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しおりを挟む言葉が途切れ、刹那の静寂が訪れると、隣室の賑やかな気配がここにも微かに伝わってくる。
船のエンジンと波のぶつかる音、様々な聞き慣れない音が、不意にここが地上ではないことを強く意識させた。
「李様が本気でしたら……、私では抵抗しても逃げられないでしょうね」
「今ここでどのように振る舞うべきか、よく理解しているようだな」
尊大な言葉に、ましろは内心密かに口角を上げる。
李が本気になれば、力では敵わないことは明白だ。
仮にこの場を脱したとしても、ここは船上で、助けが来るまで逃げ切れるとは思えなかった。
「でも……今この一時は李様の思う通りになっても、月華は自分の庇護している人間の意志が尊重されなかったことを、決して赦さないと思います」
月華にとって李との関係がどれほど利益に繋がるものであっても、月華の『家族』に定義する者を蹂躙したとあれば、切り捨てることを躊躇いはしないだろう。
李が、今この一時だけでもましろを自分のものにできれば残りの人生がどうなっても悔いはない、というような倒錯的な覚悟を決めているのであればどうしようもないが、そうでないのならば、戯れに手を伸ばすことは、誰にとってもあまりよくない結末になる。
月華にはあまり残酷なことはして欲しくないし、李が酷い目に逢うところも見たくはないので、できれば何事もない方が嬉しい。
それらの想いを込めてじっと見上げていると、ややあって李は表情を和らげ身を起こし、ましろを解放した。
「少しくらい慌てるかと思ったが、流石に冷静だな」
困った客をあしらうくらいはお手のものか、との呟きには、曖昧な笑顔を返す。
お手の物どころか、客からこんな風に迫られたのは初めてだ。
客の私的な誘いに応じたことがない……というのもあるが、そもそも誰かから想いや欲望をぶつけられたこと自体がほとんどない。
ただ一人、天王寺を除いて。
天王寺はいつも何かしらの強い感情をぶつけてきて、ましろはそれを受け止めるのに精一杯だ。
李には余裕があり、触れ方も最小限で、本気ではないと感じたからこそ、彼の言う通り『冷静に』対応できたのだと思う。
そろそろディナーが始まる、と差し出されたその手を取った。
ソファから立ち上がると、李は軽い服の乱れを直してくれる。
嫌ではなかったので「ありがとうございます」と素直に礼を言うと、李は何やらニヤリと悪い表情になった。
「『今はそんな気になれない』、ということは、今後そういう気持ちになる可能性もあるということだな」
「え……それは、確かに、そういうこともあるかもしれませんが……」
「ならば、つれない猫に愛想をつかしたとき、一番目に思い出してもらえるよう、精々これからも努力をするとしよう」
「李様……」
そういう可能性もゼロとは言い切れない、という意味だったのだが、少々違うニュアンスで伝わってしまったような気がする。
ましろが落ち込んでいた理由が猫ではないということもばれてしまっているし、恐らくわざと拡大解釈をしているのだろう。
計算づくのやりとりに、この人には敵わないなと苦笑を返した。
李が先に立ってドアを開けてくれたので部屋を出ると、ボディガードらしき男二人がぎくりと身を強張らせた。
なんだろう、と不思議に思うと、壁のような彼らの間からひょっこりと見知った小柄な人物が顔を出して驚く。
「木凪?」
ふわりと(恐らくウィッグの)ツインテールを揺らし、何故かメイド服を着て女性の格好をしているが、なんの感情も映さないこの世のものならざる美貌は、八重崎木凪その人だ。
彼もここに招かれていたのだろうか?
もちろん、『SHAKE THE FAKE』の会員、つまり月華と何らかの関わりがある人物と、その下で働く八重崎が知り合いなのは特におかしいことではない。
けれど、だとしたらこの偽装は……?
「ご奉仕メイドの八重子……です……。特技は……ちゃんと絞れてない雑巾で廊下を水浸しにすること……」
ひゅう……
謎の自己紹介に、船内に吹くはずのない冷たい風が吹き抜けていくのを、ましろは感じた。
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