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本編

15・イアニスの欲望

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「これをニキフォロスの元に」

差し出された書類には赤いインクが滲んでいた。
19歳となったニキフォロスはエカテリニとは肩を並べるまでに成長し執務をこなす。

背も伸びて、ヒールを履いたエカテリニでもニキフォロスの胸元までしか高さがない。ソフィアも小柄な体格の為ニキフォロスはその体躯に合わない歩幅でソフィアをエスコートする。
仲睦まじい若い2人はいつしか王都の民の「憧れ」にもなっていた。


「母上、いや王妃殿下。いつまで民衆との間に垣根を作るのです」


慣習となっていた市井視察が始まるとニキフォロスは開口一番に苦情を申し立てた。
周りが委縮するほどの警備兵に囲まれて何が視察だと息巻くニキフォロス。

視察に行く教会は「どんな要人の屋敷か」と思うくらいの兵士に囲まれて、その物々しい様を見るために野次馬が集まってくる。教会に預けられた孤児たちを見舞うつもりが、これでは見世物である。


「そうね。少し警護を見直してもいい時期かも知れないわ」

ニキフォロスの言葉に視察の際の警備の人員を三分の一に減らす。
数年の間は何の問題もなかった。

臣下もエカテリニに伺いを立てながらもニキフォロスの名も出す事を忘れない。

――そろそろ譲位について本気で考える頃合いかしら――

譲位をする前に立太子、そして成婚をさせねばならない。
面倒な決まりだが、この2つはエカテリニがどう足掻いても変わらなかった。
色々と改革はしたものの、古式に則った式事については手を入れるのをタブーとする者は年齢が若くても一定数いるものだ。派閥はあるものの表立った動きもなくなってきたのにまた事を荒立てても仕方がない。

辺境に行ったティグリスは頭角を現し、今では部隊を率いるまでになった。
19歳と言う年齢からすれば経験年数8年が異例でもあるが、担当した国境線での争いはテーブルの上で解決される事も多くなった。

ニキフォロスにはカシム公爵家のソフィア。
ティグリスにはチュリオス伯爵家のパスティーナ。
この組み合わせで良かったのだとエカテリニは退位の日に向けて引継ぎを加速させた。




☆~☆

「何を苛立っておられるのです」

夫人の声もどこへやら。カシム公爵家当主イアニスは爪を噛んだ。
この所、爪を噛み過ぎて噛める部分もない。

娘のソフィアは問題なくニキフォロスと来る日に向かって歩んでいる。
カシム公爵家も王妃の生家となり、何の問題もないはずだった。
イアニス以外は。

暢気に茶を飲む夫人を鼻であしらい、イアニスは執務室に戻った。

「どいつもこいつも。ぬくぬくとした現状に甘んじおって。有事の際に役に立つのは武力だと言う事を忘れているんだ。平和ボケもここに極まれり。なんと嘆かわしい事だッ!」

カシム公爵家の収益はここ数年、悪化を辿っていた。
主要な財源は広大な公爵領からの農産物ではあるが、カシム公爵家の屋台骨を支えている本当の財源は武器の輸出業。ニキフォロスが話し合いで何でも解決してしまい、隣国との折衝も飴と鞭を使い分けるためギリギリのところで握手の運びとなってしまう。

紛争の始まりそうな地域もティグリスが部隊を率いてきたとなれば、剣を交えることなく平和的に解決をしてしまう。

それまでエカテリニから一任されていた事業も手元に残るのはあと僅か。
国政に筆頭として携われなくなる事は、その成り行きから先を見て武器を他国に売っていたが買う国が無くなる事を示す。いや、あるにはある。軍部が実権を握った国には売ろうと思えば売れるが難癖をつけて他国への侵攻を考える国に輸出をしたとなれば、余程に立ち回らない限り足元をすくわれれば終わりだ。

何より軍部が実権を握った国は最初は良い顧客となるが2、3年で財政が悪化する。それを他国侵攻で何とかしようとするので余計に自分で自分の首を絞める結果となり、最後は自滅する。
うまい汁が吸える1,2年の為に冒険は出来ない。


財政悪化した家には国からの支援もあるが、まさか「戦争兵器を買ってくれる国が無くなるので困っている」とは言えず、イアニスは苛立ちを募らせていた。

コツコツと爪のない指先が執務机の天板にリズムを刻む。

「そうか!」

従者さえ遠ざけた執務室の中にイアニスの声が響いた。
閉じられた扉の廊下側、通りかかった洗濯物を抱えたメイドは小さく聞こえてくる感嘆の声に首を傾げた。


「今だって実質の国王は王妃なんだ。なんだ。簡単じゃないか。ソフィアにも同じように立ってもらえば…待てよ?そうなれば実質の国王は私になるんじゃないか?フハハ!ハハハ。なんでこんな事に気が付かなかったんだ」


だが、問題はあった。
幽閉でむくろも同然となったアレコスはカリスに傾倒した。
それこそ、バタバタと民衆が倒れて命を落としていく間、愛を実らせるためだけに生きていたといっても過言ではないほどに溺れていた。

ニキフォロスはソフィア以外の女性を女性として目に映さない。
どんなに着飾って煌びやかで肉感のある美女を差し向けても木偶を見るかのように興味を示さないのである。父親として娘だけに思いを注いでくれるのは有難い話だが、当主としては扱いにくい。

真っ直ぐに民を思う心は評価に値するが、イアニスには不出来にしか映らない。

出来れば傀儡となってくれれば。



ソフィアからカシム公爵の動きを知らされていたニキフォロスには隙がなかった。

「これはカシム公爵、如何なされた」

通されたニキフォロスの執務室で向かい合ってソファに腰を下ろした時だった。

「殿下、もう義父と呼んでください。何時までも堅苦しいのは無しにしましょう」

「いや、線引きは必要だ。妃の生家とは言え特段目をかける事をしていては何も変わらない。関係性は変わらずでもカシム公爵家は国の為に働いてくれるのは変わらないのですから。慣習を変えても変わらない関係を保てるのはカシム公爵だからこそです」

正論を吐かれては何も言えない。
それまでの妃の生家のように「お目こぼしを必要としている」など口が裂けても言えるものではない。幼い頃も何を考えているか判りにくい子だったが、まだ表情から伺い知れた。
しかし、成長したニキフォロスの表情や口調から真意はおし量れない。

時間が経てば経つほどに膨らんでいる赤字と武器の在庫。
イアニスは苛立ちを募らせ、その苛立ちを吐き出す先もなかったのである。


イアニスにとって不幸中の幸いだったのは、ニキフォロスがソフィアにだけは心を許していると言う事だった。

定期的な茶会に行くと言うソフィアの手土産の菓子をすり替えた。
ほんの僅か。1滴で熊も倒れる毒草の煮汁を混ぜ込んだ焼き菓子。
それをソフィアも口にするかも知れない。そうなれば愛娘も失うがイアニスはもう背に腹は代えられない所まで財政は追い詰められていた。

農作物の収益は税金と、翌年の作付け用の種苗や肥料代、そして農夫や使用人達の賃金、公爵家の運営で消えていく。見栄の張り合いでもある貴族の生活を支えていた収益は補填しようにも補填する費用も工面できなかった。

ソフィアが儚くなっても娘はまだいるし、何より目の上のたん瘤となったニキフォロスが消えれば、エカテリニも今まで通り自分を頼り、事業を任さざるを得なくなる。

――これは必要悪なのだ――

イアニスは自身を正当化して、茶会に向かうソフィアと侍女が乗った馬車を見送った。
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