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第56話
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「イッ、アーン、さまーっ!」
新緑のウィンガムの丘を、メラニーが駆け下りてくる。
手を大きく振るその姿が目に入り、イアンは跨がっていた愛馬から降りた。
彼ひとりがマーチ邸を訪れる時は王都から騎馬で来ることが、お馴染みになっている。
「あぁ、メル、そんなに勢い付けて走ったら、転ぶぞ。
また背が伸びた?」
「はい!この前より3センチ伸びました!
今日お出でになると、ミリーお姉様から聞いて。
わたしが1番に、お祝いを言いたくて待ってました!」
イアンが約5ヶ月振りに会った6歳のメラニー・フェルドンは、もう自分のことをメルとは言わなくなっている。
彼女は今では、ミルドレッドのことを『ミリーお姉様』、ジャーヴィスのことは『おぉじちゃま』ではなく『ヴィス様』と呼ぶようになっていた。
その変化を、ジャーヴィスは『ヴィスおじ様』と呼んでくれない彼女に、「もう、俺はおじ様以下の存在か」と淋しく思っていて、王子様への6歳の少女の淡い憧れには全く気付いていなかった。
「男爵様になったんですよね。
おめでとうございます!」
「ありがとう……それでさっきイアン様なんて言ってたの?
君も大人になったね」
年末には『イアン兄たん』だったのに。
あぁ、あの呼び名が懐かしい……
ミルドレッドからの手紙にはメラニーの近況等も綴られていて嘆くジャーヴィスの様子を知り、その時は笑って読んでいたのだが、こうして実際にそれに触れると。
メラニーの著しい成長は喜ばしいことだが、ジャーヴィスの哀しみがイアンにもよく分かる。
「大人ですよ? もう直ぐ7歳になるんですもん。
ミリーお姉様は、マナー教室の準備で一緒に行けないんだけど、この夏はヴィス様が外国に連れていってくれるので、お姉様から言葉と、レディとしてのた……しなみ?を習っています」
まだ7歳になるまで半年以上ある6歳のメラニーは、丁寧に長く話すのは、上手ではないが。
ミルドレッドから習っている外国語で、簡単な自己紹介を始めた彼女が話すのは、フェルナンド公が住む国の言語だ。
レイウッドから戻る馬車の中でイアンが言った「人生は短い」が、ジャーヴィスを動かしたのかもしれないが、翌年彼はフェルナンに会いに行った。
ジャーヴィスとフェルナンの関係が、現在どうなっているのかは知らないが。
2ヶ国に分かれたままのふたりだが、その心は。
3席間を取っていたあの頃より、近くに並んでいるのであろうことは、想像出来た。
「お姉様は、朝から厨房に居ますよ。
この前からアナ姉様に特訓を受けてて……いらっしゃってて?」
何だか嬉しくて、つい余計なことまで話してしまうメラニーだ。
ミリーお姉様から学ぶレディとしての嗜みは、今は彼女の頭の中から消えているようだ。
「何の特訓を受けてるの?
アップルパイは攻略出来たように、手紙には書かれていたけど?」
怖いエリンが居ないと、つい未だに『けど』と言ってしまうイアンだが、最近ではミルドレッドと頻繁に手紙のやり取りしていた。
「本番は半年後くらいじゃないかな……」
半年後とは、秋か冬のことか。
彼女は、メラニーの誕生日ケーキを作る気なのかもしれない。
俺はその時には、ここに来れるのだろうか。
イアンの心中を、苦いものが浸していく。
ミルドレッドに今日断られたら、もう二度と会わないつもりだ。
そこまで話して、自分がしゃべり過ぎてしまったことに、ようやく気が付いたメラニーは、イアンの前から撤収することにして。
今度はマーチ邸に帰る為、丘を駆け上がった。
「邸まで、前に乗っていきな」と馬に乗せてくれると言うイアンの言葉には、激しく心を惹かれるが。
「後は、自分で聞いてくださーい」の言葉を残して。
◇◇◇
兄からイアンの気持ちを聞かされてから。
ミルドレッドは何度も何度も考えた。
心の中には未だに、スチュワートが居るが。
今、側に居てくれるのは、イアンだ。
彼からのプロポーズを断れば、イアンならもう二度と会いに来ることはないだろう。
今では年越しの恒例になってしまった花火を見ながらの彼との語らいも、もう今年から無くなってしまうのだ。
いつからか……彼が王都へ戻ってしまうと、次はいつ来るのか、心待ちにしている自分に気付いた。
何となく筆を取り、ウィンガムでの出来事を知らせる手紙のやり取りが、今では普通になっていた。
スチュワートとイアン。
イアンとスチュワート。
比べることは出来ないふたり。
どちらも、自分にとって掛け替えのないふたり。
今もまだ、ミルドレッドの手元には、あの年に発行された貴族名鑑がある。
この年のレイウッド伯爵家の当主の欄には、スチュワート・アダムスの名が。
その隣には一回り小さくミルドレッドの名前も記されている。
アダムスの当主夫妻として名鑑にその肩書きで掲載されたのは、この年のみ。
あれから新たに2回発行されたが、今も側に置いて眺めるのは、この3年前の名鑑だ。
正直、今日でイアンとの縁が切れるのが怖い。
それは誰かに側に居て欲しいと言う打算なのか、彼への愛なのか、ミルドレッドには判断がつかない。
だから隠さずに、その気持ちも伝えようと思う。
それで、イアンが『冗談じゃない』と怒るのなら。
ならば仕方がないとも諦めている。
今から思えば、ジャーヴィスの余計な真似が良かったのかもしれない。
本当に時間をかけて、イアンとのことを考えることが出来た。
彼を愛した時と、彼を失った時。
そのどちらをも、想像して。
3年ぶりに明るい色のドレスを身に付け、名鑑の表紙を撫で。
ミルドレッドは、決めた。
新緑のウィンガムの丘を、メラニーが駆け下りてくる。
手を大きく振るその姿が目に入り、イアンは跨がっていた愛馬から降りた。
彼ひとりがマーチ邸を訪れる時は王都から騎馬で来ることが、お馴染みになっている。
「あぁ、メル、そんなに勢い付けて走ったら、転ぶぞ。
また背が伸びた?」
「はい!この前より3センチ伸びました!
今日お出でになると、ミリーお姉様から聞いて。
わたしが1番に、お祝いを言いたくて待ってました!」
イアンが約5ヶ月振りに会った6歳のメラニー・フェルドンは、もう自分のことをメルとは言わなくなっている。
彼女は今では、ミルドレッドのことを『ミリーお姉様』、ジャーヴィスのことは『おぉじちゃま』ではなく『ヴィス様』と呼ぶようになっていた。
その変化を、ジャーヴィスは『ヴィスおじ様』と呼んでくれない彼女に、「もう、俺はおじ様以下の存在か」と淋しく思っていて、王子様への6歳の少女の淡い憧れには全く気付いていなかった。
「男爵様になったんですよね。
おめでとうございます!」
「ありがとう……それでさっきイアン様なんて言ってたの?
君も大人になったね」
年末には『イアン兄たん』だったのに。
あぁ、あの呼び名が懐かしい……
ミルドレッドからの手紙にはメラニーの近況等も綴られていて嘆くジャーヴィスの様子を知り、その時は笑って読んでいたのだが、こうして実際にそれに触れると。
メラニーの著しい成長は喜ばしいことだが、ジャーヴィスの哀しみがイアンにもよく分かる。
「大人ですよ? もう直ぐ7歳になるんですもん。
ミリーお姉様は、マナー教室の準備で一緒に行けないんだけど、この夏はヴィス様が外国に連れていってくれるので、お姉様から言葉と、レディとしてのた……しなみ?を習っています」
まだ7歳になるまで半年以上ある6歳のメラニーは、丁寧に長く話すのは、上手ではないが。
ミルドレッドから習っている外国語で、簡単な自己紹介を始めた彼女が話すのは、フェルナンド公が住む国の言語だ。
レイウッドから戻る馬車の中でイアンが言った「人生は短い」が、ジャーヴィスを動かしたのかもしれないが、翌年彼はフェルナンに会いに行った。
ジャーヴィスとフェルナンの関係が、現在どうなっているのかは知らないが。
2ヶ国に分かれたままのふたりだが、その心は。
3席間を取っていたあの頃より、近くに並んでいるのであろうことは、想像出来た。
「お姉様は、朝から厨房に居ますよ。
この前からアナ姉様に特訓を受けてて……いらっしゃってて?」
何だか嬉しくて、つい余計なことまで話してしまうメラニーだ。
ミリーお姉様から学ぶレディとしての嗜みは、今は彼女の頭の中から消えているようだ。
「何の特訓を受けてるの?
アップルパイは攻略出来たように、手紙には書かれていたけど?」
怖いエリンが居ないと、つい未だに『けど』と言ってしまうイアンだが、最近ではミルドレッドと頻繁に手紙のやり取りしていた。
「本番は半年後くらいじゃないかな……」
半年後とは、秋か冬のことか。
彼女は、メラニーの誕生日ケーキを作る気なのかもしれない。
俺はその時には、ここに来れるのだろうか。
イアンの心中を、苦いものが浸していく。
ミルドレッドに今日断られたら、もう二度と会わないつもりだ。
そこまで話して、自分がしゃべり過ぎてしまったことに、ようやく気が付いたメラニーは、イアンの前から撤収することにして。
今度はマーチ邸に帰る為、丘を駆け上がった。
「邸まで、前に乗っていきな」と馬に乗せてくれると言うイアンの言葉には、激しく心を惹かれるが。
「後は、自分で聞いてくださーい」の言葉を残して。
◇◇◇
兄からイアンの気持ちを聞かされてから。
ミルドレッドは何度も何度も考えた。
心の中には未だに、スチュワートが居るが。
今、側に居てくれるのは、イアンだ。
彼からのプロポーズを断れば、イアンならもう二度と会いに来ることはないだろう。
今では年越しの恒例になってしまった花火を見ながらの彼との語らいも、もう今年から無くなってしまうのだ。
いつからか……彼が王都へ戻ってしまうと、次はいつ来るのか、心待ちにしている自分に気付いた。
何となく筆を取り、ウィンガムでの出来事を知らせる手紙のやり取りが、今では普通になっていた。
スチュワートとイアン。
イアンとスチュワート。
比べることは出来ないふたり。
どちらも、自分にとって掛け替えのないふたり。
今もまだ、ミルドレッドの手元には、あの年に発行された貴族名鑑がある。
この年のレイウッド伯爵家の当主の欄には、スチュワート・アダムスの名が。
その隣には一回り小さくミルドレッドの名前も記されている。
アダムスの当主夫妻として名鑑にその肩書きで掲載されたのは、この年のみ。
あれから新たに2回発行されたが、今も側に置いて眺めるのは、この3年前の名鑑だ。
正直、今日でイアンとの縁が切れるのが怖い。
それは誰かに側に居て欲しいと言う打算なのか、彼への愛なのか、ミルドレッドには判断がつかない。
だから隠さずに、その気持ちも伝えようと思う。
それで、イアンが『冗談じゃない』と怒るのなら。
ならば仕方がないとも諦めている。
今から思えば、ジャーヴィスの余計な真似が良かったのかもしれない。
本当に時間をかけて、イアンとのことを考えることが出来た。
彼を愛した時と、彼を失った時。
そのどちらをも、想像して。
3年ぶりに明るい色のドレスを身に付け、名鑑の表紙を撫で。
ミルドレッドは、決めた。
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