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第5話 血塗れのハートサイン

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「シーナおつかれ~~」

朝の5時。
店長のゆる~い声を合図に仕事が終わった。

「お疲れ様です」

雑居ビルの地下にある小さなバーで働き始めてかれこれもう3年。
19時始まりの、終わるのは大体始発が出る5時前くらい。
お客さんはこの繁華街で働いているホストとかキャバ嬢とか、その連れの人とかがほとんど。
俺の生活リズムはこの3年をかけてすっかり昼と夜が逆転してしまった。ちょっと不眠症気味なのもそのせい。

「これから朝ご飯行かん? 俺な、今日冷麺の気分」

そう言ってニコニコ笑っているのがこの店の店長。
たぶんまだ30とかそこらなのに、競争が激しくて地価も高いはずのこの街で、こんなに立派なバーを持っている謎の男である。

冷麺……。冷麺かあ……。

「……食べたいんですけど口開かないんで、今日は帰ります」

「あ~~……」と、少し前を歩いていた店長が残念そうな声を出して振り返った。
パーツの一つ一つは薄味なのに、なんか雰囲気のある小綺麗な顔立ち。お婆ちゃんかお爺ちゃんが中国人らしい。
めちゃくちゃイケメンってわけでもないのに謎にモテる人っているけど、まさにこの人がそれだと思う。実際女の子に逆ナンされてるのよく見るし。

「口の傷はだるいよなあ」

「激だるいです」

「超痛そうやもん」

絆創膏で隠し切れてない青あざを見ながら店長が呟く。

「……みんな大騒ぎやったな。『俺たちのシーナがーー!!!』って」

「あはは」

俺のこの酷い顔を見た、常連さんの騒ぎっぷりは本当にすごかった。20歳の男をアイドル扱いするいい大人たちの図はキツイものがあるけど、心配してもらえるのはちょっぴりありがたくなくもない。ちょっぴり。本当にちょっぴりな。

「アイツ見つけたら代わりにぶん殴ってくれるらしいで」

「はは、みんなに殴られたらもうボコボコじゃないですか」

「ボコボコでいいやろ」

アイツ元からいけ好かんかったし。

そんなことを話しながら、二人で朝の繁華街を歩く。
駅までほんの数分の道のり。
店長はいつも、始発が出る地下鉄の入り口まで俺を見送りたがるのだ。
女の子でもないのに恥ずかしいわって思うけど「シーナ目離したらまじでうっかり死にそうやもん」とか言われたら、もう何も言い返せない。
……昨日路地裏で気絶したのもうバレてるし。情けな。いい大人が何してんだろうね。

「シーナさあ、あんなクズ男と付き合うくらいなら俺と付き合えばいいやん。俺超尽くすタイプやで」

そんな突然の言葉と共に、パチン、と飛ばされたウインクをパタパタ振り払った。

「……あ、駅だ。じゃ、俺ここなんで。お疲れ様でーす」

「アアン冷たい! でもそんなところも好き!」

わざとらしく身をクネクネ捩らせる大の男は置き去りだ。
さっさと階段を降りる。
ちなみに、あんなにふざけてるけど、俺の怪我を見て一番大騒ぎしたのは店長だった。ちょっと3枚目気取ってるだけで、実際はただの優しい塩顔モテ男なのだ。ムカつく。

店長は、顔に物騒な傷を作ってきたバカな俺(接客業なのに顔に怪我してくるとか最悪)を怒りもせずに「マジでさ、ダメ男と付き合うのもうやめような」と、デコピン一発だけで許してくれた。それも優しいデコピン。
なるほど、この人こうやって女たぶらかしてんだなって感じだった。
……うそ。本当はちゃんと反省してる。


階段を降りる途中で振り返ると、ただでさえ細い目を余計に細くしてニコニコ笑っている店長が手を振った。
俺も片手を上げてそれに答える。
いつも俺が階段をちゃんと降り切るまで見送ってくれてんだよな。
腹ペコ店長がさっさと冷麺にありつけるように、一段飛ばしで急いで階段を降りた。

「超尽くすタイプか……」

やけに耳に残った言葉を繰り返す。
そりゃあ、自分の身を削って付き合わなきゃいけない相手より、大切に尽くしてくれる男と付き合った方が幸せだろうな。当たり前だけど。











「ただいま~」

ヘトヘトの体でアパートの階段を上り、ちゃちな鍵を開けた時、俺はハタと気がついた。
――あ、蛍光灯。

「……暗」

すっかり忘れてた。俺のバカ。鳥頭。
仕事終わりのいい気分がシュルシュル萎んだ。
しかもカーテンも開けずに出かけたせいで部屋の中が真っ暗。何も見えない。
散らかった物に蹴躓いて転ぶのが嫌で玄関に立ち尽くす。
あー、めんどくさ。どうしよ、これ。

「……」

とりあえず、つけないよりはマシだろう。
パチンとスイッチを押した。
部屋がパッと明るくなる。
そして、すぐ違和感に気づいてゆっくりと視線を上げた。

――"眩しいくらい明るい蛍光灯が煌々と俺を照らしている"。

「……あれ?」

夜勤明けの頭はいまいちうまく働かない。
めちゃくちゃ難しい間違い探しでも見てる気分。違和感はあるのに、何がおかしいのかが分からない。
いや、嘘、本当はわかってる。それがなんでそうなってるのかが分からない。

ポピン。

眩しさに目を細めて首を傾げたまま頭上を見上げていた俺を、間の抜けた通知音が現実に連れ戻した。
登録した覚えのない番号からのメッセージだ。


『おかえり』

「…………え?」

うわ、なんだこれ。
なんでもないそのたった4文字に、背筋が一気に粟立つのを感じた。

え、誰?
……なんで俺が帰ってきたのを知ってんの?
誰かに見られてた?
……それとも、誰かに"見られてる"?

「……」

ガチャリ。後手で鍵を閉める。

ポピン
『わざとやってんの?』

新たに届いたメッセージの気味悪さに、ぐるりと部屋中を見渡して安全確認を試みる。
部屋の中に、不審者の姿はなかったわけだけど、残念ながら求めていた安心は得られなかった。
理解できない。ガチリと身体が凍る。
人間ってまじで驚くと固まるんだね。知らなかったわ。
どこか冷静な頭でそんなことを思いながら、俺はそっと背中を扉に預けた。

山積みになったお皿も、散らかっていた空き缶も、部屋の隅にまとめてあったゴミ袋もなくなっている。
窓際で、綺麗にアイロンが当てられたシャツがユラユラ揺れる。
え、絶対、出る前こんなに部屋綺麗じゃなかったよな。

「……なにこれ」

なにって、誰かが、この部屋に入ったんだよ。
……いや、誰が? どうやって?

ポピン。

いつのまにか取り落としていたらしい。足元でスマホが音を立てた。
画像の到着を知らせる通知が一件。
恐る恐るスマホを拾い上げて、通知をタップする。

「………うわ、」

それは、元カレの写真だった。
昨日の朝に俺を殴って逃げやがった"あの"元カレ。
ソイツは、ぼたぼた鼻血を垂らしながら、唯一の取り柄だった顔をぐちゃぐちゃにして泣いている。
右下に、節くれだった長い指がつくる血まみれのハートサインが見切れていた。


ポピン
『なんで毎回こんなクズ男ばっかり選ぶの? 俺のこと試してる?』

ポピン
『冷蔵庫の中に麦茶しかないのはなんで? 死にたいの? 飯食って?』

ポピン
『あ、電球切れてたの替えておいたよ』

ポピン
『てかとりあえずこいつ、ゲイ風俗にでも売り捌いてきてもいい?』

ポピン
『驚いた顔、かわい』

ポピン
『♡』







「……う、うわ」
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