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思い出の娘
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公爵家までの車中、母に肩を抱かれ顔を胸につけてぼんやりとカーメリアは考えた。
――わたくしに何が足りなかった――
5歳から始まった妃教育はとても厳しいものだった。
公爵家で娘がいるのはメングローザ公爵家のみ。あとの2家は男児しかない。
くじける事は3大公爵家の顔に泥を塗る事だと講師が呪文のように耳元で囁く。
幼いカーメリアは痛みを堪え、涙を枯らし、立ち上がる事しか許されなかった。
「何がおかしいのです」
目の前で繰り広げる喜劇を見て、思わず弛んだ頬を抓られる。
王妃となるものにはどのような場合も笑みを浮かべる事は禁じられた。
「その目は何です?悔しい、悲しいなど必要ないのですよ」
脚の爪が剝がれても続けられるダンスの講習。痛みに顔を歪めれば叱責をされる。
熱が出て気分が悪くても目の前のレアで焼かれた肉を頬張らねばならない。
全ての感情を殺すことを容赦なく叩きこまれてきた。
炊き出しをしている場を視察に訪れた時…。
「殿下、この国の貧しいものに必要なのは職と医療です」
「驚く事を言うね?そんな事をしたら予算がいくらあっても足りないよ。貧乏に生まれた者が悪いんだから炊き出しとてなんと無駄な事だろう。野菜や穀物を育ててる者達の気持ちになってみたらとてもそんな事は考え付かないよ。公爵家となると金銭感覚がマヒしているんじゃないか?一度診てもらった方が良い。典医を紹介するよ?」
「いいえ、彼らには自分の手で稼ぎ、生きていく術を与える事こそ国を繁栄に導く一歩になります。稼ぐ術を身に付ければそれは納税となって返ってくるのです」
「何年先の話をしてるんだい?その日暮らしの者に学を付けて、全てがモノになると思っているなんて君は幸せな人生を何の憂いもなく送ってるんだね。悩みが無くて羨ましいよ。まぁいいか。賢い事は認めてあげるよ。それで君は満足するだろうし私も君に嫌な思いをさせなくて済むからね」
そう言って、市井の民たちへの炊き出しの場に出向けばイデオットは声を張り上げるのだ。
「君たちに必要なのはまずその手に職をつけ、己の手で稼いで生きていく事だ。そのために私は国王となった日から共に汗を流し尽力する事を約束しよう。病んでいるものはこの先にある公民館に行くと良い。医者や薬は私が手配をしよう」
人材や医療品の確保をカーメリアに、ひいてはメングローザ公爵家に申しつける。それでも民が救えるのならばとカーメリアは実際に汗を流して尽力してきた。
――殿下にとっては、それだけの事だったのね――
長年一緒にいるエンヴィー侯爵令嬢と意思疎通が出来る。
わたくしは、出来ないからこそ話し合う時間を望んだ。それも間違いだった。
エンヴィー侯爵令嬢の存在は癒される。
やる事が多すぎて眠れないというイデオットに休息を取って貰おうと、生徒会の運営も全てを引き受け走り回り、気が付けば朝になるまで来る夜会の出席者の名前や趣味嗜好を覚えてきたが、休息を取る時間よりもひとときの笑顔だけで癒されていたなら、してきた事は無駄だった。
妃教育で感情を出す事を禁じられてきたけれど、殿下はそれを由としていなかった。
14年間、何をしてきたのだろう。あぁ、足りなかったのではない。
――全てに於いて誠実さがなかった。ただそれだけ――
ひび割れた氷のように亀裂が走ったカーメリアの心はポロポロとその欠片を落としていく。誰にも拾われないその感情の欠片は涙となって溢れ出た。
表情に出す事を厳しく禁じられた教育による弊害でカーメリアはビスクドールのように表情を変えず、声を出さずただ涙だけを溢れさせた。
顔を押し当てた胸が涙で濡れた感触に夫人は、肩を震わせる事もないまま泣くカーメリアに気が付いた。その姿を見て口をはくはくとさせた直ぐ後、カーメリアを抱きしめ、娘の分もなのだろうか声をあげて泣いた。
――これがカーメリアが耐えてきた教育なのか――
向かい合って腰掛けるメングローザ公爵は腰を浮かせ、差し出した手が宙に浮く。
泥だらけになったワンピース。落としたのか忘れたのか、はたまた飛んでいったのか被っていった帽子がなくなった事もそっちのけ。釣り上げたフナを得意そうに見せてくれたカーメリア。
「お父様ぁ!フナが釣れたのですっ!わたくしが釣り上げましたのぉ!」
木を見上げておろおろする乳母をよそに、するすると枝を伝って赤く熟れた木の実を頬張り、ついでに見つけたモズの巣を自慢するカーメリア。
「お父様っ!ここにモズが巣を作っていますわ!わぁ!卵もありますっ!」
領地で遠出をするという兄についていくと聞かず、暫く走って追いかけたが置いていかれて泣きながら戻って、愚痴をこぼすカーメリア。
「うわぁぁん!お兄様が馬に乗せてくれないのですぅ!!」
妻と庭で育てたイチゴを庭師に食べ頃の分を採ってもらい、ミルクをたっぷりかけて頬袋があったのか?と思うくらいに口に含んで満面の笑みのカーメリアを揶揄えば膝の上に走ってきて甘えた日。
「イチゴも好きだけど、お父様が一番大好きっ!お母様には内緒ね?」
どうしてもっと早くに気が付いてやれなかったのか。
この子はあんなに感情豊かに、全身で表現する子だったのに。
淑女として、貴族令嬢としては申し分ないその姿に気づきが遅れた事を悔んだ。
想像に容易い。公爵家としての体面をと言われればカーメリアは従っただろう。
親を思い、兄を思い、領民を思ったカーメリアは弱さを誰にも見せなかった。弱さを見せればそれは家族の恥になると考えたのだろう。
「いいんだ。もう公爵家の事も何にも考えなくていい。お前の思うように、感じるように生きて行けばいいんだ」
公爵家に帰った3人。カーメリアは自室に戻り侍女にドレスを脱がせてもらうとそのまま寝台に潜り込んだ。公爵は直ぐに領地を分割し売却するため息のかかった貴族に連絡を取るように申しつけた。
領地を分割し、誰彼構わず売ってしまえば確かに金にはなるだろう。しかし領民を誰よりも思いやるカーメリアを考えれば、領民の生活をも考えねばならない。領民の現状を変えず引き受けてくれるだけを対価としても惜しくはない。
「どれくらいかかるだろうか」
「2カ月ほどでしょうか。父上は先に母上、カーメリアとリアーノ国に向かってもよろしいのですよ。私が後始末はしておきますから」
「バカな事を言うな。己の尻を己で拭かずお前に爵位が譲れるか」
「老体に鞭を打ち過ぎてギックリは勘弁してくださいよ」
笑顔で領民に説明に行くという息子を見送り、公爵は爵位返上の書状を、夫人は実家に手紙を認めた。
――わたくしに何が足りなかった――
5歳から始まった妃教育はとても厳しいものだった。
公爵家で娘がいるのはメングローザ公爵家のみ。あとの2家は男児しかない。
くじける事は3大公爵家の顔に泥を塗る事だと講師が呪文のように耳元で囁く。
幼いカーメリアは痛みを堪え、涙を枯らし、立ち上がる事しか許されなかった。
「何がおかしいのです」
目の前で繰り広げる喜劇を見て、思わず弛んだ頬を抓られる。
王妃となるものにはどのような場合も笑みを浮かべる事は禁じられた。
「その目は何です?悔しい、悲しいなど必要ないのですよ」
脚の爪が剝がれても続けられるダンスの講習。痛みに顔を歪めれば叱責をされる。
熱が出て気分が悪くても目の前のレアで焼かれた肉を頬張らねばならない。
全ての感情を殺すことを容赦なく叩きこまれてきた。
炊き出しをしている場を視察に訪れた時…。
「殿下、この国の貧しいものに必要なのは職と医療です」
「驚く事を言うね?そんな事をしたら予算がいくらあっても足りないよ。貧乏に生まれた者が悪いんだから炊き出しとてなんと無駄な事だろう。野菜や穀物を育ててる者達の気持ちになってみたらとてもそんな事は考え付かないよ。公爵家となると金銭感覚がマヒしているんじゃないか?一度診てもらった方が良い。典医を紹介するよ?」
「いいえ、彼らには自分の手で稼ぎ、生きていく術を与える事こそ国を繁栄に導く一歩になります。稼ぐ術を身に付ければそれは納税となって返ってくるのです」
「何年先の話をしてるんだい?その日暮らしの者に学を付けて、全てがモノになると思っているなんて君は幸せな人生を何の憂いもなく送ってるんだね。悩みが無くて羨ましいよ。まぁいいか。賢い事は認めてあげるよ。それで君は満足するだろうし私も君に嫌な思いをさせなくて済むからね」
そう言って、市井の民たちへの炊き出しの場に出向けばイデオットは声を張り上げるのだ。
「君たちに必要なのはまずその手に職をつけ、己の手で稼いで生きていく事だ。そのために私は国王となった日から共に汗を流し尽力する事を約束しよう。病んでいるものはこの先にある公民館に行くと良い。医者や薬は私が手配をしよう」
人材や医療品の確保をカーメリアに、ひいてはメングローザ公爵家に申しつける。それでも民が救えるのならばとカーメリアは実際に汗を流して尽力してきた。
――殿下にとっては、それだけの事だったのね――
長年一緒にいるエンヴィー侯爵令嬢と意思疎通が出来る。
わたくしは、出来ないからこそ話し合う時間を望んだ。それも間違いだった。
エンヴィー侯爵令嬢の存在は癒される。
やる事が多すぎて眠れないというイデオットに休息を取って貰おうと、生徒会の運営も全てを引き受け走り回り、気が付けば朝になるまで来る夜会の出席者の名前や趣味嗜好を覚えてきたが、休息を取る時間よりもひとときの笑顔だけで癒されていたなら、してきた事は無駄だった。
妃教育で感情を出す事を禁じられてきたけれど、殿下はそれを由としていなかった。
14年間、何をしてきたのだろう。あぁ、足りなかったのではない。
――全てに於いて誠実さがなかった。ただそれだけ――
ひび割れた氷のように亀裂が走ったカーメリアの心はポロポロとその欠片を落としていく。誰にも拾われないその感情の欠片は涙となって溢れ出た。
表情に出す事を厳しく禁じられた教育による弊害でカーメリアはビスクドールのように表情を変えず、声を出さずただ涙だけを溢れさせた。
顔を押し当てた胸が涙で濡れた感触に夫人は、肩を震わせる事もないまま泣くカーメリアに気が付いた。その姿を見て口をはくはくとさせた直ぐ後、カーメリアを抱きしめ、娘の分もなのだろうか声をあげて泣いた。
――これがカーメリアが耐えてきた教育なのか――
向かい合って腰掛けるメングローザ公爵は腰を浮かせ、差し出した手が宙に浮く。
泥だらけになったワンピース。落としたのか忘れたのか、はたまた飛んでいったのか被っていった帽子がなくなった事もそっちのけ。釣り上げたフナを得意そうに見せてくれたカーメリア。
「お父様ぁ!フナが釣れたのですっ!わたくしが釣り上げましたのぉ!」
木を見上げておろおろする乳母をよそに、するすると枝を伝って赤く熟れた木の実を頬張り、ついでに見つけたモズの巣を自慢するカーメリア。
「お父様っ!ここにモズが巣を作っていますわ!わぁ!卵もありますっ!」
領地で遠出をするという兄についていくと聞かず、暫く走って追いかけたが置いていかれて泣きながら戻って、愚痴をこぼすカーメリア。
「うわぁぁん!お兄様が馬に乗せてくれないのですぅ!!」
妻と庭で育てたイチゴを庭師に食べ頃の分を採ってもらい、ミルクをたっぷりかけて頬袋があったのか?と思うくらいに口に含んで満面の笑みのカーメリアを揶揄えば膝の上に走ってきて甘えた日。
「イチゴも好きだけど、お父様が一番大好きっ!お母様には内緒ね?」
どうしてもっと早くに気が付いてやれなかったのか。
この子はあんなに感情豊かに、全身で表現する子だったのに。
淑女として、貴族令嬢としては申し分ないその姿に気づきが遅れた事を悔んだ。
想像に容易い。公爵家としての体面をと言われればカーメリアは従っただろう。
親を思い、兄を思い、領民を思ったカーメリアは弱さを誰にも見せなかった。弱さを見せればそれは家族の恥になると考えたのだろう。
「いいんだ。もう公爵家の事も何にも考えなくていい。お前の思うように、感じるように生きて行けばいいんだ」
公爵家に帰った3人。カーメリアは自室に戻り侍女にドレスを脱がせてもらうとそのまま寝台に潜り込んだ。公爵は直ぐに領地を分割し売却するため息のかかった貴族に連絡を取るように申しつけた。
領地を分割し、誰彼構わず売ってしまえば確かに金にはなるだろう。しかし領民を誰よりも思いやるカーメリアを考えれば、領民の生活をも考えねばならない。領民の現状を変えず引き受けてくれるだけを対価としても惜しくはない。
「どれくらいかかるだろうか」
「2カ月ほどでしょうか。父上は先に母上、カーメリアとリアーノ国に向かってもよろしいのですよ。私が後始末はしておきますから」
「バカな事を言うな。己の尻を己で拭かずお前に爵位が譲れるか」
「老体に鞭を打ち過ぎてギックリは勘弁してくださいよ」
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