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第10話 チンピラとストーカー

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「……ぐっ」

俺が扉から離れた途端、外からカエルを踏み潰したようなひどい呻き声が聞こえた。
それから、ドンと重いものが何かに打ち付けられたみたいな音。ガシャンとガラスみたいなものが割れる音。
普段あまり聞くことのない物騒な音たちに体がギシリと固まる。
……なに、ドアの向こうで何が起きてんの。

――コンコン。

そして部屋に響いた、状況にひどく不釣り合いな優しいノックの音。
自分の体から血の気がひいていくのが分かった。
ど、どなたでしょうか。

本来の俺なら脇目も振らず逃げるか、武器を取りに行くべき状況である。間違いない。
だけど何を血迷ったか、俺は逃げるどころか扉に近づいて耳を押し当てた。
このホラー映画のような登場をする人物に一人だけ心当たりがあったのだ。……いや、まさか。まさかだとは思うけど。

「……は、はい?」

声がちょっぴり裏返る。

「……シーナ?」

静かな低い声。男の声だった。

「来るのが遅くなってごめん。そのまま扉を開けないで、俺がいいって言うまで中にいてくれる?」

怖がっている子供を宥めるように、とびきり優しくて穏やかな声がそう言った。
誰。誰だこの人。
この男がこれから何をするつもりなのか、外が今どういう状況なのかも分からない。

戸惑ったままの俺が答えを返せないでいると、無言を了承と受け取ったんだろうか。「待っててね」と言う声がして、カツカツとどこかで聞き覚えのある足音が遠ざかっていった。

「ひ……す、すみませ……」

怯えるチンピラの声の後に、ドカ、と鈍い音。
我に返って飛びつくように覗き穴を覗く。
スキンヘッドの方が床に這いつくばっていた。
その横には、こちらに背を向けてスキンヘッドを見下ろす男。後ろ姿しか見えないけど、多分若い男だ。

サラサラとした黒髪。引き締まった体にぴったりと沿う上質なオーダメイドスーツ。長い手足。大きな手。骨張った指に挟まれたタバコ。俺も高い方だけど、さらに頭ひとつ分くらいは高そうな身長。

男が階段の方へと歩くたびに、高そうな革靴が安っぽい廊下の上でカツンカツンと音を立てた。
その先では大男が腹を押さえて苦しげに手すりにしがみついている。
艶めく細身のスーツに包まれた長い脚がまっすぐ伸びて、その大男をなんの躊躇いもなく、手すりの向こうに蹴り落とした。
ガッシャーン!なんて凄まじい音が下階から聞こえてくる。

あ、やばい。
ゾワと背筋が泡立って、男がこちらに振り返ろうとした瞬間、俺はなぜかドアスコープから顔を離して隠れるみたいにしゃがみ込んでいた。
いや、なんで。顔見るチャンスだったじゃん。

ドコドコ心臓がうるさいくらいに音を立てている。これが恐怖からくるものなのか、驚愕からくるものなのか、それとも他の何かからくるものなのか。それさえ分からない。とにかくざわざわする。自分の感情を理解する余裕がない。

扉の向こうから男の声が聞こえてくる。

「……俺とシーナの時間をさ、邪魔するだけの理由があるんだよな」

……"俺とシーナの時間"?
スキンヘッドの方に話しかけているらしい唸るような声に、耳をすませながら口を塞いだ。
……やっぱり。やっぱりそうじゃん。
確信が欲しい。メッセージを送るためにゴソゴソ尻ポケットを探ったけど、いつもそこにあるはずのスマホがない。
……あー、クソ、布団の中に隠したんだった。

「シーナのさ、楽しそうな声を聞くのが俺の唯一の生きがいなわけ。日がな一日臭い男連中引き連れてあちこち飛び回ってられるの、シーナがいるからなんだよ」

低い声の合間合間に、鈍い音と呻き声が聞こえてくる。
ちょ、ちょっと待ってくれ。

「……ス、ストーカーさん?」

ピタリ。外でしていた不穏な物音の一切合切が止んだ。

「……え、ストーカーさんだよね?」

「………は、話しかけられた。……待って。ちょっと待って。こっち見ないで。ちょ、おい!この人たち片付けといて、はや、はやく!!変なの見せたくねえから!!」

途端に扉の外が騒がしくなる。ズルズルと、まるでマグロでも引き摺るような音が聞こえてくる。

「え、嘘。本当にストーカーさん?……け、怪我は?ない?大丈夫?」

大混乱しながらドアスコープを今更になって覗くけど、何かで押さえているのか、真っ暗で何も見えなかった。様子が何もわからない。仕方がないから、扉に耳を押し付けた。外から返ってくるのは「はわ………」とかいうよく意味の分からない声。……え、ほんとに大丈夫?

「たまたま近くにいたの?すごい音してたけど、怪我は?」

「……だ、大丈夫」

「怪我してないってこと?」

「してな………あ、」

"あ"???

「怪我したの!?」

「あ、いや、ちょっと手……切っただけ、」

怪我、してんじゃん!!
大したことない、と言いたげな言葉に思わずそう叫んで、俺はバタバタ大慌てで部屋に走り込んだ。
戸棚をガバッ!と、ひっくり返して奥の方にあった薬箱をひきずりだす。

いや、俺も切り傷くらいって思うよ?思うけど、自分と借金取りのトラブルに他人巻き込んだら流石に慌てるだろ!そもそもなんでただのストーカーが借金取りのチンピラにバトル挑むんだよ!

またバタバタ玄関の方に戻る。
扉は開きそうにないから、ポストの穴に絆創膏を刺し込んだ。

「まじでごめん!こんなのしか用意出来ないけど、せめて絆創膏!変なのに巻き込んで本当ごめん!」

「………か、家宝にする」

「家宝にしなくていいから使って」

使わなきゃ意味ないから。

そんな風につい、あんな騒動の後とは思えないいつも通りの会話をしていると、どこからか急かすようなクラクションが聞こえてきた。

「……ごめん、俺行くね」

「……え、は?」

いやいや、ちょっと待て。
誰がこの状況で「うん分かったバイバイ」って言うと思うんだよ。
くそ、チェーンなんかかけてたお陰で扉がなかなか開かない。もたつきながらなんとか扉を開けて、裸足のまま廊下に飛び出すと、すぐ下の道路に停まった高そうな黒塗りの外国車と、階段を降りてそれに乗り込む後ろ姿が見えた。

「ス……」

いや、運転手もいるのに、ストーカーさんはまずいだろ。
そう思って一度口詰まる。だけど俺、あの人のこと他になんて呼べばいいのか知らない。

「ば、絆創膏、ちゃんと使って! 怪我させて本当ごめん!! 助かった!!!」

とにかく、お礼を。と、手すりから乗り出して声を張り上げた。ププーと返事をするように二度クラクションが鳴って、車が静かに走り出す。その後ろ姿は、あまりにもアッサリと見えなくなってしまった。
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