2 / 30
序章.歌う青いウサギのぬいぐるみ
2.愛久と青いウサギのぬいぐるみ
しおりを挟む
しきりに頭を下げて謝る親子を見送ってから、愛久は気づいた。
――青いウサギのぬいぐるみがない。
ぶつかった拍子にどこかへやってしまった。慌てて辺りを見回しても、青いくたびれたウサギの影もない。
落とし物を落とすなんて、なんという失態。
窓は開いていないし、手すりと壁の間に挟まってもいない、廊下に這いつくばって椅子の下を覗いてもない。どこにもない。
もしかしたら、さっきの親子の荷物に紛れたのかもしれない。バイトの時間もある、名前も分からない親子を追うには時間がない。ひとまずナースステーションへ行って、看護師に落とし物の報告と事情を説明しておいた。
落とし主に申し訳ない気もちだった。大事にされていたぬいぐるみだ、きっと困っているだろう。
頼まれたお使いも出来ない兄なんて、弟にも合わせる顔がない。
意気銷沈とバイトへ向かった。
愛久がバイト三昧でいるのは、何かの拍子に入用になったときの保険でもあるし、自分の生活費でもある。
家のことも手伝いたいから一人暮らしは出来ないけれど、家賃と光熱費のかわりに、バイトで稼いだ金をいくらか家に入れていた。成人した身として、経済的に自立した男でありたい。
弟、大生とは、見た目が全く似ていない。血が繋がっていないのだから、当然だ。小学生の頃、両親が離婚し、愛久は父に引き取られ、再婚して義母となった相手の連子が大生だ。
義母は責任感と愛情に溢れる人だった。愛久のことも本当の息子として大生と区別することなく接してくれたし、愛久も義母のことを、外に男を作って都合よく自分を捨てた産みの実母よりも、本当の母だと思っている。
愛情深いが故に身体の弱い大生のことで、心労を溜めてしまったのだろう。冬のある朝、突然倒れて帰らぬ人になってしまった。
そんなこともあってか、早く一人前になりたかった。
愛久は高校を卒業したあと、一度就職した。地元の工場だった。
弟の病院の費用があるのに、家に負担をかけたくなかった。父の負担を、少しでも支えたかった。特別、勉強や部活をしていたでもない。だから、大学へは行かず就職を選択した。
だけど、最低賃金より安い上、労働時間も長く時間外労働は当たり前、副業禁止で、働いている社員たちは生気がなく、ゾンビのようで、新人いびりが当たり前に横行していて……。命の危機を察知し、辞めた次第。
バイトを掛け持ちした方が稼げた。弟がまた入院したとき、荷物を届けたり、学校に連絡したり、忙しい父の代わりに家事をこなしたりと何かと融通がきく。
家事に関しては、愛久もバイトで家に居ないとき、父の知り合いの女性――桜さんが手伝ってくれているから、男所帯でも不衛生にならず、食事も肉と米だけしかない茶色い丼ぶりが毎日という事態も避けられ、健やかな生活を送ることができている。控えめでも芯の強い桜さんには、身体が大きな愛久も躾けられた大型犬の如く、家庭という群れを円滑に回す力の長けた上位者に頭が上がらない。
愛久の年齢は、同級生がキャンパスライフを謳歌している頃だ。バイトの先輩に誘われてもさして遊びもせず、浮いた話一つしない。バイトばかりしているのだから、家族は会話の節々に薄っすらとにおわせ程度に心配していた。
夜も十一時を回り、バイトを終えた愛久は帰路につく。仕事中も青いウサギのぬいぐるみが頭から離れなかった。
古いし、くたびれていたし、見る人によっては作りが雑にも見え、ゴミに間違えられて捨てられてなければいい。
もしかしたら病院の近くに落ちているかも、なんて思ってもいない愛久だが、念のため、側を通ってみようかという気になる。
――やっぱり、あるわけないか。
自転車を引き、歩きながらアスファルトを舐め回すように見回る。一縷の望みもないのは分かってる。それでも、捜さないと気がすまない。
暗い夜道、自転車のヘッドライトがふらふらと心許なく照らす。
夜風に乗り、どこからともなく歌が聞こえた。
生き物が寝静まる深夜、地方だから走る車もない。
息をひそめて耳を澄ませる。
少女のような、声変わり前の少年のような透き通った歌声だ。楽しそうで無邪気なのに、寂しげで、不思議な音色をしていた。
こんな夜中に子供の歌声。病室から抜け出したのか、迷子か……まさか、警察に頼らなければならない訳ありなのか。
放ってはおけない。夜の病院なんて不気味だが、そこで働いている人も、入院患者も――その中に大生も居る、生きた人たちがそこで生活しているのだからなんともない、と自分に言い聞かせて歌の主を捜した。
歌声は病院裏手にある公園からしていた。緑化公園で、昼は患者や見舞客が気分転換に散歩したり、ピクニックをしたりしている。だけど、夜中は木々の枝葉が闇を作り陰気な場所に見え、恐る恐る敷地に踏み入る。
アスファルトの歩道の上、自転車を引く。外灯がなく、ヘッドライトだけが頼りだ。
暗いし薄寒い。
片手で羽織っているジップパーカーのファスナーを上げた。
ひと気はなく、わびしい。あったらあったで怖いのだけれど。
夜風がそっと撫でていき、梢がざわざわと波音を立てる。公園の奥へと進み公道から離れると、現実ではないどこかに入り込んでしまいそうな錯覚が起きる。深く入り込めば帰って来られないかもしれない、そんな考えがよぎり、公園が不気味さを増す。
歌声はだんだん大きくなり、近づいてきた。
五百ミリリットルのペットボトルより小さいそれを、偶然見つけるにはあまりにも出来すぎていて、目にした瞬間、ゾクリと悪寒が全身を巡った。
見覚えのある、くたびれた青いウサギのぬいぐるみが、縁石にちょこんと座っている。
人影も人の気配もない。
『歌う人形』ホラーにありがちな単語が頭をよぎる。
――現実にあり得ないだろ。
「誰か、居るか?」
どこかに隠れているのではないかと、声を張り上げてみるも、人が動く気配はないし、歌声も止まない。何度か呼びかけたが結果は同じで、応じるものはない。
気づかなかっただけで、あれにスピーカーが入っていたのかもしれない。子供の頃、ゲームのキャラクターのぬいぐるみにそういったものが入っていて、センサーで振動を感知して喋るそれを欲しがった記憶が、薄っすらとある。
電源が入ったまま放置されたのか、誰かの悪戯か。
愛久が落とした落とし物のぬいぐるみなら、無視できない。
青いウサギを拾うべく、自転車を停め、手を伸ばす――
途端、落ちた。
――青いウサギのぬいぐるみがない。
ぶつかった拍子にどこかへやってしまった。慌てて辺りを見回しても、青いくたびれたウサギの影もない。
落とし物を落とすなんて、なんという失態。
窓は開いていないし、手すりと壁の間に挟まってもいない、廊下に這いつくばって椅子の下を覗いてもない。どこにもない。
もしかしたら、さっきの親子の荷物に紛れたのかもしれない。バイトの時間もある、名前も分からない親子を追うには時間がない。ひとまずナースステーションへ行って、看護師に落とし物の報告と事情を説明しておいた。
落とし主に申し訳ない気もちだった。大事にされていたぬいぐるみだ、きっと困っているだろう。
頼まれたお使いも出来ない兄なんて、弟にも合わせる顔がない。
意気銷沈とバイトへ向かった。
愛久がバイト三昧でいるのは、何かの拍子に入用になったときの保険でもあるし、自分の生活費でもある。
家のことも手伝いたいから一人暮らしは出来ないけれど、家賃と光熱費のかわりに、バイトで稼いだ金をいくらか家に入れていた。成人した身として、経済的に自立した男でありたい。
弟、大生とは、見た目が全く似ていない。血が繋がっていないのだから、当然だ。小学生の頃、両親が離婚し、愛久は父に引き取られ、再婚して義母となった相手の連子が大生だ。
義母は責任感と愛情に溢れる人だった。愛久のことも本当の息子として大生と区別することなく接してくれたし、愛久も義母のことを、外に男を作って都合よく自分を捨てた産みの実母よりも、本当の母だと思っている。
愛情深いが故に身体の弱い大生のことで、心労を溜めてしまったのだろう。冬のある朝、突然倒れて帰らぬ人になってしまった。
そんなこともあってか、早く一人前になりたかった。
愛久は高校を卒業したあと、一度就職した。地元の工場だった。
弟の病院の費用があるのに、家に負担をかけたくなかった。父の負担を、少しでも支えたかった。特別、勉強や部活をしていたでもない。だから、大学へは行かず就職を選択した。
だけど、最低賃金より安い上、労働時間も長く時間外労働は当たり前、副業禁止で、働いている社員たちは生気がなく、ゾンビのようで、新人いびりが当たり前に横行していて……。命の危機を察知し、辞めた次第。
バイトを掛け持ちした方が稼げた。弟がまた入院したとき、荷物を届けたり、学校に連絡したり、忙しい父の代わりに家事をこなしたりと何かと融通がきく。
家事に関しては、愛久もバイトで家に居ないとき、父の知り合いの女性――桜さんが手伝ってくれているから、男所帯でも不衛生にならず、食事も肉と米だけしかない茶色い丼ぶりが毎日という事態も避けられ、健やかな生活を送ることができている。控えめでも芯の強い桜さんには、身体が大きな愛久も躾けられた大型犬の如く、家庭という群れを円滑に回す力の長けた上位者に頭が上がらない。
愛久の年齢は、同級生がキャンパスライフを謳歌している頃だ。バイトの先輩に誘われてもさして遊びもせず、浮いた話一つしない。バイトばかりしているのだから、家族は会話の節々に薄っすらとにおわせ程度に心配していた。
夜も十一時を回り、バイトを終えた愛久は帰路につく。仕事中も青いウサギのぬいぐるみが頭から離れなかった。
古いし、くたびれていたし、見る人によっては作りが雑にも見え、ゴミに間違えられて捨てられてなければいい。
もしかしたら病院の近くに落ちているかも、なんて思ってもいない愛久だが、念のため、側を通ってみようかという気になる。
――やっぱり、あるわけないか。
自転車を引き、歩きながらアスファルトを舐め回すように見回る。一縷の望みもないのは分かってる。それでも、捜さないと気がすまない。
暗い夜道、自転車のヘッドライトがふらふらと心許なく照らす。
夜風に乗り、どこからともなく歌が聞こえた。
生き物が寝静まる深夜、地方だから走る車もない。
息をひそめて耳を澄ませる。
少女のような、声変わり前の少年のような透き通った歌声だ。楽しそうで無邪気なのに、寂しげで、不思議な音色をしていた。
こんな夜中に子供の歌声。病室から抜け出したのか、迷子か……まさか、警察に頼らなければならない訳ありなのか。
放ってはおけない。夜の病院なんて不気味だが、そこで働いている人も、入院患者も――その中に大生も居る、生きた人たちがそこで生活しているのだからなんともない、と自分に言い聞かせて歌の主を捜した。
歌声は病院裏手にある公園からしていた。緑化公園で、昼は患者や見舞客が気分転換に散歩したり、ピクニックをしたりしている。だけど、夜中は木々の枝葉が闇を作り陰気な場所に見え、恐る恐る敷地に踏み入る。
アスファルトの歩道の上、自転車を引く。外灯がなく、ヘッドライトだけが頼りだ。
暗いし薄寒い。
片手で羽織っているジップパーカーのファスナーを上げた。
ひと気はなく、わびしい。あったらあったで怖いのだけれど。
夜風がそっと撫でていき、梢がざわざわと波音を立てる。公園の奥へと進み公道から離れると、現実ではないどこかに入り込んでしまいそうな錯覚が起きる。深く入り込めば帰って来られないかもしれない、そんな考えがよぎり、公園が不気味さを増す。
歌声はだんだん大きくなり、近づいてきた。
五百ミリリットルのペットボトルより小さいそれを、偶然見つけるにはあまりにも出来すぎていて、目にした瞬間、ゾクリと悪寒が全身を巡った。
見覚えのある、くたびれた青いウサギのぬいぐるみが、縁石にちょこんと座っている。
人影も人の気配もない。
『歌う人形』ホラーにありがちな単語が頭をよぎる。
――現実にあり得ないだろ。
「誰か、居るか?」
どこかに隠れているのではないかと、声を張り上げてみるも、人が動く気配はないし、歌声も止まない。何度か呼びかけたが結果は同じで、応じるものはない。
気づかなかっただけで、あれにスピーカーが入っていたのかもしれない。子供の頃、ゲームのキャラクターのぬいぐるみにそういったものが入っていて、センサーで振動を感知して喋るそれを欲しがった記憶が、薄っすらとある。
電源が入ったまま放置されたのか、誰かの悪戯か。
愛久が落とした落とし物のぬいぐるみなら、無視できない。
青いウサギを拾うべく、自転車を停め、手を伸ばす――
途端、落ちた。
18
お気に入りに追加
36
あなたにおすすめの小説
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
悪役令息の異世界転移 〜ドラゴンに溺愛された僕のほのぼのスローライフ〜
匠野ワカ
BL
ある日、リューイは前世の記憶を思い出した。
そして気付いたのだ。
この世界、高校生だった前世でやり込んでいたゲームかも? 僕ってば、もしかして最終的に処刑されちゃう悪役令息……?
そこからなんとか死亡エンドを回避するため、良い子の努力を続けるリューイ。しかし、ゲームのストーリー強制力に連戦連敗。何をやっても悪役令息まっしぐら。
ーーこうなったらもう逃げ出すしかない!!
他国に逃げる計画は失敗。断罪イベント直前に聖女に助けられ、何故だか他国どころか異世界に飛ばされてしまって、さぁ大変。
ジャングルみたいな熱帯雨林に落っこちたリューイは、親切なドラゴンに助けられ、目指すはほのぼのスローライフ!
平和に長生きしたいんだ!
ドラゴン×悪役令息
言葉の通じない二人のほのぼの(当社比)BLです。
出会うまでにちょっと時間がかかりますが、安心安全のハピエンBL。
ゆっくり更新です。ゆるゆるお楽しみください。
転生悪役令息、雌落ち回避で溺愛地獄!?義兄がラスボスです!
めがねあざらし
BL
人気BLゲーム『ノエル』の悪役令息リアムに転生した俺。
ゲームの中では「雌落ちエンド」しか用意されていない絶望的な未来が待っている。
兄の過剰な溺愛をかわしながらフラグを回避しようと奮闘する俺だが、いつしか兄の目に奇妙な影が──。
義兄の溺愛が執着へと変わり、ついには「ラスボス化」!?
このままじゃゲームオーバー確定!?俺は義兄を救い、ハッピーエンドを迎えられるのか……。
※タイトル変更(2024/11/27)
R指定はないけれど、なんでかゲームの攻略対象者になってしまったのだが(しかもBL)
黒崎由希
BL
目覚めたら、姉にゴリ推しされたBLゲームの世界に転生してた。
しかも人気キャラの王子様って…どういうことっ?
✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻✻
…ええっと…
もう、アレです。 タイトル通りの内容ですので、ぬるっとご覧いただけましたら幸いです。m(_ _)m
.
身代わりになって推しの思い出の中で永遠になりたいんです!
冨士原のもち
BL
桜舞う王立学院の入学式、ヤマトはカイユー王子を見てここが前世でやったゲームの世界だと気付く。ヤマトが一番好きなキャラであるカイユー王子は、ゲーム内では非業の死を遂げる。
「そうだ!カイユーを助けて死んだら、忘れられない恩人として永遠になれるんじゃないか?」
前世の死に際のせいで人間不信と恋愛不信を拗らせていたヤマトは、推しの心の中で永遠になるために身代わりになろうと決意した。しかし、カイユー王子はゲームの時の印象と違っていて……
演技チャラ男攻め×美人人間不信受け
※最終的にはハッピーエンドです
※何かしら地雷のある方にはお勧めしません
※ムーンライトノベルズにも投稿しています
主人公の兄になったなんて知らない
さつき
BL
レインは知らない弟があるゲームの主人公だったという事を
レインは知らないゲームでは自分が登場しなかった事を
レインは知らない自分が神に愛されている事を
表紙イラストは マサキさんの「キミの世界メーカー」で作成してお借りしています⬇ https://picrew.me/image_maker/54346
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる