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第四章

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人混みの中、わたしは今年も一人で町外れにある高台に向かう。

道中にあるコンビニの目の前の道路。そこで立ち止まった私は、一つ目を閉じた。

今でも事故の光景は鮮明に思い出せるのに、その中にいるはずの大雅の表情はわからない。

わたしを抱きしめて叫ぶように泣いていた。なのに、その泣き顔は思い出せないのだ。

この二年間、わたしは毎朝大雅に会いに行った。

雨の日も、雪の日も。どんなに怒鳴られても煙たがられても、迷惑だと言われても。

大雅を苦しめているだけだということは、もちろんわかっていた。

本当に大雅のことを想うなら、大雅のことをわたしが忘れるべきだということもわかっていた。

今の大雅の幸せな生活を壊すべきではないということも、わかっていた。

だけど、どうしても諦められなかったんだ。

いつからかわからないくらい昔から、ずっと好きで。大切で、隣にいるのが当たり前で。

こんなにも、狂おしいくらいに好きなのに。

それを伝えることは、わたしにはもうできない。


『……浴衣似合ってるよ』


事故の前にそう照れ臭そうに言ってくれた大雅の表情を、思い出すこともできない。

大雅の隣にわたしが並ぶことは、もうできないんだ。



『だ、れ……?』

『何言ってるの?芽衣?お母さんよ?』

『お母さん?でも、なんで?顔が……』

『顔?顔がどうしたの?』

『そっちにいる人は……?』

『芽衣、どうしたんだ?お父さんの顔……忘れちゃったのか?』

『お父さん……?お母さんと、お父さん。わかる。わかるよ。でも、なんで?どうして?わかんない……誰、なんで、わかんない……っ、ああああああ!!』


わたしはあの事故の後、病院で目が覚めたときから目の前にいる人たち全員の表情が認識できなくなった。

髪型、背丈、服装、声、喋り方。様々な情報でその人が誰なのか、知ってる人であればどうにか認識することができた。

だけど、一番大切な顔がわからない。

目、鼻、口、耳、眉。顔のパーツは見えるしわかるのに、そこにその人の顔があるのはわかるのに。

なぜかその一つ一つのパーツを表情として頭の中でつなぎ合わせることができない。

今までどうやって顔というものを認識していたのか、わからなくなってしまった。

顔全体を見ようとするとぼやけてしまって、目の前の人が笑っているのか怒っているのか泣いているのかさえもわからなくて。

病院に来てくれたお母さんとお父さんの顔を見て、紫苑や透くんの顔を見て。

声を聞けば、お父さんとお母さんだとわかるのに。

声を聞けば、紫苑と透くんだとわかるのに。

頭の理解が追いつかなくて、パニックになって勝手にこぼれ落ちる涙。

事情を説明すればすぐに検査になり、お医者さんには【相貌失認】という脳障害だと言われた。

聞いたこともない名前を言われてもピンとはこなかった。でもそう説明してくれるお医者さんや付き添いの看護師さんの表情がわからないからきっとそうなんだろう。

交通事故による後天的な脳障害。つまり、一生治ることは、ない。

病室に戻って鏡で見た自分の顔すらわからなかったとき、全てを受け入れて生きていくしかないのだと悟った。

それが、お父さんやお母さん、大雅、紫苑、透くん。皆にとんでもなく大きな心配をかけて迷惑をかけたことの対価なのだと感じた。

最初は誰かが病室に入ってくるだけで肩が跳ねた。

白衣を着ていればお医者さん。ナース服を着ていれば看護師さん。

見たことのある私服や鞄。お父さんとお母さんはすぐにわかった。

紫苑が連れてきてくれた仲が良かった友達数人。

制服を着ていると、誰が誰なのか見分けがつかなくて怖くなってしまった。

盛り上がる会話に、わたしだけがついていけなくて後で紫苑に謝られてしまう始末。

周りの皆にはすぐに笑顔を見せるように心がけていたけれど、気持ちは全く晴れずに毎晩一人、大泣きした。涙が枯れるほど泣いた。

そして、もうこの後遺症と一生共に生きていくしかないんだと、決意した。

そんな私が、退院して真っ先に向かったのは大雅の家だった。

大雅が軽症で済んだという話はお母さんから聞いていた。だけど、この目で見ないと安心できなかった。

軽症なら少しくらい病室に顔を出してくれたっていいのに。大雅の表情はわからないけれど、元気な声だけでも聞かせて欲しかったのに。

わたしのことを嫌いになった?無茶しすぎたから?もしかしてまだ怪我が治ってなかったりする?

そんなことまで考えた。


『……つーかお前っ、誰だよっ……』


だから、わたしの顔どころか存在すら忘れてしまっている大雅を目の当たりにしたときに、上手く言えないけれど……絶望した。




その後大雅のお母さんから聞かされたのは、事故のショックが大きくてわたしに怪我をさせてしまったという負い目がそうさせてしまったのではないかというものだった。

わたしはあの日、大雅を助けたことに後悔なんて一ミリもない。そう言い切れる。

そりゃあ両親には二度とこんな無茶はするなと散々泣きながら叱られたし、大雅の両親にも例え人を助けるためでももう二度とこんなことしないでと泣かれてしまった。

当たりどころが少しでもずれていたらわたしは死んでいただろうと言われていたから、叱られるのは当然のことだった。

運が良かったから今、二人ともこうして生きていられる。それは当たり前じゃない。わかっていた。

だけど、もしまた今同じ場面に遭遇したとしたら。

……やっぱりわたしは、同じように大雅を助けるために身体が動いたと思う。

理屈なんかじゃない。黙って大雅を見殺しになんてできない。

だけど、その結果がまさかこんなことになるなんて、誰が想像しただろう。

わたしが助けたことによって、大雅を苦しめてしまったのだろうか。

わたしは間違ったことをしたのだろうか。

助けない方がよかった?……ううん、そうしたら大雅は無事では済まなかっただろうし、わたしは一生そのことを後悔し続けるだろう。

だけど、助けたことで今度は大雅が苦しんでいる。

間違いだったとは思わない。だけど、それを大雅が自分のせいだと思って記憶を手放してしまったのだとしたら?

正しかったとも言えないのだろう。
わたしは何も言えなくなってしまった。

わたしは大雅の顔がわからない。

大雅はわたしの存在がわからない。

何の因果なのだろう。

嫌われた方がまだマシだったかもしれない。

忘れられてしまったらもう、何もできないじゃないか。

わたしは一体どうすればいいのだろう。

何日もかけて考えた。考えたけれど、答えなんて出なかった。

もし大雅が全てを思い出したときにわたしがそばにいたら、もっと大雅を苦しめてしまうのではないか。

じゃあわたしは大雅の前から姿を消した方がいい?

その方が大雅は幸せになれる?でも何かの拍子で思い出したら?

大雅のために私が姿を消したと知ったら、大雅はどう思う?

その方が大雅を苦しめることになるのでは?

でもそれじゃあ、もしこのまま一生記憶が戻らなかったら?

わたしの中には、大雅との数えきれないほどの思い出があるのに。

わたしの中には、確かに大雅との日々が色濃く存在しているのに。

わたしの中には、"永原大雅"という人物が確かに存在しているのに。




──わたしは、一生大雅の中で"存在しない人"として生きていくの?

わたしは、一生大雅に会えないまま生きていくの?

……そんなの、悲しすぎるよ。

助けようと勝手に行動したのはわたしなんだ。大雅はあのとき、周りをちゃんと見ていなかった。だけどそれは、全部わたしのため。わたしのために急いでくれていたんだ。だから、事故の原因はわたしにもあるんだ。

大雅が記憶を失うほどに悩み後悔する必要なんてないんだ。

わたしはただ、また二人で笑い合いたいだけなのに。

表情がわからなくたって、大雅と一緒に笑い合えたら他に何もいらないのに。


『……諦めたくない……。わたしは、どうしても大雅に思い出してもらいたい……』


また一緒に、隣で笑い合いたい。

あの日見られなかった花火を、一緒に見に行きたい。

そのためには、思い出してもらうんだ。

大雅を苦しめてしまう。もしかしたら思い出せないまま、大雅にもっと嫌われるかもしれない。

思い出してもらいたい。だけど、この相貌失認のことは知られたくない。

そんなの、自分勝手だってわかってる。

それでも、何もしないで後悔はしたくない。

大雅に存在を忘れられるくらいなら、嫌われてもいいから、大雅の記憶の中に少しでも残りたい。

もう、"わたし"という存在を忘れてほしくない。

どんな形でもいい。なんでもいい。大雅の頭の中に、ほんの少しでもいいから"わたし"をとどめておきたい。


……うそ。そんなのは建前で。これはわたしのただのわがまま。


嫌われたくない。忘れたままなんて嫌だ。

本当は、また前みたいな関係に戻りたい。

ごめん。ごめんね、大雅。

わたし、また大雅を苦しめてしまう。

わたしの自分勝手で、大雅を傷つけてしまう。

だけど、諦められないの。

出た答えはシンプルで。そして、それからの日々は覚悟していたとは言え、とても残酷なものだった。
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