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37 大丈夫じゃない
しおりを挟む「結局、高梨さんのあれって何だったんですか?」
「あれね、悪質なストーカーにあったんじゃないかって噂」
「うわ、マジですか? かわいそう、高梨さん」
「……、」
職場の廊下で、思わず立ち止まる。
あれからしばらくの時間が経って、俺は職場復帰を果たしていた。
覚悟はしていたけど、初めの数日の居心地の悪さといったらなかった。こっちからヒソヒソあっちからヒソヒソ。何も言わない人達も妙にチラチラとこちらを窺っていてやたらと視線が合うのだ。やりづらいったらない。
だけどまあ、仕方のないことだろうとも思う。職場の人間がナイフで手を刺されて意識不明で倒れてた……だなんてめちゃくちゃなゴシップだ。死んでたらゴシップにもできないけど。全然生きてるし。こうして普通に出勤してきているわけだし。しかもそいつが普段飲み会とかの参加率の低い、仕事だけはそれなりにちゃんとしてるけど、休日何してるか分からないタイプの社員で。
挙げ句の果て多くを語らず、少々気まずげな顔で、「……ご迷惑をおかけしました」なんて帰ってきたら誰だって噂するに決まってる。
俺でも多分しちゃうし。
「爽やかで良い人だと思ってたけど、案外女癖が悪いんですかね」
「気を持たせちゃうタイプなんじゃない?」
「あー、ぽいですー」
とはいえ、自分についてヒソヒソと話し合われる現場に居合わせるというのは、あんまり良い思いがするものじゃない。というか普通に気まずい。
……出直すか。
俺は手元の書類にチラ……と視線を落とした後、足音を立てないよう回れ右をしてきた道を引き返した。
「なんかあった?」
「あー、うん、大丈夫」
小さくため息をつきながらデスクに戻れば同僚から声をかけられる。
俺はそれに軽く首を振りながら席についた。
チラ、と他のデスクから数人の視線がよこされ、離れていく。
「……ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫だって」
嘘じゃない。大丈夫だ。
仕事が少々やりづらいけど、それを除いたあの事件の弊害といえば、未だに警察から電話が来たりなんかすることくらいだ。
あとはまあ、ナイフに刺された左手の動きが少しだけ悪くなったこと。
未だにリハビリが続いていて貴重な休日が消費されて地味にストレスなこと。
気の毒そうな顔をしたお医者さんに「完全に元に戻すのは難しいです」なんて言われたことくらい。
……まあ色々と大変だけど、これらのことについてはあまり落ち込んでいない。
幸運なことに? いや、不幸中の幸いとでもいうべきか、あのアンポンタンに刺されたのは左手だったし。俺の仕事は基本パソコンのタイピングさえできれば問題はないわけで。
強いていうならちょっと日常の中で些細な不便はあるのかもしれないけど。例えば前みたいに、両手を激しく使うゲームはちょっと下手になった。
だけど、これまた不幸中の幸いで俺が好きなのはストーリーのあるRPGだし。リハビリさえ続ければその不便も少なくなっていくようだし。
特に気にすることじゃない。
強がっているわけじゃなくて、本当にそう思う。
「じゃ、俺先帰るわ」
「おー」
「すみません、お先失礼します」
だから朝起きて仕事に行って、コンビニに寄って帰って少しゲームをして眠る。
まさかほんの少し前にナイフで刺されて警察のお世話になった人間とは思えないなんとも普通の日常を、俺は送っている。
「ただいまー」
普通と少しだけ違うのは、家に帰ってまず一番に向かうのが押し入れの扉の前だということだ。
あとは毎日そこを開け当たり前に広がる押入れを見て、期待を裏切られたというようにため息をつきながらガチャリと扉を閉めているということ。
それから、それをもう何度も繰り返していて、無意識の習慣みたいになってしまっているということ。
きっと側から見たらちょっとどこかがおかしい人に見えるに違いない。
俺もそろそろ、もしかしておかしいのは自分なのかもと思う。
ひょっとしたら、押し入れが異世界に繋がっていてシドと仲良くなるなんて夢を見ていただけなのかもしれない。
そんなことをふと考えてしまうほど、あれからこの扉はうんともすんとも言わなくなってしまった。
だけど夢のはずがない。
ガチャリと押入れを閉める手の甲にざっくりと残ったみみず腫れを、確かめるように見下ろしながら思う。
ナイフを奪われないよう握りしめたせいで、傷口がずいぶん汚くなってしまった結果がこれだ。
ギョッとされがちなので外出をする時は手袋をしなくちゃならなくなった原因。今の季節はまだ良いけど、夏になったらどうしよう。汗とかやばそう。だんだんと暖かくなってきた気候に抱く、そんなリアルな悩みもどうしようもなく現実のもので。
「……じゃあなんで繋がらなくなったんだお前」
俺は扉をじとりと睨め付けながら、訴えるように一人で文句を言い続けていた。
なんとかしてシドの無事を確かめたい。
彼が初めて取り付けてくれた次の約束を守りたい。
その一心で、毎日飽きもせず繰り返していることだけど、正直なところ扉が繋がらなくなった心当たりは……なくもないのだ。
あまり考えたくない。でも最後の最後。
俺と牢獄に向かってぶち込まれた、あの魔法。
俺は牢獄から逃げ出すことに必死になっていたし、ナイフが貫通している手の痛みもわからないくらいにアドレナリンが出ていたから、あれがどのくらいの威力の魔法だったかは分からないけど。成人男性一人を吹き飛ばして壁に叩きつけるような威力って相当なはず。
ひょっとしてあの牢獄が壊れたから、扉が繋がらなくなったんじゃないのか。
だってあの日、ウィンターグレーの酒場に突然落っこちた心当たりだって、俺が扉を勢いよく閉めたせいで扉の立て付けが悪くなっていたとかそれくらいだ。
立て付けが悪くなったくらいで繋がる場所の座標がズレるような扉が、あんな魔法をぶち込まれたらどうなるか。
ある日ふと思い至ったそんな考えに俺は「うう」と頭を抱えることになった。
だってもしそうだとしたら俺にできることなんて、まるでないのだ。
それこそこうして毎日扉を開けることくらいしか。
「……ああー」
もどかしい。今この瞬間にもシドが酷い目にあっているかもしれないのに。
余裕のない呻き声を漏らしながら、俺は押入れの扉のドアノブから手を離した。
そしてスマホの壁紙に表示されたカレンダーを見下ろした。
俺が日本に帰ってきてからもう二ヶ月近くが経とうとしている。
もはや、俺の体験していた非日常を証明するのはこのみみず腫れと。あとは、ひょっとしたら俺の介入でシドの人生が本来のものよりずっと恐ろしいものになってしまったかもしれない想像するたびグッと引き絞られる心臓くらいになってしまった。
「……シドの無事を確かめられるならなんでもするって。頼むよ~」
ゴツン。扉に額をぶつけながらバカなことを呟くけど、もちろんそんな願いが「はいそうですか」と叶えられるはずがなく。
扉はいつまでもちゃんとただの押入れの扉をやっていて。
そしてそれは、約束の一年が経っても同じことだった。
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