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6 蜂谷クリニック院長 蜂谷康三《はちやこうぞう》の話

20.蜂谷クリニック院長 蜂谷康三《はちやこうぞう》の話 ③

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 妻は生真面目な性格でね。
 ぼくが不倫をしたと知ったときも、烈火のごとく怒ったものさ。
 当然の話で、それについてはぼくが全面的に悪いんだが……。

 しかし、ぼくだって辛かったんだ。
 もともと蜂谷クリニックは妻の父、つまりぼくの義父が開業した病院でね。
 ぼくは、義父と同じ大学の医学部を卒業していて、いわば先輩後輩だったんだが、その関係で妻と見合い結婚をした。そして婿養子になったんだ。そうすることで、医者としての将来が切り開けると確信して、必死に行動したんだな。だけれどね……。

 婿養子は辛いよ。
 なにをするにも、義父と義母。
 だけでなく、妻の顔色を窺わないといけない。

 その上、妻とは決して性格的な相性がよくなかった。
 結婚して半年で、夫婦関係は破綻寸前となったんだ。
 妻との間に一男一女を設けたあとは、これでノルマ達成とばかりに、妻とは家庭内別居。夫婦関係さえなくなってしまってね。そんなときに、淳子と出会ったわけだが……。

 とにかくその妻が、事務室にやってきた。
 いつまでもクリニックから帰ってこないことを訝しんで、隣接した自宅からやってきたんだろう。
 別にぼくのことを心配しているわけじゃない。馬鹿な夫が、クリニックの女性看護士あたりと不倫でもしてやいないかと、見張りに来ただけなのさ。

 そこで妻は、華子を目にした。
 ぼくは仕方なく、事情を妻に説明した。
 すると妻は、こめかみをひくつかせながら、

「そんな子供を、うちでかばうことなんか、ひとつもないわ。早く警察を呼んで、任せたらいいじゃない!」

「そんなこと言うなよ。華子はぼくの娘なんだから」

「わたしにとってはアカの他人よ。あなたが警察を呼べないなら、わたしがするわ。いえ、こういうときは児童相談所のほうがいいのかしら? そうよ。そのほうが、その子のためでもあるわ。そうなのよ」

「待てというのに!」

 ぼくと妻のやり取りを、華子は呆然と眺めていた。
 先ほどまでの悲しみは、もう顔に浮かべていない。
 ただ、能面のように無感情な表情だった。

 けっきょく。
 ぼくは淳子の家に電話をした。

「華子がいま、うちに来ているんだけど、これからそっちに返すから」

 ぼくはタクシーで、華子が住んでいるアパートまで送ってやることにした。
 それには、うちの妻もついてきた。ぼくが淳子や華子に連れていかれるんじゃないかと、警戒していたんだろう。

 やがて、華子の家に到着する。
 芯まで冷えるような風が吹いていた。
 確か、十一月だったかな。もうあたりは夜だった。

 暗闇の中、しびれるような冷たさ。
 アパートの周りには人気もなかった。

 別れてから、初めて淳子の家にやってきたぼくは驚いたよ。
 こんなところに暮らしているのか。アパートは古いし、周りには自動販売機さえない。なんて侘しいところなんだ、とね。

「華子ちゃん」

 アパートの前には、淳子が待っていた。
 ぼくと妻は、タクシーから降りた。
 二人揃って、淳子とは目も合わせなかったよ。

「華子。降りなさい」

 ぼくはそう言ったが、華子はタクシーの後部座席に座ったまま、車を降りようとしなかった。
 ひざの上に、両手の拳をぎゅっと固めてね。
 なにも言わず、ただうつむいていた。

「あの、申し訳ありません。華子が、こんなことになって」

 淳子が、ぼくの妻に向かって謝罪したが、妻は無言のままだった。
 ぼくは後部座席の華子へと近付いてね。お母さんのところへ行きなさいと行って、華子の手をつかんだ。

 華子は抵抗しなかった。
 今度はすんなりと、タクシーを降りたんだ。
 なぜかって? それが分からない。観念したのかもしれない。

 ぼくとしても、華子に対してあまりにも申し訳なかったから、最後にそっと、千円札を華子のスカートのポケット内に忍ばせてやってね。

「淳子には内緒だよ。これでなにか、美味しいものでも食べなさい」

「お父さん。家に来てください」

 か細い声で、華子がそう言ったのをはっきりと覚えている。
 だが、ぼくは首を振った。

「それはできない」

「なんで」

「できないんだ」

 華子は、ただ立ち尽くしていた。
 そこへ淳子がやってきて、なんのかんのと叫びながら、華子を抱きしめていた。
 どんな言葉だっただろうか。もう忘れてしまったよ。僕の脳には、華子との別れだけが記憶として残っている。

「帰るよ」

 妻にうながされ、ぼくは再びタクシーに乗った。
 淳子がまた、なにか言った気がする。だけれどぼくには聞こえなかった。

 タクシーは再び走り出した。
 妻は助手席。ぼくは後部座席に。
 蜂谷クリニックに戻るまでの間、妻はただ無言を貫いていたよ。

 それから、蜂谷家はまた平常運転さ。
 ぼくは蜂谷クリニックの仕事を続け、妻は家事と育児に専念する。
 やがて月日は流れ、長男は地元の私大の医学部に。長女は東京の大学に進学し、都市銀行に就職した。傍目から見れば、さぞ立派な一家に見えるだろう。

 その間、

「華子がまた来るかもしれない」

 という思いは、ずっと持っていた。
 華子を淳子のアパートに戻したあと、一ヶ月、二ヶ月。
 いや半年から一年の間は、そのことを考え続けていた。

 だが華子は来なかった。
 翌年になり、さらに翌年になり。
 やがて十年が経っても、華子はやって来なかったんだ。

 華子が、蜂谷クリニックにまたやってきたのは、七歳のあの日からじつに十五年後。
 彼女が二十二歳になったときだった。

「二見華子です。お父さんはいますか」

 診療時間中のクリニックに、そう言って登場したんだ。

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