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一.異世界トリップ

5.魔法使いの家

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 そのうち長いまつ毛が震え、目を覚ます。
「俺が見えますか? 大丈夫ですか?」

 虚ろな緑の目が、眉尻を下げる愛久の顔を映した。
「黎明の花、は?」
「れいめい? 花?」
「どこで……?」
「花のことはわからないので、花屋に尋ねたらいいと思います。でも、俺、ここがどこなのかもわからなくて、花屋場所すら……人も呼べなくて」
 目を覚ましてすぐに花の花とは。だいぶ混乱しているのだろう。
 何もできない不甲斐なさで俯く愛久の手に、そっと彼が触れ、気遣わしげに微笑む。
「ありがとう」

 しんどそうなのに、血の気のない顔色で消え入りそうな声を絞り、礼を言う。
 彼の言葉が染みる。助けてよかったのだと、胸が熱くなった。

「俺は、何にも……危なっ!」
 立ち上がろうとした彼がよろけた。死にかけていたのだ、すぐ動くには無理がある。
 咄嗟に身体を支えると、そのまま背負った。背中で驚いた気配を感じる。知らない人間――まして体格のいい男に突然背負われたら、そうだろう。愛久だって逆の立場なら、普通に戸惑う。だけれど、下ろす気にはならない。血を失ってフラフラの怪我人は、危なっかしくて歩かせられない。

「大丈夫、だから……」
「大丈夫じゃないです」
「だけど、」
「送ります。家? 病院? は、どちらですか」

 モゾモゾと動いて降りようとするけれど、しっかりと背負い直す。有無を言わせず歩きだした。方向もわからないので、適当に足を運ぶ。安定感のある背中におぶわれ、観念して大人しくなった彼は、白いツルッとしたホーローの、円形の小皿にガラス蓋がされたものを愛久に差し出してきた。
 手のひらに収まるそれは、方位磁石に似ているが、方位の代わりに細かな模様――魔法陣のようなものが描かれている。真ん中にあるのは、方位磁石だとひし形をしているはずの針が二等辺三角形で、頂点だけが赤く塗られている。歩いていると、三角の頂点が動く。
――矢印かな。
 この赤い印のついた三角が示す方向へ行けばいいらしい。

 成人男性一人を背負っているのだ、それなりに重い。けれど、引っ越しのアルバイトでエレベーターに入らない冷蔵庫を階段で十四階まで運んだときや、住宅基礎の日雇いバイトに比べれば、かなり楽。

 すぅすぅと規則正しい寝息が耳に掛かる。怪我人に負担にならないようにと愛久は丁寧に運んでいたし、人の温もりに安心したのだろう。寝ている人間というのは、何故か重量が増すけれど、自分の背中で安心してくれるのは、ちょっと嬉しい。

 三角は方位磁石というよりルートナビで、その通りに行くと、あっさり森を出られた。三角が指すのは、森の側にある平屋建ての小ぢんまりとした小屋。木で組まれた、いわゆるログハウス。

「すみません、起きてください。あの小屋でいいんですか?」
「……うん」
 微睡んだ温かい吐息が耳に掛かり、ゾクッとした。
 無意識なのだろうが、名前も知らない初対面の男の背中で無防備に寝てからのこれだ、暗くて狭いところに連れ込まれたらどうする。この人は自分の容姿に自覚した方がいいのではないかと、余計な心配をしてしまう愛久だ。

「中へどうぞ」
 玄関前で下ろすと、彼が愛久を家へ招く。
 こんな簡単に他人を信用していいのだろうか、親切に見せかけた強盗だったらどうするんだ、と思ったけれど、ニコニコとする彼に断れない。ここが知らない地だと歩いてわかった今、行くあてもない。

「お邪魔します」
 植物のような、木のような、薬のようなにおいがした。
 外からだと小さな小屋に見えたが、中は意外と広い。入ってすぐがリビングで、奥のキッチンは扉がなく丸見え、右手に扉が二つ、上へ登る階段があった。
――平屋建てだったよな? 屋根裏部屋かな。

 そして一番真っ先に目についたのは、グチャグチャに散らかった部屋の様子だ。
「大変だ、警察呼ばないと!」
「警察?」
「犯罪者を捕まえる組織です」
「衛兵かな。無くなっている物はないから、泥棒は入っていないよ」

 本やら書類やら小瓶やらが乱雑な空間を、彼は猫のように慣れた調子でスルスルと器用に通り抜け、ソファーに腰を下ろす。

 泥棒に家探しされた跡ではなかった。
 ただ散らかっているだけだった。
 この状態が通常らしい。

 乱雑な空間を見ただけで、無くなっている物はないとわかるのだから意図的に出しているのか……。
――そういう人いるよな。片付けると、余計に物がどこにあるかわからなくなって無くすから全部見えるところに置いているタイプ。
 見た目はどこぞの王子様かエルフのような容姿なのに、急に大衆じみた。

「話したいことが沢山あるが、その前に。お客様に申し訳ないのだけれど、お茶を淹れてくれないかな。血が足りなくて」

 眉をハの字にしてすまなそうにする彼は、ソファーにぐったりともたれ、青白い顔で本当に調子が悪そうだ。
 散らかった部屋で所在なくしていた愛久には仕事を与えられた方がまだ気が楽だ。しかし、お茶なんかで失った血が戻る世界なのか。貧血のときの鉄剤みたいな。

「わかりました。お茶を淹れるので、茶葉とかティーセットの場所とか指示をお願いします」
 ぐぅ、とタイミングよく愛久の腹が鳴る。目覚めてから何も口にしていなかった。
「キッチンにあるものは、好きなだけ食べていい。残り物だけど、パンがあったはず。一緒にお茶にしよう」

 彼の好意に甘え、キッチンへ向かう。
 人様の……しかも異世界のキッチンだ、ちょっと気兼ねするも、あちこち開けてみる。一見、ただのクローゼットみたいだけど、ひんやり冷気がする。扉に魔法陣が書かれた、多分、冷蔵庫。
 ほんのり緑色をした固形粘土みたいなものを恐る恐る味見してみれば、発酵バターの味がした。翡翠色の丸いのは、殻の質感から卵だろうと当たりをつけて割ってみると、鶏卵と変わらないものが出てきた。
 薄いピンクと薄い黄色が混ざった砂は砂糖、ミルクは愛久が知っているものと同じで……色んな食材を少しずつ味見しながら確かめる。瓶の中のキラキラしたラメが輝く黄金色の粘液はバニラの香りがする蜂蜜だったし、台の上に置きっぱなしのパンが固くなっていたから、フレンチトーストにしよう。

「あの、火は?」
 訊ねると、リビングから彼の声が聞こえる。短い呪文を唱え、「かまどに火を」と言うと、薪もないのにかまどに火が点る。
――スマートスピーカーみたいだ。アレリー、電気を点けて、みたいな。

 魔法って便利だ。これが夢でもなんでも、この世界が異世界で、自分は異世界に来てしまったんだと、ふんわりと認めてしまった。

「どうぞ」彼の指示通りに淹れたお茶を出した。
「ありがとう。疲れているだろうに、すまない」
「いえ」
 美人に素直に礼を言われるとむず痒くもあり、蝋燭に火が灯ったみたいに心がほんのり温かくなる。
 愛久が淹れたお茶に、彼は別の呪文を掛け、それからカップに口をつけた。死人のような顔色に、徐々に生気が宿り血の気が戻る。本当にお茶が効いていた。
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