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19 扉は丁重に扱いましょう
しおりを挟む……すると、その踏み入れた足が空を切った。
……そう。空を切った。
いつもなら床が続いているはずのそこで、俺はなぜだか一瞬ふわりと宙に浮いたのだ。
「え??」
あるはずの床がないせいで、一歩進むつもりだった体がバランスを崩して前に傾く。
行き場を無くしてガクリと下に落ちた足が数十センチほど下で勢いよくダンッと床を踏んだ。
慌てて力を入れ、足を踏んばる。
「う、わっ、わっ、わっ!」
そして俺はそのままの勢いで二歩三歩四歩、ほとんど転ぶようなやり方で前に進んだ。
目の前に迫ってきた木のテーブルにバン! と何とか両手をついて、ようやく足が止まる。
「あっ……ぶな……!」
動揺と驚愕にドッドッドッと心臓が激しく脈打つのが分かった。
テーブルに思いっきりついた手のひらが熱く痺れている。
そう。テーブル。テーブルに、俺は手をついたのだ。
――……押し入れの中に、テーブルとかあったか?
まさか、あるわけがない。
自身の手のひらにある立派な木のテーブルを見つめ目を丸めていた俺は、勢いよく顔を上げ辺りを見渡した。
「…………え?」
そして、喉の奥から掠れた音を出すことになった。
辺りには、自宅の押し入れでも、すっかり慣れ親しんだあの牢獄でもない光景が広がっていたのだ。
俺は何故だか、全く見たことのない酒場の店内に裸足のまま突っ立っていた。
「……」
深い色の木で作られた温かみのある内装と、吹き抜けの天井から垂れる蜘蛛の糸が絡んだ巨大なシャンデリアを見上げ絶句する。
シャンデリアの上で灯された大量の蝋燭たちがゆらゆら揺れて、俺や店内の人々をオレンジ色に照らしていた。
店内の人々っていうのはつまり、ガハガハと乱暴な笑い声をあげている体格の良い男達だ。それからその男達の膝に座る色っぽい女の人達や、楽器を演奏する小洒落た服装の青年や、木でできたジョッキを両手一杯に持って慌ただしく駆け回る店員らしき少年たち。
雪のシンと静かな匂いが漂うあの牢獄とも、慣れ親しんだ俺のアパートとも違う、むせかえるようなアルコールと煙草の匂いが鼻につく様子が、やけにリアルだった。
ざわざわと耳につく喧騒にガチャガチャと触れ合う食器の音がする。
何か聞き慣れない楽器の音……バグパイプに似た音が店内を鮮やかに駆け抜け、時折右や左でドッ! と大きな笑い声が起きる。
突然目の前に広がった光景に、俺はほんの数瞬、頭の動きも体の動きも止めて呆然としていた。
だけどその直後、後ろから聞こえてきたドン、という鈍い音に体が震える。
はっとして振り返れば、つい先ほど俺が転びかけながら開け放った扉が、壁でゆっくりと跳ね返るのが見えた。
ああ、そうか、扉。
「扉……?」
――いや、ちょっと待て。今あの扉が閉まるのは、かなりまずいんじゃ……。
今まで、シドの牢獄に滞在していた時。俺はあの扉を常に開けっぱなしにしていた。
その方が食事や物を運び込む時、何かと都合が良かったから。
扉を閉めるのはいつもシドとお別れをする時だけ。
つまり俺は、繋がっている途中で扉を閉めたらどうなるのかを知らなかった。嫌な予感でゾッと背中が粟立つ。
「いやいやいや……!!」
「うわ!!」
顔を青ざめさせながら咄嗟に扉に飛びつこうと走り出した瞬間、目の前を横切った店員と強かに体をぶつける。
彼の持っていた大量のジョッキが宙を舞い床へ落ちる様子と、その向こうで無情にも扉が閉まる光景。
その二つがバランスを崩し仰反る俺の瞳に、スローモーションで映っていた。
――ガシャーーーン!!!
けたたましいほど大きな音が、店内に響き渡った。
パチパチと瞬きをする。
気がつけば俺は、床に尻餅をつくように転んでいて。
そのままの体勢で見上げた壁には、扉の影も形も見えなくなっていた。
……。
「…………マ、マジ??」
宙を舞ったジョッキから降り注いだビールを髪からポタポタと垂らしたままの姿で、呆然と呟く。
コロコロ……と転がってきたジョッキがコツンと尻に当たる。
その感触に恐る恐る後ろを振り返れば、シンと水を打ったように静まった店内のお客たちと視線が合う。
……ああ。
俺は自分の頰が引き攣るのを感じつつ、すぐ右隣から感じる痛いほどの視線の方向へ、おずおず視線を動かした。
そこには背が低い男たちの集団が座っている。
背が低いっていうのは平均より低いとかそういう話じゃなくて、多分140㎝そこらしか身長がないということだ。だけど子供ってわけじゃない。彼らは服の上からでもわかる岩のように逞しい体をしていて、立派な髭の生えた男らしい顔立ちをしていた。
そんな奇妙な男たちの一人。ライオンのたてがみのような長い髪をした男の丁寧に編み込んだ髭からポタポタと水滴が垂れているのだ。
……言うまでも無く、さっき俺がひっくり返させたビールの水滴である。
逞しい体に纏った毛皮のコートもしとどに濡れて、乾かしたところで元の毛並みに戻すことは難しいだろうことが俺にも分かった。
「……おい、お前よお」
髭の隙間から低い低い唸り声が聞こえてきて、ヒクと口角が引き攣る。熊の唸り声みたいな声だった。
……ああ。押し入れのドアが異世界に繋がってるなんて異常事態が起こっていたんだから、もっとちゃんと気をつけておくべきだったな。
引き攣った顔で今更そんな後悔をしても遅い。
「ドワーフの髭を汚すってのが、どういう意味か分かってんだろうな」
「……ド、ドワーフ」
……ここで豆知識なのだが『ラスト・キング』にも、ドワーフは登場する。
俺の知っている彼らは、強靭な体を持った大変に短気で怒りっぽい種族だった。
そして、そのドワーフらしい無骨な飾りが編み込まれた長い長い髭は彼らの誇りそのものだという設定だった。なんでも、立派であればあるほど女性にモテるのだとか。不用意に触れば彼らの不興を買うこと間違いなし。
……どうやら俺はそんなドワーフに、思いっきりビールを吹っかけてしまったところらしい。
「おい、口がきけねぇわけじゃねえんだろう」
「……」
――あ、やべ、殺される。
俺は目を怒らせ立ち上がるドワーフを見ながら、真顔でそう思った。
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