【完結】この胸が痛むのは

Mimi

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第32話

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「迎えに来たよ」

私は少し呆けていたんだと思います。
直ぐにお返事が出来なくて。


「アグネス、あのね……」

「悪魔ですか? 殿下ではないですよね?」

「え?」

ここにいるはずの無いアシュフォード殿下に化けた悪魔が可笑しそうに笑います。
悪魔は色んなものに姿を変えて、人を誘惑するのです。
今は昼間で、もうすぐお茶の時間。
場所は教会の前。
まだ明るい内に、こんなところで騙されそうになるなんて、待ち合わせは教会の中にすれば良かったと思いました。


「アグネス、あのね」

殿下の顔をした悪魔が繰り返しました。


「俺は本物。
 絵葉書を姉上に出しただろう?
 直ぐに届けて貰って、直ぐに来たんだ」

俺、と悪魔が言いました。
やっぱり、偽物だ。


「違います、殿下はご自分の事は私、と言うのです。
 悪魔よ、この場から速やかに立ち去れ」

私はベンチから立ち上がり、プレストンから貰った小瓶をポケットから取り出して頭上に掲げました。
これは調理場の水だろうけれど、本物の聖水と間違えて逃げ出してくれないかと思って。

それなのに、平気で悪魔は私の前に跪いて手を差し出すのです。


「本物は、俺って言うんだ。
 私なんてスカしてるあっちが偽物。
 聖水をかけるの? いいよ、かけても。
 悪魔は払えても、俺は払えないよ」

「……」

「君は俺が本物のフォードだって、わかってる。
 もう落ち着いた? 立ち去らないからね。
 話をしよう?」


かけて欲しいならかけてあげる、そう思った私は悪魔に水をかけました。
悪魔め、私に笑うな、優しく……笑って……
手を差し出さないで。

本当に水をかけられると思っていなかったのか、悪魔は少したじろいで、それから胸を押さえて苦しみ出しました。


苦しい振りをしばらく続けていたアシュフォード殿下も、もう疲れたのか頭をあげられて。
もう少し苦しんで欲しかったのに。
私が笑い出すまで。

私が手を乗せないので、殿下の方から手を握ってきました。


「聖女様、そろそろお茶の時間ですから、ホテルへ戻りましょうか」


 ◇◇◇


私が殿下に手を引かれてホテルへ戻ると、フロントにはペテルさんとリーエが居ました。
リーエが私と殿下を見て、その目が繋いでる手を見て。
彼女が何か言いたくてムズムズしているのが、その目付きを見てわかりました。


「み、皆さん、皆様、サロンにいます。
 後でお茶、お、持って行く、行きます」

いつも、ゆっくりですが落ち着いて正しくバロウズの言葉を話すペテルさんが慌てていました。
殿下がふんわり微笑みながら手を上げたので、ホッとしたように胸を押さえています。

それを見ていたら、そうだ、この御方は王子様だったんだ、特別なひとなんだ、と改めて思いました。
私はさっき、水をかけてしまったけれど。


ペテルさんに案内されてサロンへ行こうとした殿下の手を、私はほどきました。


「リーエと話をしたいので」

「わかった、後でね」

殿下の後ろ姿を見ていたら、リーエが私の隣に来ました。


「ウチを出ようとしたら、入ってきて。
 あんまり綺麗過ぎてビックリしちゃった。
 あの御方がフォード様でしょう?
 後からもうひとり入ってきた茶色の髪の人もかっこ良かったよ。
 他にも4人くらい大人の男の人を連れてきてて、その人達も素敵だった。
 バロウズの男の人って、皆あんなに綺麗なの?」


茶色の髪のひと……きっとレイノルド・マーシャル様の事でしょう。
4人って護衛の人達かな。
近衛騎士様は全員貴族だし、見目が良くないとなれないので素敵なんだと思いました。


「ひどいよ、ずっと待ってたんだよ。
 パエルさんに会えると思ってたのに」

「ごめーん、出掛けしなにあの人が来て、お母さんにダウンヴィル夫人は居ますか、って絵葉書見せてて。
 ダウンヴィルって奥様の事だし、アグネスがお姉さんに出した葉書だからね?
 ついフォード様ですか?  って聞いちゃったの。
 そしたら、そうですよ、って言うから。
 アグネスは教会の所に居ますよ、って教えちゃったんだ」

「もお、いきなり来るからびっくりして、悪魔かと思ったよ」

リーエは声を上げて笑いました。


「聖水かけたの? あのひと髪が濡れてたね」

リーエにはプレストンから貰った小瓶を見せていたので、かけた事がばれました。
私も何だか可笑しくて、ふたりで笑っていたら、ベイシス夫人が私を呼びに来ました。 


私はいいよ、と遠慮するリーエと腕を組んでサロンへと向かいました。
サロン内では、祖母と殿下とマーシャル様、護衛騎士様が扉の前にひとり、殿下の後にひとり。

いち早く、私達に気付いたマーシャル様がにっこり笑って、手を振ってくださって。
祖母と話をしていた殿下が、立ち上がって迎えてくださいました。
私に大人の女性に対するような扱いをするので、今日の殿下は以前と違う人みたいで。

殿下は祖母の近くの椅子を、私とリーエにお譲りくださって、ご自分はマーシャル様のお隣に移動してくださいました。


「リーエも一緒に来たのね、丁度良かったわ。
 アグネス、明日は殿下達と観光に行ってらっしゃいな。
 お隣の街で、市場が立つそうなの」

「おばあ様はどうなさるのですか?」

「私ね、この国がとても気に入ってしまったの。
 ですからね、是非夏の別荘を構えたいと思うの。
 そうなると、これから物件を探して、トルラキアとバロウズと両国からお許しを貰って、登録届けを出してと、しなくてはいけないことも多いでしょう?
 殿下が紹介状を書いて下さると仰せになっていてね。
 シュトウブさんと一緒にお城へ行って、担当の方に他国の者が住宅を購入するするにはトルラキアでは何が必要なのかを、聞きに行きたいの」

「でも、シュトウブさんがいなかったら……」

「リーエを案内に、ってペテルさんからお許しを貰いましたよ」

学校の授業があるのに、勝手に決めてリーエは大丈夫なのかしら。
気になって隣を見ると、リーエはとても嬉しそうな顔をしていました。


「奥様、パエルを誘ってもよろしいでしょうか?」

「もちろん、いいわよ。
 よろしいですわね、殿下?」

殿下も頷いていらっしゃいました。
殿下とマーシャル様とリーエとパエルさんと私と4人の護衛騎士様。
直ぐに帰国されるかも、と思っていた殿下と街へ行けるなんて。 


姉を好きな殿下は悪魔なのに。
もう諦めると決めていたのに。
会いに来てくれて、優しくされたら。

私は胸が高鳴るのを押さえることが出来ませんでした。
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