越したわけだが。
畳を血で汚さないようにタオルの上に縮こまって寝るわ。
勝手に助けて勝手に治療しただけの見知らぬ男の言うことを素直に聞くわ。
今はただ弱っているだけかもしれないけど、あんな半グレから金を持ち逃げするような奴には見えない。
「何あいつ」
よく分からない奴。それが男の第一印象だった。
最悪、留守中に家のものを盗まれて逃げられるかな。
仕事中ふと思ったけど、よくよく考えてみればうちに金目のものとかなかった。
そんなわけで、呑気かましてノソノソ帰路に着くと、暗い部屋の中でこんもりと丸まっている生き物が変わらずそこにいた。
「……」
明かりをつけたら男を起こしてしまうだろう。月明かりだけを頼りに何故か自分の部屋にコソコソ足を踏み入れた。なんとなく、小さく丸まって身じろぎもせずに眠る男のことを起こすのはかわいそうな気がした。
「じゃあ、いってきます。薬、ちゃんと飲んでね」
「ん、いってら」
律儀なのか、動く気力がないのか、ただ少食なのか。
そいつは俺が食事をする時以外、ろくなものを食べようとしないので、せめて水くらいは飲めと枕元に魔法瓶に入った温かいお茶と痛み止めを置いて出かけるようになった。
寝ている男の顔に湿布やら絆創膏やらをペタペタ貼り付けた。
途中真っ黒い目がパチリと開いて俺を見たけど、「なんだ、お前か」という顔をしてまた眠りについた。
男はこんこんと眠った。
傷のせいで時々熱を出すからカップ麺はうどんとか蕎麦とかを買うことにした。
夜に苦しそうな呻き声が聞こえる時は起きて看病してやった。
男の白い額に浮かぶ玉のような汗を拭いてやる。人間の看病をしているというよりは、なにか、怪我をした妙な生き物を拾ってそいつを世話している、それくらいの感覚だった。
体調がだいぶ良くなってきて、一人で身を起こせるようになっても、男は大人しいままだった。
物静かと言うべきかなんと言うべきか。最初の頃の男はまず喋らなかった。
あのつるんとした何を考えているか分からない綺麗な色の目で、家事をする俺をじっと見ていた。俺を信用できる人間か確かめているみたいに。警戒する動物かよ。
洗濯やら掃除やらをしているところを、見知らぬ包帯だらけの男に見つめられている。だいぶ奇妙な状況だったけど。
当時から俺の、ことなかれ主義は健在だったので素知らぬ存ぜぬで普通に日々を過ごしていた。
唯一の肉親に捨てられて自暴自棄だった、とも言う。
しばらくすると、バイトから帰ってきたら洗濯物が畳まれていたり、そのままにしていた洗い物が済んでいたりすることが増えた。俺が拾ったのは奇妙な生き物ではなくごんぎつねだったらしい。
すっかり男の定位置になったソファーの上で、すまし顔でテレビを見ている男を振り返る。
男の唇がキュッと尖っている。痩せた長い指が、ブランケットの下で忙しなくトントンと動いていた。
……なんだこいつ。面白すぎる。
ふふ、と笑うと、ソファーから「なに」と厳しい視線がかえってきて「ごめん」と謝った。喉の奥の方がむずむずした。
ある晩、男のズボンから出てきたのと同じ銘柄のタバコを買ってライターと一緒に、男のお留守番セットこと魔法瓶と薬の横に並べてやると、男がパチリと長い睫毛を瞬かせて嬉しそうな顔で俺を見上げた。
「はは、そんな嬉しい?」
「……家、禁煙じゃないの?」
「いいよ、吸って。俺は吸わないけど。母さんがよく吸ってたし。今更だから」
「まじか、やった」
ニッと笑う傷だらけの顔に釘付けになった。
俺たちは割と上手くやっていたと思う。
いつからか自然と空けられるようになったソファーの右側に腰掛けて、二人でポツポツ話をしたりした。
ソファーの背もたれに肩肘をついて俺の方を向くいつもの姿勢で、何が楽しいのか男はいつもケラケラ笑っていた。
話って言ったってくだらないことだ。
俺もこの明らかに一般人じゃない男にどこまで踏み込んでいいのかわからなかったし、男も必要以上に自分の話をしようとしなかった。多分だけど、これ以上俺を自分のトラブルに巻き込まないようにしてくれていたんだと思う。
「なんであんな奴らの金盗んじゃったの?」
「さあ……、まともな生活がしたかったから?」
俺の知ってる男のまともな情報ってこれだけ。
あとは大抵、テレビを見ながら二人でぶつぶつ文句を言ったり、目玉焼きにケチャップを掛けたがる男に俺が騒いだり、当時のバイト先のセクハラ店長の愚痴を聞いてもらったり。
男は借りてきた猫みたいに大人しかったくせに、帰ってきた俺が「今日も尻を揉まれた」とチクる度に、綺麗な鼻にぎゅっと皺を寄せて「チンコ握り潰してやろうよ」と心底嫌そうに唸るものだから、俺はそれを見ていつも大笑いしていた。
怪我さえなければ本当にあのジジイのチンコを握り潰しに行きそうな剣幕だった。自分にされたことで誰かが本気で怒ってくれるってだけで救われるものがある。
それからは憂鬱だった店長のセクハラも、これまたあいつに言ったら嫌がるだろうな、とちょっと面白くなって、上手くあしらえるようになった。
「洗濯物が永遠に乾かん」
不思議だったのが、男のいる間、ほとんど毎日のようにしとしと冷たい雨が降り続いていたことだ。
「ごめん」と男が謝る。
……謝るようなことがあったか?
男はなんというか、独特のテンポがあるやつだった。話が飛び飛びに変わるし。顔に絆創膏やらなんやらが貼られすぎているせいで、いまいち感情が読みづらいし。
「俺、雨男なんだよね」
雨男。
また変な話が始まったな。
そう窓の外を見ながら呟く。
「そういうの信じるタイプ? 意外」
「今も雨が降ってる。あんたは信じないタイプ?」
「……信じるわけないじゃん」
「分かった。A型?」
また話が飛んだ。何コイツやりづら。
俺のそんな顔を見て、絆創膏の下の目をおもしろそうにキュッと細める。高い鼻に少しだけ皺がよる。子供みたいに口を横に引き伸ばして笑う。
落ち着いた声の、愛想のない男かと思っていたら案外ふざけてばかりだし、よく人を揶揄うみたいに笑うやつだった。
鼻の頭にキュッと皺を寄せる。
あの顔を見ると、俺は喉の奥がいつもキュッとしまった。
あー、笑った顔、かわいいな。15歳の俺はまだ今ほど捻くれてなかったので、そんなことをすまし顔の下で素直に考えていた。
「……A型だけど何?」
「俺もA型。血が足りなくなったらあげるから呼んで」
「………、どっちかっていうと今血が足りてないのあんたじゃないの」
「あー、マジでそう。立つたび目眩してさ。俺もう今ほぼほぼ洋ドラの貴婦人と一緒だよ。あーれーって倒れそうになるもん」
「その物騒な面でよく貴婦人が名乗れたな」
多分昼にやっていた流行りの洋ドラサスペンスのことを言っていたんだろう。何かショッキングなことがあるたびに、ウエストの細い上品な貴婦人がパタ…と倒れるやつ。
昼にドラマを楽しむ余裕が出てきたみたいで何よりだ。
そう笑いつつ、なぜか心がぎゅっと痛んだ。こいつ、怪我が治ったらどうするんかな。そんなことを考えて。
「でもさ、知らない人間の血とかごめんだけど、シーナの血なら欲しいなあ」
ギョッとして振り返る。
ふは、と吹き出した顔を見るあたり、俺を揶揄っているんだろう。
親しいものに向けるような柔らかい顔で笑う男に耳が勝手に熱くなった。
「シーナは俺の命の恩人だもんね」
「………命の恩人から血まで搾り取らないでもらえる」
自由人で気分家なこの男に、俺は振り回されっぱなしだった。
「ただいまー」
「おかえり」
階段の上の部屋にひさしぶりに電気がついているのを見上げた時。
俺がヘトヘトで仕事から帰ってくると、ソファーの上に力なく座った男が湿布やら包帯やら絆創膏まみれの顔を輝かせて振り返る時。
「今日は、なんと、廃棄のお弁当があります」
「やりー。なに弁当?」
「牛丼と焼肉弁当。好きな方選んで」
「いや、俺どっちも好き。てかタダ飯ってまじでうまいんだね。感動してる俺」
「今言ってることだけ聞いてたらマジでクズだからね」
二人で馬鹿なやりとりをしながら夕飯を食べる時。
「……は、ちょ、大丈夫?」
「……あ、痛。いたい。労働のことを考えると急に腹の傷が…」
「あほ」
この生活がずーっと続いてくれてもいいな、なんて考えていた。
「……あ。ねえ、俺月9じゃなくてボクシングみたい。チャンネル取って」
「……えーこの俳優かわいいのに」
「は?女優じゃなくて俳優?」
「シーナってさあ、きれーな顔して血の気が多いよね。男が殴り合ってるの見て楽しい?」
「知らない男と女が乳繰りあってるの見るよりは。おら、アッパー」
「……あ、いた。え、嘘。それ本気? 赤ちゃんでももうちょっといいパンチ打つよ?」
お盆が終わる頃には、家の中は随分片付いていた。
母さんの残して行った靴やらマニキュアやらワンピースやらはゴミ袋にまとめられて部屋の隅に追いやられている。
妙な話だけど、妙な男との奇妙な共同生活で、母さんに捨てられて、さっさと死んじゃいてーなんて考えていた俺はなんだかんだ立ち直りつつあった。
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