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第07話   ◆来ない返事

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全く柔和な表情から裏が読めないユゴース侯爵。
パンジーはこうなれば懐に飛び込むしかないと諦めの心境だった。


「判りました。ではクレマン様にお伺いする事に致します」
「是非!!是非是非!では、早速ですが婚姻の届けを――」
「えっ?」


ビクッとカバンに手をやったユゴース侯爵が驚く。
いきなり婚姻届けと言われたパンジーも驚く。


「あの…せめてご本人と会ってから届けを出したほうがよろしいかと」
「いえいえ!こちらでしておく事は済ませておいた方が手間も省けますから。ほら、今ならルド子爵も御在宅ですし…荷物も纏めておられると言うことは暫くお留守にされるのでしょう?」

「いえ、此度このたびの件でユゴース侯爵家様にはご迷惑をかけます。責任を取り私は家を出るつもりです。この時期になり次期当主を交代など・・・恥ずかしい限りです」

「へぇ当主を?こちらは全然。こう言っては何ですが・・・当家の事業でも関りが御座いませんし…。パンジーさんが嫁いで下さるならもう万々歳ですけどね?」

「万々歳?」

「えぇっと‥‥それだけ歓迎します!と言うことです。書類は当主同士で済みますので・・・ちょっと失礼を」

――この気安さ・・・侮れないわ――


気にし過ぎなパンジー。
だが、無事に婚姻が成立し、パンジーは難題に直面する事になった。
持参金はジュベル男爵家からの金をユゴース侯爵は要らないと言ったが受け取って貰った。
額の大小があるだろうが気持ちの問題。だが問題は金の事ではなかった。



ユゴース侯爵家では至れり尽くせりでむず痒いくらいなのだが、肝心の夫であるクレマンが帰宅しない。

名目上でも書面上でも妻は妻。

パンジーはユゴース侯爵を手伝い、侯爵家の執務も精力的に熟した。
夫がいない分、妻がそれを補うのは当然だし何もせずに穀潰しになるのもパンジーには我慢が出来なかった。

パンジーがユゴース侯爵家に来て不思議な事が起きた。

「掃除が楽しいんですぅ~」

心なしか当初、くすんで見えた室内は掃除をする度にピカピカになって行く。使用人がそれまで手を抜いていたわけでもないし、掃除用の道具や洗剤を変えたわけでもない。

「今日の煮つけはなかなかに旨い!」
「えぇ、スープも素材の味がしっかり感じられるわ」

調理人が変わった訳でも、食材の仕入れ先が変わったわけでもない。
しかし、日々の食事の「味」が感じられるようになったのは侯爵夫妻だけでなく使用人も同じ。

3、4カ月もするとユゴース侯爵家にいる誰一人、肌にトラブルを抱える者はいなくなったし、お通じも快適になりお腹を下げ気味だった男性陣、月のものの時は起き上がるにも一苦労の女性陣。全員の体調も頗る良くなった。

1年が経つ頃、流感が王都に蔓延をしたが、り患した者はゼロ。

洗濯係や水仕事をする者は手荒れ、あかぎれがセットのようなものだが、水仕事をすればするほど「ハンド・タレント」並みの美しい手になって行く。

侯爵夫人が冗談半分に洗い物をしてみると、夜、クリームをたっぷり塗ってミトンでカバーして寝るよりもきめの細かい手になった。




しかし、何もかも良い事尽くめではなかった。

ユゴース侯爵も侯爵夫人もクレマンには何度も何度も手紙を出すがなしつぶて

兵士以外おいそれと現地に行く事も出来ない前線が配置された場。
危険度は夜道の野盗遭遇よりも高く、そもそもで規制線が張られて付近の住民も住処を失っていると聞く。

パンジーは手紙だけだから届かないのかも知れないと考えた。
転々と移動する前線。手紙を出してもそこにクレマンがいない場合もあるし、薄い封筒なので紛失若しくは伝令兵そのものが野営地に辿り着けていない不幸な事態も考えられる。

クレマンも多様な情報が手元に舞い込むので私信を後回しにしているのかも知れない。


――生きていれば荷物を受け取ることは出来るかも――

荷物であればそれなりの大きさがあり、シャツなど交換する物であれば開封してくれると考えた。

クレマンの為に布を買って来て、使用人にクレマンのサイズを聞くと手ずからシャツを仕立てる。出来上がった後には水通し。手洗いで丁寧に洗うと火熨斗ひのしをあてて皺を伸ばし、コンパクトにたたんだ。

靴下や下着なども丁寧に手洗いをするとしっかりと干し、シャツと一緒に手紙を添えて送った。

【ご武運をお祈り申し上げます。家に連絡を】文章も短く纏めて同封したのだが、1カ月経っても3カ月経っても、半年、1年経ってもクレマンから返事が来る事は無かった。

それでも荷物は最低月に2、3回送り続けて2年目。
数にして70を超えた。
ユゴース侯爵夫妻の出した手紙を合わせれば120回以上の連絡である。


「もしかすると、もう死んでいるのかも知れないわ」

あまりにも連絡が来ない事にユゴース侯爵夫人は弱音を吐いた。
クレマンは26歳。
軍での立場も上から数えて片手の指で足りる。
現場の戦意喪失を恐れて指揮官などの死亡は伏せられる事がある。


パンジーも送った荷物は帰ってこない事から本人に届いていると思いたいが、一言の返事も無い事に「もしや」と思い始めていた頃、戦が終わったと知らせがありクレマンも生きている事が知らされた。

そこでプチッと何かがキレてしまった。

――ひとっことも連絡を寄越せないほどの場なの?――

聞けば王城への連絡文書はクレマンも送っていたと言うではないか。


確かに今回の事はアランとカトレアが悪いし、ルド子爵家に瑕疵がある。公的な書類と私信を一緒にするわけではないが、たった1行の文章すら送って来ないだなんて有り得ない!

クレマンの腹立ちも判らぬではない。しかし、だからと言って2年間も存在を無視する事にパンジーの気持ちもキレてしまった。

――もういいや――

パンジーは「パンジー」という名を使うのをこれで最後と決めて離縁書をしたためた。

パンジーと言う名は嫌いではなかったけれど、考えてみれば良い事も無かったからである。

テーブルの上に【もう返事は要りません】と短い私信を添えた離縁書を置いた。

そろそろ使用人も起きようかというまだ一番鶏が鳴く前。
小さなトランク1つを手にユゴース侯爵家を出たのだった。
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