王子妃だった記憶はもう消えました。

cyaru

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郭公の反転

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この国だけでなく、国境を接する隣国、隣国の向こう側にある国、鳥以外は移動手段が船である国。国王と王妃は八方手を尽くし、人を送り調べたが見立てた侍医の言葉と同じ結果しか得られなかった。

何をきっかけにしてそれまでを思い出すのか判らないとなれば、話を聞きつけた貴族たちが手を揉みながら眉唾物の情報をさも効果があるように誇張しつつ王妃に擦り寄ってきた。

霊峰と言われている山の湧き水を飲むと良い。
夜明け前にしか咲かないメモリルの花の蜜を紅茶に入れると良い。
下弦の月の日に祈祷をすれば良い。

ては毎日瀉血をし、その血だけを吸わせた蚊を矢で射れば良いという無理無体な物まであった。


困った事に会話は出来るものの、失ったのは人に対する記憶だけでなく、文字も読めなかったしマナーや所作、それまでに履修していた座学による学問も綺麗さっぱり覚えていない事だった。

幼児が学ぶ基本的な学問など寝台の上で行なえるものを講師を呼んで学んでいく。
持って生まれた才能なのだろうか。
記号にしか見えなかった文字の規則性が理解できるとどんどん吸収していく。

まるで文字に飢えているかのようにシルヴェーヌは夜中に見回りに来た侍女が何度本を取り上げた事だろうかと苦笑するほど寝台わきに置いたランプの油が切れる明け方まで薄暗い中で本に魅了されていた。


「また夜遅くまで本を読まれていたのですね」
「夜遅くまでではないですわよ?早朝までです」
「あのですね?シルヴェーヌ様。夜と言うのは眠るものです」
「クロヴィス様は寝ていらっしゃらないでしょう?昨夜も扉の前に立っていたと侍女から聞きました」
「私はそれが仕事――いえ、したいからしているだけです」
「なら私も同じです。クロヴィス様が眠る日は寝ます」
「わかりました。約束ですよ?私は今日、昼寝をしますからシルヴェーヌ様もその時間は昼寝をしてください」


月灯りが無ければ漆黒の闇。一晩中扉の前で警護をしていたクロヴィスはシルヴェーヌが夜中に起きて本を読んでいた事は解っていた。しかし夜中に女性の部屋の扉を開けると言う事は緊急事態以外はあり得ない。
クロヴィス的には毎日がいろいろと緊急事態であるが、扉の足元から薄く漏れる小さな光に耳を澄ませば、紙を捲る音が聞こえるような気がして、シルヴェーヌらしいと苦笑いをした夜だったのだ。



「妃殿下、診察のお時間です」

侍女が声をかける。
背中の傷の場合はクロヴィスも席を外すが今日は頭部の傷の診察である。
頭部に受けた傷は隣国では縫合という方法で塞ぐと聞いた王妃があの日夜会に出席していた隣国の医師に頼んで処置をしてもらっていた。

従者が出たり入ったりしていたのは、騒ぎを聞いて自国の招待客でないものは先に安全確保として避難をしてもらっていたからで、秘匿をしてもらう事と予定のない医療行為に道具を揃える時間がかかったためだ。

「そろそろ抜糸をしてもいいでしょう。抜糸をすれば髪も洗えますよ。ただ強くガシガシと洗うのはダメですけどね」

「はい…あの先生?」
「なんですか?」
「鏡で見ると、何と言いますか…髪がない?ように見えるのですが…」
「ハハハ。大丈夫です。傷口の周りは処置のために剃らせて頂きましたがちゃんと生えてきます。傷口そのものは時間が経ってみないと解りません。毛母もうぼ細胞というのですがどの程度ダメージを受けているかは外観からは解りませんので。ですがもし生えて来なくてもこの大きさなら周りの髪で十分に隠す事は出来ますよ」

クロヴィスは胸に手を置いた。
処置で剃った髪は小袋に入れてお守りのように持ち歩いている。
王妃は「一つ間違えば変態」と笑ったが、二度とこんな事がないようにとのいましめと言い張った。


医師が帰った後、王妃の宮には来訪者があった。

「クディエ公爵様?えぇっと…公爵というと…公侯伯子男こうこうはくしだんだから…一番上?」
「はい、如何いたしましょう。王妃殿下は本日陛下と謁見が御座いまして」


ショック療法というものもあるようで、記憶を失う前に嫌な思い出がある人物にあったり、場所に行く事で思い出すきっかけとなる事があると言う。
王妃は大反対をしたのだが、物理的に距離を取って遠くからと国王が提案をしたのだ。
実はそれ以来王妃と国王は冷戦状態とも言える。


「明日ではダメなのか」
「それが、明日は陛下との会合があるとかで都合がつくのが本日のみと」
「シルヴェーヌ様。絶対に近づけさせません。不適切な事を口にしたら直ぐに叩きだします。陛下の許可が無ければ宮にも入れぬものを…口惜しい」
「クロヴィス様、国王陛下が折角考えて下さった治療法ですから。会ってみます」


部屋に入室はしたものの寝台からは出られないシルヴェーヌを見てクディエ公爵家当主ランヴェルとリベイラは大袈裟に胸に手を組んで合わせ、奇声にも似た声をあげた。

「おぉ!シルヴェーヌ。なんと労しいいたわしい事だ」
「なんてこと!わたくしの可愛いシルヴェーヌッ!あぁこの手で抱きしめてあげたいっ」

周りを見ると、侍女やメイド、従者の目は射抜くかのように厳しい視線が2人に向けられている。両手を広げ「お父様だよ」と一歩踏み込んだランヴェルをクロヴィスは手を広げて制した。

「お近づきになりませんよう。この位置でもこちらは譲歩しているのですから」
「なっ!何を言うか!娘を抱きしめたいというこの親心を踏み躙る気か!」
「そうよ!乳飲み子の時から大事に大事に育ててきた我が子同然の娘よ!」

2人の言葉に侍女頭が前に出てきた。姿勢よく直立しギロリと2人を睨む。
侍女頭の言葉に2人の言動が早くも一変した。

「虚偽は認められていない筈です。両陛下に報告を致します」
「何を証拠に!」
「そうよ!わたくしたちはあの子の親なのよ」

なにやら必死の様子の2人をつい他人ごとのように見てしまう。
「私の両親?」と寝台わきにいた侍女に問えば小さく首を横に振る。

「郭公の反転のようなものです」

先日読んだ本に郭公という鳥は他の鳥の巣に自分の卵を育てさせると書いてあった。
反転と言う事は【私が育てた?】シルヴェーヌの頭には疑問符が飛んだ。

「おいっ!こいつらをめろ!育てた恩を忘れたのか!」
「何するの!お離しッ!シルヴェーヌっ!何をしてるのっこいつらをやめさせなさい!」
「面会は終わりだ。退室して頂く」
「離せっ!オイコラ!穀潰しのお前をここまで育てたのは俺なんだぞっ!」

従者たちに退室をさせられた2人は廊下に出ても悪態を吐き喚いていた。

「見苦しいものをお見せしました。全く…王妃様が怒るはずだわ。陛下は何を考えてるのかしら」

プンプンと怒りを隠さない侍女だが、シルヴェーヌはチクリとこめかみが傷んだ。

「私は…誰の子なのかしら。彼らの実子ではないのでしょう?」

侍女の言った【郭公の反転】と彼らが言う【育てた恩】。
養父母なのだとすれば本当の親は何故来てくれないのだろう。
面会に制限を設けられる彼ら以上に何か会えない事情があるのだろうか。
考え込むシルヴェーヌの顔をクロヴィスが覗き込んだ。

「何も考えなくていいんですよ。彼らを見て何も思う事がないのが一番です」
「そうなの?」
「えぇ。下心しかない人間は貴女には不要です」

<< へぇ~? >>

何故か部屋にいた使用人全員がクロヴィスを細~い目で見た。
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