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得体の知れない何かが

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クリスティン様から湖畔の別荘にお誘いされた時は夢じゃないかと、思った。

『夏の間ずっと……』そう消え入るような声で言い、恥ずかしそうに笑顔を見せた彼女に胸の鼓動が速まった。

最初に頭に浮かんだのは婚約者のシャルではなくて、上司の顔だった。

シャルなら何とかなると思った。
にっこり笑って上手いこと言えば3ヶ月ぐらいどうにか出来る。

だが仕事はそうは行かない。
第3騎士隊隊長は難しい男だ。
多分、俺のことを気に食わないやつだと思ってる。
最初に挨拶した時の印象が悪かったんだろう。


「貴様はブラッド様と同じクラスだったか?」

ブラッドというのは騎士団団長の息子で、アーロン王子の側近の3バカのひとりだ。
騎士科でずっと同じクラスだった。
侯爵家の嫡男の割に気安い男で、誰にでも対等に接していたが、俺は挨拶ぐらいしかしなかった。
やつは平民女の取り巻きだったからだ。


「同じクラスでしたが、親しくお付き合いはしておりませんでした!」

直立して畏まって答えた俺を、隊長はしばらく見て『そうか』とだけ言った。
ただそれだけだ。
ブラッドと隊長がどんな間柄だったかは知らない。

隊長は37歳の平民出身者だったので、第3の平民騎士達にとって希望の星だった。
がんばって結果を残せれば、平民であっても40になる前に隊長になれる。
隊長はそんな夢を見せてくれる希望の星だったのだ。

そんな隊長とブラッドがどう繋がっていたのかは、知るよしもなかったが、俺は彼のお眼鏡には叶わなかった。

(どうでもいいか、どうせ2年経ったら俺は辞めるんだから)


それまで隊長から冷たい態度を取られても知らん顔してればいいと、開き直って仕事をこなしていたが。
さすがにこの時期に勤務シフトの変更を言い出すのは、まずいことだと判っていた。


「夏は皆休みたいんだ。
 今になってシフトを減らしてくれとは、どういう了見だ?」

「申し訳ありません」

「謝るな、理由を言え」

「個人的な理由としか言えません」

「却下、理由がなければ、休みを増やすことは認めん」


ますます騎士団に居づらくなると思った。
俺が2年しか居ない事、退団したら婿入りして次期伯爵になる事を、誰かが聞き付けて隊内に広めたせいで、俺は『腰かけ』と言われている。


それでもクリスティン様からのお誘いを断る気はなかった。

これは俺が選んだことだ。
これだけは誰にも邪魔はさせない。

大きな荷物を持ち、しばらく留守にすると告げると、家族から突き上げられた。
シャル以外の女の所に行くのだと気付いたのだろう。
親父は説明しろと怒鳴り、何処に行くのと、母はおろおろしていた。
ディランには襟元を掴まれた。
『何でお前なんかが…』と、絞り出すようにディランが言った。


シャルには泣かれたが、申し訳ないという気持ちは持てなかった。
俺からのバカンスの誘いを当然のように待っていた彼女は、俺の話に愕然としていた。


俺だって本気で夏の間ずっと、なんて思ってなかった。

クリスティン様はふたりでと言ったが、他にも彼女の友人が別荘を出入りするだろうし、仕事も休めない。

多分、シャルが想像してるより王都に帰る機会は多い。
夏中会わないと口にはしたけど、本当はそこまでシャルを放っておくつもりはなかった。


ちょっとした意趣返しだったのだ。
シャルは来年の結婚に向けて、あれこれ考えてノートなんか作って楽しそうにしてたけど、そこには俺の意見など入ってない気がしてた。

相談と言いながらそのノートを見せられても、彼女のしたいように物事は進むんだろうと、気持ちは冷めて行くばかりだったのだ。


自分でも彼女に意地悪なことを言ってるのは判ってた。
言い訳じみてるが、その時はクリスティン様とどうこうなるなんて、有り得ないと思っていた。

馬鹿みたいだと嗤われるだろうけど。
女神から誘ってくれたんだ、ちょっとぐらい夢を見させてくれよ、って。
独身最後の夏なんだから、って。

夏が終われば戻ると、シャルに言ったのは本気だった。


俺なんか選ばなきゃこんなこと言われなくてもよかったのに。
ディランを選んでいたら君はきっと大切にされてたよ。

彼女の涙を拭きながら、そう思った。


 ◇◇◇


夏が終わるのが待ち遠しかった。
俺はクリスティン様から解放される日を待っていた。

仕事がある王都と別荘間の移動は覚悟してたよりキツかった。
身体だって疲れてたが、この頃は精神的に辛くなってきていた。
どんなに焦がれて求めていた相手だとしても、ふたりきりの夏は長過ぎる。


特に最近はクリスティン様との距離が近くなってきて、彼女の手が俺の身体に触れるのも珍しくなかった。
貴女との間にそんな関係は要らないんだと、言えなかった。

女性から求められるのも悪くないが、相手は筆頭公爵家の令嬢だ。
下手に手を出したら後が怖い。

シャルに操を立てている訳ではなかったが、彼女以外の女性と関係を持つつもりもなかった。
俺はややこしい関係なんか欲しくない。
それだけだったのだ。

息抜きしたくて、朝食後に王都に戻るとクリスティン様に告げた。


「今日も明日もお仕事じゃないでしょ。
 どうして戻るの?」

「朝晩冷えてきたので、実家に上着を取りに戻ろうかと思っています。
 美味しいお菓子をお土産に買って帰りますので、お楽しみにしててくださいね」


ちょっと実家に寄って、それから久しぶりにシャルのところに顔を出そうかと、思っていた。

俺はシャルにウエディングブーケを贈る約束をしていた。
持ちたい花をまだ聞いてなかった。
人気のあるフローリストに頼むのなら、来年の夏だが今から予約しても遅いかもしれない。

彼女の、いつものノートにはそんな情報が書いてある筈だ。
ふたりで眺めながら相談するのもいいな、と考えていると。


「なら、わざわざ取りに行かなくても買えばいいわよね?
 私も気晴らしにご一緒するわ」


クリスティン様は俺を逃がしてくれない。
『飼われる』という言葉が急に頭に浮かんだ。


シャルの父親から感じる圧とは、比べ物にならない得体の知れない何かが。

クリスティン様の微笑みにあった。


 
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