上 下
25 / 27
本編

18・湯殿最終決戦

しおりを挟む
ティグリスは体を洗うのが好きではない。
以前はそうでもなかったが、辺境での8年間で体が覚えてしまったのだ。
感覚が鈍るような気もするし、肌まで水や湯が浸透するまで時間がかかる。
時間と水の無駄。それがティグリスの湯あみに対する感覚である。


その上、人は環境に適応するかの如くティグリスは所謂「モフモフ」となった。
脱毛が主流の昨今、頭皮以外は不要とされるのに体毛が多い上に、濃い。
ティグリスは「おしゃれ」には興味がない。これは「防寒」と言い張るのだ。

髪の毛の色と同じなので全裸で光を浴びるとミラーボールほどではないが、キラキラと輝く。決して特異体質ではない。

どうぞと通された湯殿。
桶の湯を頭から被ってみるのだが・・・。

「うーん…水を弾くなぁ。面倒だからいいや」

そのまま湯船にザバンと浸かるとあっという間に湯の色が変わる。
布一枚隔てた向こう側にいる使用人達は顔色を失った。


「何?この臭い…誰か入浴剤を入れたの?」
「その前に!この水の色は何?どうして黒いの?!」
「きゃぁ!この水…何かいっぱい浮いてます!」

湯殿に充満する硫黄の香りならぬ「得も言われぬ香り」に咳き込む者が多発した。

雨と雪、そして川での行水がティグリスの「湯あみ」だったのだ。
王都に来る時は吹雪の中、突き進んで来たのでかなり濡れた。
ティグリス的には「湯あみ済」と同義でどこが汚れているか判らない。

どれほどに汚れているかは女官長クラスなら想定内。
若い頃は「度胸試し」として騎士団の使用する湯殿の掃除が女官最初の試練だった。それを乗り越えているからこそ、湯あみをする習慣は世界共通ではないと理解し文化や慣習の異なる国の来賓たちを「おもてなし」出来るのだ。


しかし今はそんな「試練」は行われていない。
若いメイドや侍女達は「本物の汚れ」を見た事がないので間違いなく想定の範囲外いや、斜め上、次元の違う現実を直視せねばならない。


「湯を入れ替えます。桶の用意を」
「ど、どうするのです?」
「濯ぐのです。ごっそり入れ替えていては時間の無駄。湯船へ桶に汲んだ湯をジャンジャン流し込みなさい」

女官長はチョイチョイと男性の使用人を手招きする。
女性使用人には、「ほどほど」に洗い上がるまでは目の毒いや、気の毒だからである。

「あの、お手伝い致しますが…」
「あなたは今、この布の向こうにいる生物の実態を知らないのです。想像してごらんなさい。今の状態は毛刈りが嫌いで逃げ回って10年の羊が捕まる直前にドブに落ちヘドロまみれと大差ないのです」
「うわ…汚い…」

「4,5回すすぎを繰り返せば、毛玉取りを忘れた野良の長毛猫くらいにはなるでしょう」
「そんなに?!」
「ですが、忘れてはなりません。それは毛玉ではなく体毛。そこからが勝負です。蓄積された埃、ゴミ、垢が湯にふけ剥がれやすくなっているので、今度は湯の色はそこそこなのに沈殿物、浮遊物が多くなります」

「うぅっ…女官長…想像しただけで気分が…ウェェッ」
「大丈夫。湯に浸して敵の体力を奪うのよ」
「はい…長い戦いになりそうですね」

部屋の中なのに使用人の心の中に寒風が吹き抜けていく。


「行くわよ!」女官長の号令に男性従者が仕切りの布を捲り上げる

バサッ!!!

「桶の湯を!早く湯船に!」

「うわっ!なんだ?なんだぁ??」

立ち上がったティグリスに男性使用人は息を飲んだ。
すぐさま女官長が一喝する。

「ティグリス殿下!隠す部分が異なりますッ!」

立ち上がったティグリスは鍛え上げた大胸筋の先端にある2つの双璧をそれぞれ手のひらで隠し、大事な部分は全開だった。

「隠す時はミ●のヴィーナス!空いた手で股間を防御!」
「え?いつから?聞いた事ねぇよ!」

しかし、問題が起きてしまった。

「女官長!水にへんなトロミが付いて排水できません!」
「クッ!トロミとは!そう攻めてきましたか。仕方ありません!不浄用ラバーカップを持って来なさい!」
「はいっ!!」

ティグリスは少しだけ嵩が減った水を足でバシャバシャする。

「ヌルヌルは入浴剤じゃないかったのか?」
「入浴剤?そんなものはこの段階で使えません!そのヌメリ、トロミは外皮を覆っていたもので御座います」

「そうなのか…てっきり入浴剤「藻の香り」が発売されたのかと思った」
「藻では御座いません。それは体毛の揺らぎで御座います!」

「あと、馬用ブラシがあるぞ?清掃係の忘れ物だ」
「それはティグリス殿下の体毛を解きほぐすためのマストアイテムです」
「そうなのか?なら使えば良かったな」
「今はダメです!余計に排水溝を詰まらせてしまいますッ」

布の向こう側で全く怯まない女官長の言葉に女性使用人であるメイドや侍女は涙ぐむ。
こんな一つ順番を間違うだけで大惨事になるような湯あみの手伝いは初めてだし、入浴中に濯ぐ事も、ラバーカップが必要な事も、馬用ブラシがマストアイテムとなる事も人生初経験である。

だが、足元にさざ波のように押して引く水を見た侍女が悲鳴をあげた。

「蚤っ!蚤がいるわ!」
「きゃぁぁぁ!!こっちには蜘蛛の足みたいなのがあるぅぅ」
「ギヤァァ!!」

「それは蜘蛛じゃねぇ!ゲジゲジだっ!」

バタバタと今度は何かが床に倒れるような音がする。
野山を駆けまわり適当に肩や胸元の埃をはたくだけのティグリス。
髪の毛などに絡みついたかつての昆虫の残骸は王都生まれ、王都育ちの女性使用人にはきつ過ぎた。


バシャバシャと男性使用人達に洗われていくティグリス。
女官長の号令が飛び交うそこは戦場だった。

「洗い」と「濯ぎ」が終わる。

この段階で動けるのは体力のある男性使用人の途中交代をした者である。

ここからアディショナルタイムに突入する。
ティグリスを拭きあげて着替えをさせるのだ。

頭をヘッドバンキングしたり、体をブルブルさせて水気を切るティグリスをじっとさせておくだけでもかなりの重労働である。

髭を剃り、無造作に伸びた髪も切り揃えるとちゃんと王族になるのが不思議である。


「王妃殿下、お待たせを致しました」

従者がティグリスを案内する。
エカテリニは従者たちの「やりきった感」に目を細め、賞与を出す事を決めた。


大騒動の「湯殿最終決戦」が終わると、女官長は部屋の隅に置かれた椅子に腰を下ろし燃え尽きた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

振られたから諦めるつもりだったのに…

しゃーりん
恋愛
伯爵令嬢ヴィッテは公爵令息ディートに告白して振られた。 自分の意に沿わない婚約を結ぶ前のダメ元での告白だった。 その後、相手しか得のない婚約を結ぶことになった。 一方、ディートは告白からヴィッテを目で追うようになって…   婚約を解消したいヴィッテとヴィッテが気になりだしたディートのお話です。

【完結】王女様がお好きなら、邪魔者のわたしは要らないですか?

曽根原ツタ
恋愛
「クラウス様、あなたのことがお嫌いなんですって」 エルヴィアナと婚約者クラウスの仲はうまくいっていない。 最近、王女が一緒にいるのをよく見かけるようになったと思えば、とあるパーティーで王女から婚約者の本音を告げ口され、別れを決意する。更に、彼女とクラウスは想い合っているとか。 (王女様がお好きなら、邪魔者のわたしは身を引くとしましょう。クラウス様) しかし。破局寸前で想定外の事件が起き、エルヴィアナのことが嫌いなはずの彼の態度が豹変して……? 小説家になろう様でも更新中

【完結】優しくて大好きな夫が私に隠していたこと

恋愛
陽も沈み始めた森の中。 獲物を追っていた寡黙な猟師ローランドは、奥地で偶然見つけた泉で“とんでもない者”と遭遇してしまう。 それは、裸で水浴びをする綺麗な女性だった。 何とかしてその女性を“お嫁さんにしたい”と思い立った彼は、ある行動に出るのだが――。 ※ ・当方気を付けておりますが、誤字脱字を発見されましたらご遠慮なくご指摘願います。 ・★が付く話には性的表現がございます。ご了承下さい。

【完結】強制力なんて怖くない!

櫻野くるみ
恋愛
公爵令嬢のエラリアは、十歳の時に唐突に前世の記憶を取り戻した。 どうやら自分は以前読んだ小説の、第三王子と結婚するも浮気され、妻の座を奪われた挙句、幽閉される「エラリア」に転生してしまったらしい。 そんな人生は真っ平だと、なんとか未来を変えようとするエラリアだが、物語の強制力が邪魔をして思うように行かず……? 強制力がエグい……と思っていたら、実は強制力では無かったお話。 短編です。 完結しました。 なんだか最後が長くなりましたが、楽しんでいただけたら嬉しいです。

【完結】選ばれなかった王女は、手紙を残して消えることにした。

曽根原ツタ
恋愛
「お姉様、私はヴィンス様と愛し合っているの。だから邪魔者は――消えてくれない?」 「分かったわ」 「えっ……」 男が生まれない王家の第一王女ノルティマは、次の女王になるべく全てを犠牲にして教育を受けていた。 毎日奴隷のように働かされた挙句、将来王配として彼女を支えるはずだった婚約者ヴィンスは──妹と想いあっていた。 裏切りを知ったノルティマは、手紙を残して王宮を去ることに。 何もかも諦めて、崖から湖に飛び降りたとき──救いの手を差し伸べる男が現れて……? ★小説家になろう様で先行更新中

ボロボロに傷ついた令嬢は初恋の彼の心に刻まれた

ミカン♬
恋愛
10歳の時に初恋のセルリアン王子を暗殺者から庇って傷ついたアリシアは、王家が責任を持ってセルリアンの婚約者とする約束であったが、幼馴染を溺愛するセルリアンは承知しなかった。 やがて婚約の話は消えてアリシアに残ったのは傷物令嬢という不名誉な二つ名だけだった。 ボロボロに傷ついていくアリシアを同情しつつ何も出来ないセルリアンは冷酷王子とよばれ、幼馴染のナターシャと婚約を果たすが互いに憂いを隠せないのであった。 一方、王家の陰謀に気づいたアリシアは密かに復讐を決心したのだった。 2024.01.05 あけおめです!後日談を追加しました。ヒマつぶしに読んで頂けると嬉しいです。 フワっと設定です。他サイトにも投稿中です。

【完結】冷酷眼鏡とウワサされる副騎士団長様が、一直線に溺愛してきますっ!

楠結衣
恋愛
触ると人の心の声が聞こえてしまう聖女リリアンは、冷酷と噂の副騎士団長のアルバート様に触ってしまう。 (リリアン嬢、かわいい……。耳も小さくて、かわいい。リリアン嬢の耳、舐めたら甘そうだな……いや寧ろ齧りたい……) 遠くで見かけるだけだったアルバート様の思わぬ声にリリアンは激しく動揺してしまう。きっと聞き間違えだったと結論付けた筈が、聖女の試験で必須な魔物についてアルバート様から勉強を教わることに──! (かわいい、好きです、愛してます) (誰にも見せたくない。執務室から出さなくてもいいですよね?) 二人きりの勉強会。アルバート様に触らないように気をつけているのに、リリアンのうっかりで毎回触れられてしまう。甘すぎる声にリリアンのドキドキが止まらない! ところが、ある日、リリアンはアルバート様の声にうっかり反応してしまう。 (まさか。もしかして、心の声が聞こえている?) リリアンの秘密を知ったアルバート様はどうなる? 二人の恋の結末はどうなっちゃうの?! 心の声が聞こえる聖女リリアンと変態あまあまな声がダダ漏れなアルバート様の、甘すぎるハッピーエンドラブストーリー。 ✳︎表紙イラストは、さらさらしるな。様の作品です。 ✳︎小説家になろうにも投稿しています♪

【完結】悪役令嬢の反撃の日々

アイアイ
恋愛
「ロゼリア、お茶会の準備はできていますか?」侍女のクラリスが部屋に入ってくる。 「ええ、ありがとう。今日も大勢の方々がいらっしゃるわね。」ロゼリアは微笑みながら答える。その微笑みは氷のように冷たく見えたが、心の中では別の計画を巡らせていた。 お茶会の席で、ロゼリアはいつものように優雅に振る舞い、貴族たちの陰口に耳を傾けた。その時、一人の男性が現れた。彼は王国の第一王子であり、ロゼリアの婚約者でもあるレオンハルトだった。 「ロゼリア、君の美しさは今日も輝いているね。」レオンハルトは優雅に頭を下げる。

処理中です...