王子妃シャルノーの憂鬱

cyaru

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一頭の蛾

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「いやぁ…先日の小噴火の灰がまだ降ってますね。やられました」

玄関に入る前の風除室という部屋でベルジュを取りながら、隙間から入り込んだ火山灰を手ではたき落しているのはジョイス伯爵家のホルストだった。

今日もいつものように事業の報告書を持って離宮にやって来たのだ。

「あら、ホルストさん。いらっしゃい。今日はどうされたの?」

にこやかにタチアナが声を掛けた。
ホルストはベルジュをコート掛けにある一番上の突起に引っ掛けながら返事を返した。

「火山灰の集積所の件で来たんですよ。今までで一番良い話が出来そうです」
「と、いう事は今日も妃殿下に?」
「えぇ。お加減はどうでしょうか。優れないようなら出直しますが」
「大丈夫だと思うけれど取り次ぎましょうか」
「是非!お願いいたします」

玄関を入り、玄関ホールで窓の外を眺めるホルストを置いてタチアナはシャルノーの執務室に向かった。



10分ほど外を眺めていたホルストに声がかかった。

「ホルストさん、お会いになるそうです。こちらへ」

タチアナの後ろをホルストは分厚い書類の入った袋を抱えて進む。
長くはないが、短くもない廊下。シャルノーが歓迎の宴に招かれている間に侍女のドリスと見た離宮の面影は何処にもない。

「どうぞ。妃殿下は中におられます」
「ありがとう」

タチアナが開けた扉からホルストは部屋の中に入った。
手前にソファーセット。その奥に大きな執務机。壁には書類がぎっしりと詰まった書棚。シャルノーは執務をしていた。

「シャルノー妃殿下。本日はお時間を取ってくださりありがとうございます」

ホルストが声を掛けると書類から顔を上げたシャルノーが微笑んでソファを勧めた。

「今日はですね、火山灰。カスタード王国が買い取ってくれると言っていたでしょう?なので私なりに貴族に声を掛け、集積し、配送するに相応しい地を幾つか上げまして‥‥」

ソファの中央に置かれたテーブルの上に土地ごとなのだろう。
ホルストは丁寧に揃えながら書類の束を並べていった。

「どの土地も、選ばれた後に整地をすると時間も手間もかかりますので、話はつけてあるんですが一番広い…えぇっと右の端のこの領地なんですが…あれ?妃殿下…こちらに来られないのですか?」

間の抜けた表情で手に1つの束を持ち上げ、ホルストはシャルノーを見た。

「何点かよろしいかしら」
「はい、それはもう。候補地となれば疑念も御座いましょうから」

フフッとシャルノーは微笑み、執務机に両肘を立て、指を組んで作った橋の上に顎を乗せた。

「先ず、その火山灰を集積する話。何方どなたから聞いたか…教えてくださる?」

ホルストの顔から赤みが引く。蒼白ではないが泳いでいる目は必死に答えを探していた。

「次に、カスタード王国が火山灰を買い取ると何方どなたから聞いたか…教えてくださる?」

「あ。あの…誰だったかな…あ、チェザーレ殿下、チェザーレ殿下です」
「そう。殿下から。安心したわ」

「ですが、問題もありますよね。間もなく臣籍降下という話も出ています。妃殿下との離縁。そうなれば殿下は事業の事をどうなさるおつもりか。妃殿下がいらっしゃるうちに纏められるものは纏めておかないと」

「あら?離縁の話なんて誰からお聞きになったの?」

手にした書類の縁から少し飛び出た紙を指で押し込んでいたホルストの動きが止まった。

「それは…屋敷の者達が話しているのを聞いて。あ、誰と言う事はないですよ?それにまさか離縁なんてそんな事はないと思っていたのもありましたが、ほら、先日殿下が言ったじゃないですか。元婚約者の令嬢との関係を。あれであぁ。そうだったかと……思ったのですけど」

ホルストが書類から手を離すと、じっとりと手汗でも掻いているのだろう。
表紙になった紙が指が触れていた部分だけ小さく波打っていた。

シャルノーは組んでいた指を解き、ゆっくりと立ち上がると蒼白になって震えるホルストの前から1束の書類を手に取った。

バサリ。テーブルに少しの高さを持ったまま手を離し、音を立てて落ちる束にホルストの体もピクリと跳ね上がる。続いて2つ目の束、3つ目の束を手に取りパラパラと捲る。

「よく出来ているわね。時間もないのに大変だったでしょう?」
「は、はい…手にして頂いた1つ目は――」

切り抜けたのか?と感じたホルストは安堵した声を出し、引き攣った微笑を浮かべながら説明をしようとした。

「結構よ」
「あ、あの…それはいったい…あ!よく出来ていると仰られてましたね。失礼しました」

「えぇ、よく出来ているわ。本当に短い時間で良くこれだけ纏め上げたと…」

バッチーン!! 「ウァガッ!!」

手にしていた3つ目の束でシャルノーは思い切りホルストの太ももの付け根を打った。

「褒めてくれると思った?」
「うぅぅ…」
「本当によく出来てるわね。ジョイス伯爵家と第二王子妃殿下の実家には」
「あ、あの…」
「気が付かない愚鈍な妃殿下は演じていられたかしら?」

ホルストは目の前のシャルノーに気を取られていたが、背後に男性が複数人立っている気配を感じ取った。

「貴方が頼まれたのは殿下の執事から王都近郊に入ったわたくしへの挨拶と付き人の紹介だけのはずよ。離宮が素敵な状態だった事も知っていたでしょう?知らないはずがないわ。だって火事でここに捨て置かれた側妃はジョイス伯爵家の令嬢だものね?だからドリスと先に来て西側に床が抜けることなく通れる道を示した。違う?」

「そ、そうです…」

「殿下の側近となったけれど片方はさっさと離脱。さぞや苦労するかと思いきや貴方には第二王子妃というパトロンがいるもの。そりゃやめられないわよね。この離宮から側妃の遺品を持ち出す事も厳命されていたでしょうし」


ソファに座ったままのホルストの頬には額から汗が頬を伝い、顎の下からポタリと床に落ちた。


「護衛も従者の任も受けていない貴方がここに来てもわたくしは何も言わない。彼女たちに頼んで市井の者を雇った時、あなたからも数人の紹介があった者がいる。気が付かないと思った?」

「仕方なかったんだ。私はもうすぐ当主になる。だが!過去の側妃の件でジョイス伯爵家の経営は傾いたままだ。側近になったのに殿下は我儘放題。続けられるわけがない!それでも!2年は辛抱したんだ。これからいい思いをさせてくれたってバチは当たらないだろう?!アンタだって!アンタだって国に帰れる。良かったじゃないか!」

「お黙り!」

シャルノーの指がホルストの両方の頬に食い込んだ。
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