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第21話
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ミルドレッドは、一晩駆けて実家へ戻ってきた。
丁度朝食の時間だと分かっていたが、先ずは冷えた身体を暖めたくて、暖炉に当たりに行った。
彼女は、サリーが用意した貸馬車内の誰が使用したかも分からない膝掛けを、使う気にはなれなかった。
そして、いよいよの時には、直ぐに取り出せるように、右手をバッグの中に入れたままにして。
ペーパーナイフを握り締めていた。
お気に入りだった長椅子はそのままそこにあった。
一晩中続いた寒さと緊張感で、身体中が軋んでいる。
思わず横たわると、もう動けなくなった。
食事を途中で切り上げて来てくれたのだろう。
兄に頭を撫でられて、母に手を握って貰うと、心の強張りが崩れていった。
そして眠ることが出来た。
スチュワートが亡くなった、あの日以来の深い眠りだった。
◇◇◇
目覚めると、自分の部屋だった。
兄が連れてきてくれたのだろうか。
ミルドレッドは起きて呼び鈴を鳴らさずに、サイドテーブルに用意されていた水差しで手拭いを濡らし、簡単に顔を拭いた。
そしてドレッシングルームに移り、皺だらけになった旅行用のドレスを脱ぎ、身体を締め付けない厚手のワンピースに着替えた。
結い上げていた髪を手解き、姿見で見るとレイウッドに居た時よりも若く見える自分が映っていた。
今日はもうお化粧もしない、怠け者になると決めて、ヒールの低い靴を履き、彼女は部屋を出た。
久し振りに自分は空腹だと感じ厨房を覗いたら、キッチンメイドが彼女に気付いて足早にやって来た。
ミルドレッドはお腹が空いているけれど、普通に夕食を家族で摂りたいので、軽くつまめる程度のものが欲しいこと、ここで食べたいことを伝えた。
メイドが椅子を持って来てくれたので、ミルドレッドは彼女が作る様子を眺めていた。
胡瓜のサンドイッチはミルドレッドの好物だ。
メイドはそれを覚えていてくれたのだろう。
普段会わない彼女の名前は知らなかったが、後で教えて貰おうと思った。
手早く作る彼女を眺めていたら、自分は自分が食べたい好きなものさえ作れないのだとぼんやり考えた。
レナードから馬鹿にされた嫁入り学校のマナースクールに通ったが、貴族女性に必要ないものは学んでこなかった。
スチュワートが意外に甘党で、ミンスパイを好むことは知っているけれど、ミルドレッドに作れるはずはない。
あのローラは、きっと彼女のように手早く料理を作れるのだろうと思った。
ローラの年齢は聞かなかったけれど、ミルドレッドよりは年上に見えた。
スチュワートがレナードのように、色気がある女性が好みならば、婚約前から付き合っていた可能性を示唆したサリーは正しいのかもしれない。
スチュワートが家賃を出した家を、彼が寛げるように調えて。
彼が手渡していた生活費から、彼の好物を作り。
束の間でも、領主の重責から離れることが出来た彼を癒して。
……そして。
考えれば考えるほど、深い闇に落ちていくだけなのに。
ミルドレッドは考えて想像して、自分を傷付けた。
食事を終えたミルドレッドは、執務室にジャーヴィスを訪ねた。
特に予定がない限り、この時間は執務室に居るからだ。
重厚な扉をノックして名前を告げると、直ぐに本人が開けてくれて、抱き締められた。
「気分はどう?」
「お腹が空いたので、エイミーに頼んで。
サンドイッチを作って貰いました」
エイミーの名前にジャーヴィスが首を傾げたので、キッチンメイドだと伝えると。
エイミー・ブラウンのことだなと、返事があった。
厨房の下働きの使用人の名前まで把握しているのが、当主として普通なのか分からなかったけれど。
兄と自分は意識が全然違うのだと、ここでも思い知らされた。
スチュワートの妻として、何も出来なかった。
当主夫人として、何もかも放り出してきた。
「レナードとアダムス子爵から手紙を受け取った。
既にミリーから事情を聞いていて、誤魔化せないと判断したのだろうね。
帰ってきた理由はそれで分かったから、辛いのなら話さなくてもいい」
「では、この先の希望を話してもいいですか?」
「……勿論、あるなら是非聞かせて欲しいよ」
「わたしを死んだことにして、この家から出してください」
ジャーヴィスは何を言うんだと、言いたかったが黙っていた。
学生時代の役職から、主張したいことがある人間に対する時はいちいち反応するのではなく。
言いたいことを全て吐き出させてから、同意にしろ反論にしろ話すことを学んだからだ。
「夫の隠し子のことで悩んでいた、と。
自死したことにして欲しいんです。
そうすれば、マーチではわたしだけが破門されて、教会で葬儀も出して貰えませんし、家族以外が埋葬に立ち会うことも禁じられます。
つまり表向きは、何処かへ埋葬したことにしていただけませんか……」
その先は話すことが無いようなので、ジャーヴィスは怒鳴り付けたいのを耐え、いつもより幼く見えるミルドレッドに微笑んだ。
相手は、子供を失い、夫にも裏切られて、傷付き。
婚家から逃げ出してきた精神的に脆くなった妹だ。
これ以上責めて、追い込めない。
自死を偽装すること、教会から破門されること。
それがどれ程のことなのか、全く分かっていない。
世の中のことなど何も分かっていないくせに、この家を出ると言った。
何も出来ないのに、簡単に平民になれると考えているのか。
貴族としての矜持まで、捨てようと言うのか。
その甘い見通しをふざけるなと叱る代わりに、彼は妹に微笑んで見せたのだ。
丁度朝食の時間だと分かっていたが、先ずは冷えた身体を暖めたくて、暖炉に当たりに行った。
彼女は、サリーが用意した貸馬車内の誰が使用したかも分からない膝掛けを、使う気にはなれなかった。
そして、いよいよの時には、直ぐに取り出せるように、右手をバッグの中に入れたままにして。
ペーパーナイフを握り締めていた。
お気に入りだった長椅子はそのままそこにあった。
一晩中続いた寒さと緊張感で、身体中が軋んでいる。
思わず横たわると、もう動けなくなった。
食事を途中で切り上げて来てくれたのだろう。
兄に頭を撫でられて、母に手を握って貰うと、心の強張りが崩れていった。
そして眠ることが出来た。
スチュワートが亡くなった、あの日以来の深い眠りだった。
◇◇◇
目覚めると、自分の部屋だった。
兄が連れてきてくれたのだろうか。
ミルドレッドは起きて呼び鈴を鳴らさずに、サイドテーブルに用意されていた水差しで手拭いを濡らし、簡単に顔を拭いた。
そしてドレッシングルームに移り、皺だらけになった旅行用のドレスを脱ぎ、身体を締め付けない厚手のワンピースに着替えた。
結い上げていた髪を手解き、姿見で見るとレイウッドに居た時よりも若く見える自分が映っていた。
今日はもうお化粧もしない、怠け者になると決めて、ヒールの低い靴を履き、彼女は部屋を出た。
久し振りに自分は空腹だと感じ厨房を覗いたら、キッチンメイドが彼女に気付いて足早にやって来た。
ミルドレッドはお腹が空いているけれど、普通に夕食を家族で摂りたいので、軽くつまめる程度のものが欲しいこと、ここで食べたいことを伝えた。
メイドが椅子を持って来てくれたので、ミルドレッドは彼女が作る様子を眺めていた。
胡瓜のサンドイッチはミルドレッドの好物だ。
メイドはそれを覚えていてくれたのだろう。
普段会わない彼女の名前は知らなかったが、後で教えて貰おうと思った。
手早く作る彼女を眺めていたら、自分は自分が食べたい好きなものさえ作れないのだとぼんやり考えた。
レナードから馬鹿にされた嫁入り学校のマナースクールに通ったが、貴族女性に必要ないものは学んでこなかった。
スチュワートが意外に甘党で、ミンスパイを好むことは知っているけれど、ミルドレッドに作れるはずはない。
あのローラは、きっと彼女のように手早く料理を作れるのだろうと思った。
ローラの年齢は聞かなかったけれど、ミルドレッドよりは年上に見えた。
スチュワートがレナードのように、色気がある女性が好みならば、婚約前から付き合っていた可能性を示唆したサリーは正しいのかもしれない。
スチュワートが家賃を出した家を、彼が寛げるように調えて。
彼が手渡していた生活費から、彼の好物を作り。
束の間でも、領主の重責から離れることが出来た彼を癒して。
……そして。
考えれば考えるほど、深い闇に落ちていくだけなのに。
ミルドレッドは考えて想像して、自分を傷付けた。
食事を終えたミルドレッドは、執務室にジャーヴィスを訪ねた。
特に予定がない限り、この時間は執務室に居るからだ。
重厚な扉をノックして名前を告げると、直ぐに本人が開けてくれて、抱き締められた。
「気分はどう?」
「お腹が空いたので、エイミーに頼んで。
サンドイッチを作って貰いました」
エイミーの名前にジャーヴィスが首を傾げたので、キッチンメイドだと伝えると。
エイミー・ブラウンのことだなと、返事があった。
厨房の下働きの使用人の名前まで把握しているのが、当主として普通なのか分からなかったけれど。
兄と自分は意識が全然違うのだと、ここでも思い知らされた。
スチュワートの妻として、何も出来なかった。
当主夫人として、何もかも放り出してきた。
「レナードとアダムス子爵から手紙を受け取った。
既にミリーから事情を聞いていて、誤魔化せないと判断したのだろうね。
帰ってきた理由はそれで分かったから、辛いのなら話さなくてもいい」
「では、この先の希望を話してもいいですか?」
「……勿論、あるなら是非聞かせて欲しいよ」
「わたしを死んだことにして、この家から出してください」
ジャーヴィスは何を言うんだと、言いたかったが黙っていた。
学生時代の役職から、主張したいことがある人間に対する時はいちいち反応するのではなく。
言いたいことを全て吐き出させてから、同意にしろ反論にしろ話すことを学んだからだ。
「夫の隠し子のことで悩んでいた、と。
自死したことにして欲しいんです。
そうすれば、マーチではわたしだけが破門されて、教会で葬儀も出して貰えませんし、家族以外が埋葬に立ち会うことも禁じられます。
つまり表向きは、何処かへ埋葬したことにしていただけませんか……」
その先は話すことが無いようなので、ジャーヴィスは怒鳴り付けたいのを耐え、いつもより幼く見えるミルドレッドに微笑んだ。
相手は、子供を失い、夫にも裏切られて、傷付き。
婚家から逃げ出してきた精神的に脆くなった妹だ。
これ以上責めて、追い込めない。
自死を偽装すること、教会から破門されること。
それがどれ程のことなのか、全く分かっていない。
世の中のことなど何も分かっていないくせに、この家を出ると言った。
何も出来ないのに、簡単に平民になれると考えているのか。
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