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病気
しおりを挟む翌日から、本格的にキャンバスに色を乗せ始めた。
と言っても晶はバイトがあったり私の調子が悪かったり、油絵具の乾きが遅かったりで思うようには進んでいない。
「本当にいいのか?先帰るぞ?」
「うん、私もうちょっとやってくから。ここだけ仕上げたいの。ありがとうねこんな時間まで」
「いや、それはいいけど。なんか最近咳してて調子悪そうだし、帰り気をつけろよ?」
「うん、ありがとう」
晶をモデルに描き始めてから二週間が経過したある日。
私はバイトがあると言う晶を先に帰し、一人残って絵具を乗せていた。
目の前の椅子に、晶が座っている姿を思い浮かべる。
その姿を目指して夢中で筆を走らせている間に時間が経ち、ふと外を見るとすっかり空は夕焼けに染まってしまっていた。
「やば……」
時計を見ると夕方になっており、スマホには母親からの連絡がきていた。
驚いて咳き込んでしまいながらも、私は慌てて画材を片付けて学校を飛び出す。
迎えにきてくれた母親が運転する車に乗り込んだ。
「ごめん、遅くなった」
「集中するのはいいけど……やりすぎはダメよ?」
「うん、わかってる」
「……私は反対よ。今すぐやめてほしいくらい。それに、晶くんにも言ってないんでしょ?」
「……うん。でもこれでいいの。ごめんねお母さん。私のわがまま聞いてくれて」
「……」
お母さんからの返事はなく、私は窓の外を見つめる。
向かう先は家ではない。
そのまま数分してついた先は、この地域で一番大きな総合病院だった。
外来でお母さんが慣れたように手続きをしてくれて、私は無言でその後ろを歩く。
待合室で待つこと十五分ほど。名前を呼ばれて診察室に入ると、見慣れた医者の姿があった。
「……本当に、四月になったら治療を始めてくれるんだね?」
「……はい。あと二週間、時間をください」
「……君はまだ若いから、進行は想像以上に早い。仮にその時には手遅れになっていたとしても、それでもその気持ちは変わらないんだね?」
「はい」
「……わかった。じゃあ準備を進めていこう。お母さん、詳しい日程などの話を看護師からさせてください」
「わかりました」
「沙苗ちゃんは検査をしよう」
「はい」
私が初めてこの病院に来たのは、二ヶ月前だ。
ちょうど美大の受験に向けて、気落ちしながらも毎日筆を持っていた時期だ。
きっかけは、一年ほど前から利き手である右手の肩らへんに、痛みを感じるようになったこと。
最初は痛めただけだろうとか、筋肉痛か?腱鞘炎みたいなもの?とか。色々考えて放置していた。
しかし、しばらくして右肩が腫れてきて痛みもどんどん強くなり、筆を持つのもつらい時があった。
ネットで症状を調べて自分が病気かもしれないと気が付いてからは、それを隠すことに必死になっていた。
"切断"という文字を見たからだ。
両親に言わなきゃと何度も思った。だけど、言ったら腕を切られるのかと考えたら、言えなかった。
上手く絵も描けなくて、美大という目標も曖昧になってきてしまい、毎日ただ無意味に時間が過ぎていくだけの私にこの右腕は必要ないかもしれない。
だけど、切断という文字を見たらいてもたってもいられなかった。
……どうしても私は、まだ絵を描いていたい。
描けなくなる可能性を知ったら、たまらなく嫌だと思った。
私は下手だ。誰かに評価されるような絵は描けない。
だけど、描くことが好きだ。描けない人生なんて、考えたくない。
そう思ったら、誰にも言えなかった。
そして二ヶ月ほど前、自宅でとうとう倒れてしまい救急車で運ばれた。
そこですぐに検査入院になり、診断されたのは自分で予想していた通り骨肉腫という病気だった。
仮にこれが早期の発見と治療だったら、治る可能性も高かっただろう。
しかし私の場合、騙し騙しで腕を使っていたからなのか、その時にはすでに病状はかなり深刻だった。
両親にはどうして黙っていたのかと散々叱られ、泣かれてしまった。
絵が描きたかったから。
そう言ったら、馬鹿だと言われて抱きしめられた。
その時に、"馬鹿"という言葉が口癖のようだった晶に会いたいと思った。
主治医の先生は私の方のレントゲンや病理検査の資料を見ながらすぐに入院して治療するようにと言っていた。
だけど、私はそれを拒否した。
主治医の先生の表情を見れば、私の症状がもう手遅れに近いことなんてわかっていた。
驚くことに、死ぬことに対しての恐怖は無かった。
ただ、腕を切られたくなかった。
利き手を失うくらいなら、死んだ方がマシだと思った。
"君は若いから、進行が早いんだ"
先生がそう言っていたのを思い出す。
仮に右腕を切断すれば治るのか?そんなのわからない。
多分、死ぬ確率の方が高い。
仮に治ったとして、その時私は利き手を失った状態でどう生きていけばいいの?
私は絵を描きたい。腕を失ったら、二度と描けないのに。
そう思って、私は決意した。
"治療で苦しんで命が助かったとしても、その間の人生が帰ってくるわけじゃない"
"腕を切断するくらいなら、私は死を選ぶ"
"それなら、やりたいことをやって悔いなく死にたい"
そう宣言した私は、誰に何を言われようと決して意見を曲げなかった。
それからの私は、今までの自分が嘘のように行動的になった。
受けるかどうか曖昧だった美大の受験も、結果がどうであれ挑戦したいという意欲が湧いた。
私には時間が残されていないことはよくわかっていた。
だから受験が終わったら、最後に一番描きたかったものを描いてみたい。
"今ならまだ間に合うかもしれない。だけど、これ以上治療が遅れたら死ぬかもしれないんだ!"
たとえ、その選択が自分の命を削ることになったとしても。
間に合うかもしれないということは、間に合わないかもしれないということ。
それならば、奇跡に賭けるよりも目の前の残りの人生を精一杯楽しみたい。
私が生きていたことの証明だなんて言ったら、烏滸がましいけれど。
一度でいいから、そういうものを描いてみたい。
今の私にしか描けないものを、描いてみたい。
つまり、ただの私のわがままなのだ。
当たり前だが、両親は泣いて反対した。
何度も何度も説得された。
そんなに絵が描きたいのなら、病気が治ったら好きなだけ打ち込んでいい、美大の受験だって何度でも後押しする。だからお願いだから治療をしてほしい。命があればなんだってできる。だから諦めちゃダメだ。
そう言ってくれた。
だけど、自分の才能の無さに諦め将来に対して夢も希望もなくなっていた私にとっては、先のことよりも今のことの方が大切だった。
今やりたいことがある。
今描きたいものがある。
それは今しかできなくて、掴み取ることができるかすらわからない未来に賭けるほど心に余裕は無かったのだ。
そのため、誰に何を言われても私が首を縦に振ることはなかった。
私は元来、一度こうと決めたらほとんど意見を曲げないタイプだ。
悪く言えば頑固者。両親は、そんな私の性格を嫌というほど知っていた。
だから、最終的には私の気持ちを汲んでくれたのだ。
その代わり、卒業して絵が完成したら、治療に入ること。それが条件だった。
「……お父さんもお母さんも、沙苗には生きててほしい。だから、今すぐにでも入院してほしいのが本音なの。右腕を切断したとしても、生きていてほしいのが本音」
「うん」
「だけど……っ、沙苗が後悔しないように生きてほしいとも思ってる」
「……うん」
「沙苗にとって、その右腕が命よりも大切なものなのはわかる。でも生きててほしい。もう、どうしたらいいのか、お母さんにもわからないの。ごめんねっ……ごめんね沙苗……なんでもっと早く気付いてあげられなかったんだろうっ……ごめんね沙苗っ」
そして今日、とうとう先生から余命宣告を受けた。
"やはり病状がかなり進行しています。さらに、他の骨や肺にも転移が見られます。……残念ですが、五年生存率はかなり低いと思われます。……それどころか、これ以上治療が遅くなれば……もっと短くなると覚悟しておいていただきたいです"
先生はかなり気を遣って言ってくれたのだろうと思っている。
自分の身体のことだ。自分が一番よくわかっている。
晶が言っていた通り、最近咳が頻繁に出るようになった。
足の骨も痛むことが多くなってきた。
今は処方されている痛み止めでどうにか絵を描いているけれど、病気の進行が止まるわけじゃない。
痛み止めが切れた時の痛みは耐え難いものがあるし、よくこんな身体で生きてるなと自分でも引くほどだ。
どんどん病魔は私の身体を蝕んでおり、体力が奪われていくのを実感している。
大きめの服で隠しているけれど、食欲がなくなったことと病気のせいで体重も落ち、身体はガリガリ。
こりゃあ晶にも心配されるのも無理はない。
きっと、私の余命はもっと短い。
腕を切ったとて五年も持つはずがないのは私が一番よくわかっていた。
もしかしたら、もうあと一年くらい。いや、もっと短い可能性だってある。
正直、自分の身体のことや先生の話聞くに、一年以上生きていられるとは思えない。
もって半年がいいところじゃないだろうか。
でもいいんだ。先の見えない長い人生のために生きるよりも、今の私にとってはあの作品を完成させることのほうが大切だから。
馬鹿だって言われてもいい。頭がおかしいと言われるのは承知の上。
それでも、大切なものがあるから。
あともう少し。もう少しだけだから。
私の最後のわがままを、聞いてほしい。
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