【完結】この胸が痛むのは

Mimi

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第99話

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アシュフォード王弟殿下はとてもお優しいひとです。
それはわかっています。

初めてお会いした王城で。
私はほんの9歳の子供でしたが、この方の優しさは本物だとわかったのです。


誰もがそうお認めになるアシュフォード殿下の紫の瞳が。
射抜くように、私を見つめています。


「これは……一体どういうつもりだ?」


掃き出し窓のカーテンを引いて、殿下は振り返られ。
私の姿をご確認なさって、こう仰せになったのです。
そのお言葉で私は我に返りました。


今日はクラリスの誕生日でした。
登城する父と兄を見送って。

父は私がアシュフォード殿下と結婚し、殿下が公爵位を賜れば、財務大臣の地位を辞職すると決められていました。
兄は既に外務へ誘われて、外交に必要な国際法務の末席に就かせていただいたと、毎日充実した日々を送られておりました。
ですから父は何の憂いもなく、職を辞する事が出来ると嬉しそうによく語られていました。


午前中はピアノを弾きました。
母や姉が好きだった曲を何曲か続けて弾きました。
バロウズ出身の有名なピアノ演奏家がいらっしゃって、その方が今度リヨン王国で演奏会をされるというので、殿下にお誘いをいただいていました。
父から『婚約してからなら問題はないかと思いますが、その前には』と、釘を刺された殿下がお気の毒で。
『ごめんなさい』と、お伝えすると。
『演奏会は11月だから、それまでに君を今以上に、一生懸命に口説かなきゃ』と、笑ってくださって。


本当に殿下はお優しくて、今まで一度も嫌な顔を私にはお見せにならない御方です。
……あの時の殿下の笑顔を思い浮かべてピアノを弾いて……
何だかおかしな気分になってきていました。
ふわふわと、浮いている様な感覚。

ピアノ室の天井辺りに別の私がいて、ピアノを弾いている私を見ている。
休憩もせずに弾き続けているのが悪いのだと、わかっていました。
それに加えて、命日の昼食会の為に色々と時間を取られていて、最近は疲れていました。
今日は大事な日なのに。
しっかりしなきゃと、自分を奮い立たせようと思いました。


もうすぐ昼食です。
父も兄も居ない平日の昼食はいつも簡単に食べられるものを私室に届けて貰っていました。
春から秋にかけて天気のよい日は、バルコニーに用意してと、レニーにお願いしていました。
残念ながら今日は雨なので、部屋の中で食べることになります。


昼食はサラダ、スープ、小海老のグラタンに小さなプリンを付けてくれていました。
今夜の夕食は多分、姉が好きだったメニューから選んだものが食卓に並ぶことになるでしょう。
ほんやりとその様な事を考えていたら、今度は頭痛がして。

ゲイルはいつ帰って来るのかしら?
朝から何度もアーサーに尋ねてしまって、変に思われているかもしれない。
妻のマーサの調子が悪いと、朝一番に聞かされて。
『間に合う様には戻ります』と、言っていたのに。

イライラしてはいけない。
マーサの体調が悪いのだから。
季節の変わり目は体調を崩す人が多いし、きっと病院は混雑しているのだ。
私もどうしてなのか頭が痛くて、食欲もない。 


午後のお茶の時間まで眠ろうと、レニーを呼びました。
料理長に謝っておいて欲しいと、あまり手をつけられなかった昼食を下げて貰いました。
それから、デイドレスのままベッドの上で横になりましたが。


雨の日は嫌い。
あの日を思い出してしまうから。
皆で待っていたのに、帰らなかったお母様とお姉様。
姉の部屋から持ち出したドレス。
自分の身に当てて、この部屋で、姿見の前でくるくると回った。
このドレスで殿下と踊りたかった、と。
悔しくて邪な願いをしたあの日を思い出させる9月の雨の午後……


頭痛は続いているのに、身体は天井まで浮き上がる程軽くて。
夢の中に居る様なこの感覚は、風邪でも引いたのかしら。
でも、今は薬は飲めない。
これからしようとする儀式に薬を飲んで臨むと、失敗する気がするから。
……臨むも何も協力してくる筈のゲイルが居ないのに。
やはり1人では無理なのかしら。


かつて、伝承民俗学クラブで行われた死人還りについてのミーティングを思い出そうとしていました。

『参加するのは2人以上、 これは絶対条件よ』

『部長、1人では無理なんですか?』

『形代を使うなら1人でも可能でしょうね。
 でも、依り童なら術を解く人が必要じゃない?』

姉に会いたいのなら、よく似た私が依り童になるしかない。
ゲイルが戻ってこられないのなら……誰に頼めばいいの?
口が堅くて……レニーは駄目、いい子だけどおしゃべりだから。
アーサーは他には漏らさないだろうけれど、彼とふたりで部屋に籠るのは外聞が悪い。

そうだ、ロレッタ!
彼女には以前にお世話になった。
お休みで実家に帰る際に、祖母の家までお使いに行ってくれた。
あれをメイド仲間にも内緒にしてくれた。
あの時は銀貨3枚、今回は金貨2枚にしてみようか。
彼女は誰にも言わない筈だ。
そう決めると頭痛も少し和らいだ気がしました。

『温室に行ってみない?』

誰かが頭のなかで私に囁いています。
もうこれが誰の声なのか、考えるのも疲れてしまって。
考えるのを放棄したら、この声の言う通りに動けば。
この頭痛も止まってくれる様な気がして。


「お嬢様、どうされたのですか?」

部屋を出ると、階段の手摺を磨いていたレニーがすかさず飛んで来ました。
午後に掃除をしているレニーを珍しく思いました。
掃除はいつも午前中に済ませていなかった?


「気分転換に散歩に……雨だから温室に行ってくるわ」

「わ、私がご一緒しても?」

「邸内なんだから、ひとりで大丈夫よ」

「畏まりました、行ってらっしゃいませ」


温室の中に入ると、白薔薇の香りが私を包みました。
他の色の薔薇に比べて白薔薇を育てるのに庭師は気を付けていました。
夏の陽射しで花びらが焼けてしまわないように。
特に雨が降り、すぐに止んで陽が照ると残っていた水滴の後が乾くと茶色の点になって、真っ白な花びらを染めるのです。
ですから姉の愛する白薔薇は温室で、手を掛けて育てられていました。


むせ返る程の薔薇の香りに酔いながら、温室の通路を歩きました。
去年はクラリスの誕生日に帰ってきて、ここを歩いたかしら。
祖母が亡くなって、帰国しなかった事も忘れていました。
記憶が曖昧になってきて、頭のなかに靄がかかっている様でした。


「アグネス、ここに居たのか」

振り返れば、殿下がこちらに向かって来られていました。
貴方はいつ来たの?
疑問に思いながら、わかっていた事じゃない、と言う声も聞こえて。

『だって貴方は毎年この日はクラリスの所に来るのだから』

『姉の部屋に籠って、その後はふたりの思い出の温室を散歩する』


頭のなかの誰かが、姉の誕生日の殿下の行動を教えてくれて……
殿下が私の腕を取って引き寄せてくれて……


9月の雨は嫌い。
私は薔薇の香りが嫌い。

そこからの記憶がありませんでした。

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