王妃?そんなものは微塵も望んでおりません。

cyaru

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天国から地獄の入口へ

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「もうちょっと楽しみたかったのにぃ」

馬車の中でディートリヒにもたれかかり、お互いの下半身をまさぐる手が止まらない2人だったが、馬車の揺れが止まると深く唇を合わせ、ついでに舌も絡めるとやっと椅子から立ち上がった。

御者席から御者が降りた音はするが、馬車の扉が開かれる事はない。
いつもであれば、扉は外から開かれステップが組まれるはずだがそんな音がする事もない。

――気を利かせているのか?――

宿屋だけでなく馬車の中でも愉しんでいるディートリヒは旅行の【視察先】である湖の湖畔や海辺の景勝地に到着した際にも気を利かせない御者の頬に拳を打ち込んでいた。

「降りる準備はまだか!開けてくれ」

声を上げるが誰も返事をするものはない。小窓からは何人かの王宮で働く使用人の姿は見えるし衛兵の姿も確認できる。従者ではないが文官なのか次官の姿もそこにあるのに、まるで馬車が目に入っていないかのようだった。
一旦は声をかけて開けようとしたが鍵がかかっていたのかと思えばそうではなかった。

扉に鍵はかかっておらず、ディートリヒがレバーを下に回転させれば馬車の扉は開いた。だが足元にステップはないし、扉が開いたのに声をかけてくる者さえいない。

「おい!」と声を張り上げてみるが、風下なのだろうか。
ディートリヒの声に反応するものが一人もいない。

仕方なくディートリヒは子供のように馬車から飛び降りると、手を差し出してアンネマリーを抱くように馬車から降ろした。屋根に積んだ荷を下ろす者もいなければ、こうやって地に足を付けたディートリヒに目を向ける者もいない。まるで自分たちだけが見えていないのかと思う不思議な感覚だった。



王宮の廊下を闊歩し始めたディートリヒはすれ違う文官や次官だけでなく使用人達の態度に違和感を感じていた。隣で腕に縋るように歩くアンネマリーは早足になるディートリヒについて行くのがやっとで話しかける事も出来ない。

足に意識を集中させねばいくら腕を掴んでいると言っても転んでしまいそうだからだ。早足の上に一歩の歩幅のあるディートリヒにアンネマリーはヒールで走る。

ディートリヒが感じた違和感の正体は、自室まで次の角を曲がればという場所まで来た時にやっと気が付いた。突然歩みを止めたディートリヒにアンネマリーは掴んでいた手が勢いで離れてしまい、盛大に前のめりに転んで2、3回転してしまった。

「で、殿下ぁ!あんまりですわぁ」
「は?…あぁすまない」

ディートリヒは、転んで起こしてくれと手を差し出してくるアンネマリーに返事を返すだけで、近寄って腕を掴んだのはすれ違おうとした文官だった。

「おいっ!どういうつもりだ」

文官の腕を掴んだディートリヒの手は直ぐに離れた。
何故なら、文官を掴んだ手の力よりもさらに強い力で二の腕を掴まれたからだ。


「皆、忙しいのだ。何故だかわかるか?」

二の腕を掴み、ディートリヒに問い掛けたのは自身より頭一つ背が高いジギスヴァルトだった。振り解こうと腕を振るものの、食い込む指の力は益々強くなる。
騎士団の中でも群を抜く身体能力を有し近衛隊隊長であり、かつて帝国の皇帝が直属とその腕を欲しがったジギスヴァルトに抗うのは無意味に等しい。


「お前は…キデルレン侯爵家の…」
「名など問うているのではない。耳に垢でも詰まっているのか?」
「貴様‥‥王太子の僕に向かって不敬だろうが!」
「おや?垢は耳に詰まっているのではなく、この頭に詰まっているのか。だとすれば質問が難し過ぎたようだ」

二の腕はギリギリと締め上げられてディートリヒは軽々と持ち上げられてつま先すら地に着かない。腕が捩じれる痛みについに抵抗を止めたが、悲鳴にも似た声だけは止まらなかった。

ズサッと音がすれば、それはジギスヴァルトがディートリヒを投げ捨てた音。鈍い音が混じっていたのは、違う方向を向いた手首で体を支えようとしたのだろう。
獣のような声を上げてディートリヒが転げまわっていた。


アンネマリーは体制をうつ伏せから上体を起こしただけに戻せたが、ジギスヴァルトの凄みに尻を擦りながら後ずさる。しかしその背が何かにあたりハッと振り返るとそこには父親のモントケ伯爵が立っていた。背に当たったのは父親の足だと判ると、強張った表情も笑顔になり起こして貰おうとついていた手を動かそうとした。

ガッ!! 「ギャッ!痛っ!!」

信じられない痛みに指先を見れば、父の靴がアンネマリーの指を踏みつけていた。
見下ろす父の視線に温度はなく、感じられるのは嫌悪だった。

「お父様っ!!痛いっ」

声を出したアンネマリーは父の後ろに美しく着飾った母の姿を視界に捉えた。しかしアンネマリーの首やデコルテに散った赤い華を見た母の表情はまるで毛虫を踏みつぶしてしまった後の気持ち悪さに似たものだった。
ハッと空いた手でドレスの胸元を上に引き上げようとしたが、母の声に手が止まった。

「あなた、何時まで虫を踏んで遊んでいるのです。子供ではないのですよ。遅れると大変ですからもう参りましょう」

混乱する頭で父と母を呼ぼうとしたが、歩き始めようとした父の靴底に指先が更に捩じれた。

「ギャァァァッ!!」

悶絶するアンネマリーを振り返る事もなく両親の背が遠くなっていく。
痛みに指先を抑えるアンネマリーは目の前に誰かがしゃがみ込んだ気配に顔を上げた。
薄く口元に笑いを浮かべていたのはアンネマリーの従妹だった。

「シェリー…どうしてこんなところに?…うぅぅ…」

遠い田舎にいる筈の従妹は少し前にあった自分の誕生日に両親が贈ってくれたドレスよりも豪奢なドレスに身を包み、その首元には祖母から受け継いだ母が大事にしていたネックレスが光っていた。

「どうしてアンタが…それはお母様のっ!!」
「おバカさん。真実の愛なんて結局こんな末路なのに。くくくっ」

母がシェリーに「早く来なさい」とかけた声が聞こえた。娘である自分ではなく従妹のシェリーを呼ぶ優しい声にシェリーの返事はアンネマリーの辛うじて体を支えていた気持ちを打ち砕いた。

「待って。お父様ぁ!お母様ぁ」
「走ると転ぶぞ?」
「ほらほら、淑女は走らないと言ったでしょう?」
「はぁい。お父様っ!エスコートしてくださいませっ」
「困ったなぁ…可愛い娘の頼みだから仕方ないか。アハハ」

遠ざかっていく話声はいったい誰が誰に向けてのものなのか。顔を上げればそこには仲の良さげな両親と娘が微笑みあいながら去っていく背中が見えた。

――どういうことなの――

口で息をしながら、痛む指先に涎と鼻水が涙と一緒にポタポタと落ちてくる。
さっきまでの幸せで楽しかった時間が、突然の悪夢に切り替わってしまったアンネマリーは今が寝ているのか起きているのかも判断がつかず混乱をした。


――これは夢…あんまりにも楽しかったからその反動なの?――

虚ろな目に映っていた視界が歪んだのは衛兵2人に腕を掴まれたからだった。
アンネマリーの目に映るディートリヒも同じように2人の衛兵に腕を掴まれて立たされていた。それはとても王太子に対しての行いではなくまるで罪人のような扱いだった。


衛兵に支えられなければ足も前に出ないアンネマリーの耳にディートリヒの声が聞こえた。

「ツェ!どういうことだ!この僕に※△!×#」

ディートリヒは続いて何かを言っているようだったが舌が縺れたようで聞き取れない。
しかし、落ち着き払ったコンスタンツェの声はアンネマリーの鼓膜を震わせた。

「あら、こんな所にも羽虫?今年は特に多いわね。当たり年かしら?」

びくりと体が震える。かつて子爵家のベリルダが泣き叫びながら両親に馬車に押し込まれる場を見た記憶があった。アレは何だと会場入りした後に聞けば、コンスタンツェにベリルダから話しかけ不興を買ったのだと聞かされた。

「羽虫だとっ!?アンネマリーは羽虫ではない!」

――やめて!やめて!私の名を呼ばないでっ――

「アンネマリーは友人だと言っただろう!」

――お願いだからもうやめて!何もしゃべらないでっ!――

「ツェ、お前は王妃になれるんだから、少々の事で目くじらを立てるな」

コンスタンツェの小さな笑い声が聞こえた気がした。
アンネマリーからは側面となるコンスタンツェの姿。扇で隠した口元から笑みが零れるのを見てアンネマリーは意識を飛ばした。
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