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第十一話 十月二十八日――彼女だけは信用できる
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やがて救急車がやってきた。
高千穂翠が「すぐ近くに自分も知っている整形外科があります」と言うので、僕はその病院に搬送された。骨折はしておらず、足をくじいただけで、数日間安静にしていれば治ると診断された。
怪我そのものは大したことはなかった。けれども問題は、僕を襲撃してきたあの人物だ。おそらくXと思われる人間に僕が殺されかけたと知った両親は、さすがに仰天し、揃って会社を早退すると整形外科に駆けつけてくれた。
その後、三十分もすると、稲田刑事と警察の人がどやどやと病院にやってきたので、僕らは病院の一室に移動した。稲田刑事は襲撃されたときのことを細かく尋ねてきた。僕と高千穂翠は事態を説明し、断言はできないが犯人はXだと思う、と告げた。
稲田刑事はその言葉を聞いて、
「これまで学校の中だけで事件を起こしてきたXが、ついに外に出てきたのか」
と、うつむきながら言った。
「僕も同じ気持ちです。なんて言うか、Xは学校だけで人を殺すイメージだったんですが」
「勝手な思い込みだったね。しかし、Xが君のような生徒を狙うとは。こういってはなんだが、Xというのはもっとこう、派手な人物を狙う人間だと考えていたが」
「僕もそうです」
さっきと同じような言葉を口にした。
そう、Xは、永谷先生にしろ猿田にしろ、目立つ人間。なんというのか、リア充寄りとでも表現するべきか、学校の中でも勝ち組系の人間を狙っているような印象があったのだ。
僕はどうだ? 生徒会長ではあるが、これまでの被害者とはまったく毛色が異なる、と自負している。特に会長職に就く前は、校内にろくに友達もいない純然たる陰キャだったというのに。
「朝の演説のせいかな。演説の中に、Xをひどく刺激するところがあったとか。それとも、あれで会長がみんなから拍手をされたのが羨ましかったとか」
高千穂翠はそう言ったが、
「そんなので妬まれたら、さすがにたまらないぜ。もっとなにか別に理由があるだろう、きっと」
とはいえ、その理由は皆目見当もつかなかったが。
「しかしXめ、町中で人を襲ったのが運の尽きだな。Xの様子は町中の防犯カメラに写っているはずだ。必ず捕まえてみせる。任せておけ」
「稲田さん。警察っていま、Xをどこまで追い詰めているんですか? Xを捕まえることはできそうなんですか?」
「悪いが、それを教えるわけにはいかないんだ。ただ、警察は君たちの味方だ。これだけは覚えておいてくれ」
稲田刑事はそう言って片目をつぶったが、本当に動いてくれているんだろうか。警察はXの人物像も把握できていなかったじゃないか。襲われた直後ということもあって、僕は不安でたまらなかった。
警察は学生に情報を教えてくれない。もっともなことだが、学校の関係者にして被害者となった僕には、少しくらいなにかを教えてほしいとも思う。
「警察に全力で頑張ってもらうしかないね。それにしても京。あなた、翠ちゃんが追いかけてきてくれてよかったね。昔から運動が得意だったもんね」
ふいに母親がそう言った。
翠ちゃんって誰だと一瞬思ってしまったが、そうだ、副会長、そう高千穂翠のことだった。保育園から一緒だったんだから、うちの母親が高千穂翠を知っているのは当然だよな。
「京と翠ちゃんが一緒にいるのを見るのは久しぶりだな。保育園のときは運動会を二人三脚で走って、一等賞になったもんだったよ。いや、翠ちゃん、本当にありがとう。お父さんとお母さんはまだ仕事かな。とにかくよろしく伝えておいてくれ」
突如、父親から飛び出てきた幼馴染エピソード。
(覚えてる?)
(そんなわけないでしょ)
僕と高千穂翠はお互いに目線を交わして、テレパシーみたいな意思疎通をしたあと、本人たちでさえ忘れていた大昔の話で盛り上がる七原家の両親を冷たい目で眺めたものだったが、それはそれとして、僕は高千穂翠に感謝していたのだ。
助けてくれて、本当にありがとう、と。
それから、僕はしばらく自宅で過ごすことになった。
足の怪我もあるし、そもそも外があまりに危ないので、両親から当分、登校しないようにと命令されたからでもある。
もっともな話なので、学校側も、しばらく欠席したほうがいいと言ったようだ。
出席日数が足りなくなっても考慮します。冬休みに補習をすれば大丈夫でしょう、と延岡先生は言ったらしいが、僕はついにXのせいで冬休みを失うことになりそうだ。
――冬休みくらいで済んでよかったよな。
襲撃翌日の昼下がり、僕はぼんやりとそう思った。
改めて、怖くなってきたのだ。昨日、僕はもしかしたら死んでいたかもしれない。背筋がぞっとした。Xが僕を狙っている。カッターでずたずたに背中を切り裂かれた永谷先生のように、濡れティッシュと粘着テープで鼻と口を防がれ、呼吸が出来なくなり死んでしまった猿田のように。
「やめろ……」
思わず独りごちていた。
身体が小刻みに震えていた。
それでも襲撃の翌日と翌々日はよかった。翌日は母親と父親が、翌々日は母親が、会社を休んで家にいてくれた。
しかし、いつまでも休んでいられないということで、襲撃から三日後、両親はついに会社に出かけてしまった。
こうなると、恐怖が訪れた。家のどこかにXが潜んでいるかもしれない。あるいは僕の自宅をXが見張っているかもしれない。僕の家は高千穂翠と違って、一戸建てなのだ。二階建て、3LDK、ごく普通の一軒家。
それだけに恐ろしかった。裏手のガラスをぶち破って、Xが来るかもしれない。宅配便を装って、Xが来るかもしれない。二階の窓を音もなく割って、Xが侵入してくるかもしれない。
がたがたっ。
「ひっ!」
情けないことに声が出てしまった。
今日はなぜだか、風が強い一日だった。
窓がよく揺れる。屋根がよく軋む。僕は音の世界にXの幻想を見いだして、ひとり、頭を抱えて震えていた。ちくしょう、ちくしょう、僕がどうしてこんな目に。Xはいったい、僕になんの恨みがあるんだ!
足を怪我しているだけに、恐怖はいっそう高まった。
いま襲われても、僕は戦うことも逃げることもできない。
五体満足でないだけで、世界はこんなにも恐怖で満ちるのか。
誰も信用できない。そんな感覚に陥った。
外に出たらXが迫ってくる。知り合いのふりをして襲ってくる。
そうだ、生徒の誰かがXなのだ。ウグ先輩かもしれない、佐久間君かもしれない、下村かもしれない、陰山さんかもしれない、里村かもしれない、兎原さんかもしれない、延岡先生かも校長先生かも教頭先生かもしれない。複数犯かもしれない。学校に行ったら、何人もの黒ずくめが僕を襲ってくるかもしれない。たくさんのXが……!
ぴん、ぽーん。
「うっ!?」
家のドアホンが鳴った。
誰だ。両親が帰ってくるにはまだ早い。誰が来たんだ。まさか、Xが――
そう思ってドアホンのモニターを覗き込むと、そこに映っていたのは高千穂翠だった。
「ふ、副会長?」
ボタンを押して応答すると、
「あ、いた。良かった。さっきからずっとDMとかラインとか送っているんだけれど、出てこないから、どうしたのかと思って」
DMやライン?
そうか、さっきからスマホを見ていなかったから気付かなかった。
「開けてくれる? いちおう、お見舞いも兼ねているんだけど」
いつもの淡々とした口調。
だがそれが、いまはたまらなく頼もしく、ありがたい。
そうだ。
彼女だけは信用できる。
高千穂翠だけは。襲われた僕を助けてくれた副会長だけは、絶対に信用できるのだ。
僕は玄関に向かった。
ドアを開ける。すると、ブレザー姿の高千穂翠が立っていて、
「お邪魔します」
ぺこりと頭を下げて、家の中へと入ってきたのである。
高千穂翠をリビングに通す。散らかっていなくてよかった。閉め切っていたカーテンを開きながら「荷物、そのへんに置いて。座ってくれ」と言って「なにか飲む?」と尋ねた。「お構いなく」と答えながら、高千穂翠はソファに腰かけた。
「あまり昔と変わっていないね。テレビの横にブルーレイレコーダーがあるのも、昔からじゃない?」
「え、ああ。確かにうちのレコーダーは古くて、もう十年くらいそこにあるけれど、副会長、なんで知ってるの?」
「十年くらい前に、来たことあるから。小学一年生のときに、会長の誕生日パーティーで、友達と一緒に」
「そうだっけ。……」
「どうせ、忘れていたんだよね。薄情者」
「いや、悪い」
「いいよ。わたしが昔のことを覚えすぎているだけだから。本当、過去を覚えすぎているって欠点だよ。自分でも嫌になる。……ごめん、お見舞いだったね。会長、コーヒーの粉を買ってきたんだけど、どう? 良かったら淹れるけれど、コーヒーフィルター、ある?」
「あるよ。レンジの横に――案内する。……副会長、コーヒー、淹れられるの?」
「わたしだって別に嫌いじゃないからね。でも、わたしは砂糖を入れる派だけど」
「ああ、これは価値観の相違」
「バンドだったら解散ね。……ありがとう、じゃあ淹れるから。ソファに座ってて」
言われて、僕はひょこひょことぎこちなく足を引きずりながら、言われた通り、ソファに腰かけた。
ふと横を見ると、高千穂翠が無言でケトルに水を入れ、コーヒーカップとフィルターを用意しているのが分かった。変な気持ちだ。彼女が僕の家にいて、コーヒーを淹れてくれている。
窓の外に目をやると、庭に金木犀の花が咲いていた。母親はこの花の香りが大好きで、秋になるとよく庭に出て、夜空を見上げながら深呼吸を繰り返している。
「どうぞ」
高千穂翠がコーヒーを持ってきて、サイドテーブルの上に置いてくれた。
「ありがとう。いただきます」
僕はコーヒーの香りを存分に楽しみながら、カップに口をつけて、ゆっくりと味わった。隣に座った高千穂翠も、同じようにコーヒーを飲んでいる。風が吹いて、金木犀の花が揺れた。もう、音に恐怖は感じなかった。
「お見舞い、誰かに言われてきたの? 先輩とか先生とか」
「ううん。わたしが決めて来たこと。会長、絶対に疲れているだろうと思ったから」
「優しいんだな、副会長」
「わたしがしてほしかったことだから。バスケで足を怪我したあと、誰もお見舞いになんか来てくれなかったけれど、本当は来て欲しかった。誰かに優しくしてほしかった。だからいま、会長のお見舞いをしようって思った」
「こんなにしてくれたのに、高一のときは副会長のことに気が付かなくて、ごめん」
「また謝る。それはもういいって。当時はそんなに仲良くしていなかったんだから、仕方ないよ。……コーヒー、飲んで。冷めると美味しくなくなるから」
「うん。……」
僕はまた、カップに口をつけた。
「美味しい」
「そう。良かった」
高千穂翠が隣にいる。高千穂翠が淹れてくれたコーヒーがある。コーヒーが、たまらなく美味しい。
それだけなのに不思議だ。勇気が湧いてきた。Xへの恐怖に屈しそうだった自分の中に、決して負けてなるものかという、希望の気持ちが、闘争心が、無限大に心の底から湧き上がってくるのだ。僕はあんな殺人犯に負けない。絶対にだ。
高千穂翠の淹れてくれたブラックコーヒーを見つめる。これまでに飲んだどんなコーヒーよりも素敵な味だった。頭のもやが晴れていく。
事件について振り返った。これまでに気が付かなかったなにかがあるはずだ。僕も、警察さえも、見逃していたようななにかが。どんなに小さな綻びでもいい。事件について、新たに気が付くなにかがないか。なにか、なにか、なにか。――僕は無言のまま、高千穂翠が淹れてくれたコーヒーをまたひとすすりして、カップに目を落とし、揺れている黒い水面を眺めていると、
「待て」
「え。どうしたの?」
「待ってくれ。いま、僕は――」
ごく小さな疑問が生じた。
事件と関わりがあるのかどうかも分からない、だがどうしても気になる、ごくごく小さな謎。僕の取り越し苦労ならばいい。だが、そうでないならば――
僕は急いでスマホを操作した。
何度も何度も指を動かして、
「……やっぱりそうか」
「どうしたの、会長」
「副会長。僕はいまから学校に行く。一緒に来てくれないかな。確かめたいことがあるんだ」
「いまから? 足は大丈夫なの?」
「学校まではタクシーを使うよ。その後は、まあ少しくらいなら歩けるから。大丈夫、階段を上ったりはしない。……頼むよ。副会長が側にいると、安心できるんだ」
本心だった。
Xに襲撃されたとき、助けてくれた高千穂翠。
お見舞いに来てくれた、こんなにも美味しいコーヒーを淹れてくれた高千穂翠。
彼女だけは信頼できる。高千穂翠に、一緒にいてほしい。いてくれるだけで、安心できるんだ。
僕の言葉は、どうやら高千穂翠の心の中に、なにか強烈な感動を産みだしたらしい。
彼女は珍しく、興奮したように頬を紅潮させながら、しっかりと、大きくうなずいてくれた。
「じゃあ、行こう。いまから急いで制服に着替えるから、ちょっと待っててくれ。……ああ、それともうひとつ、いまのうちに連絡をしておいてくれないかな」
「連絡。誰に?」
僕は自分の部屋に向かいながら、言った。
「ウグ先輩――鵜久森有栖先輩にだ。他のひとには決して声をかけないで。鵜久森先輩にだけ声をかけてほしい。可能なら、いや忙しくても、できればすぐに、安曇学園の一階に来てほしい、と――」
高千穂翠が「すぐ近くに自分も知っている整形外科があります」と言うので、僕はその病院に搬送された。骨折はしておらず、足をくじいただけで、数日間安静にしていれば治ると診断された。
怪我そのものは大したことはなかった。けれども問題は、僕を襲撃してきたあの人物だ。おそらくXと思われる人間に僕が殺されかけたと知った両親は、さすがに仰天し、揃って会社を早退すると整形外科に駆けつけてくれた。
その後、三十分もすると、稲田刑事と警察の人がどやどやと病院にやってきたので、僕らは病院の一室に移動した。稲田刑事は襲撃されたときのことを細かく尋ねてきた。僕と高千穂翠は事態を説明し、断言はできないが犯人はXだと思う、と告げた。
稲田刑事はその言葉を聞いて、
「これまで学校の中だけで事件を起こしてきたXが、ついに外に出てきたのか」
と、うつむきながら言った。
「僕も同じ気持ちです。なんて言うか、Xは学校だけで人を殺すイメージだったんですが」
「勝手な思い込みだったね。しかし、Xが君のような生徒を狙うとは。こういってはなんだが、Xというのはもっとこう、派手な人物を狙う人間だと考えていたが」
「僕もそうです」
さっきと同じような言葉を口にした。
そう、Xは、永谷先生にしろ猿田にしろ、目立つ人間。なんというのか、リア充寄りとでも表現するべきか、学校の中でも勝ち組系の人間を狙っているような印象があったのだ。
僕はどうだ? 生徒会長ではあるが、これまでの被害者とはまったく毛色が異なる、と自負している。特に会長職に就く前は、校内にろくに友達もいない純然たる陰キャだったというのに。
「朝の演説のせいかな。演説の中に、Xをひどく刺激するところがあったとか。それとも、あれで会長がみんなから拍手をされたのが羨ましかったとか」
高千穂翠はそう言ったが、
「そんなので妬まれたら、さすがにたまらないぜ。もっとなにか別に理由があるだろう、きっと」
とはいえ、その理由は皆目見当もつかなかったが。
「しかしXめ、町中で人を襲ったのが運の尽きだな。Xの様子は町中の防犯カメラに写っているはずだ。必ず捕まえてみせる。任せておけ」
「稲田さん。警察っていま、Xをどこまで追い詰めているんですか? Xを捕まえることはできそうなんですか?」
「悪いが、それを教えるわけにはいかないんだ。ただ、警察は君たちの味方だ。これだけは覚えておいてくれ」
稲田刑事はそう言って片目をつぶったが、本当に動いてくれているんだろうか。警察はXの人物像も把握できていなかったじゃないか。襲われた直後ということもあって、僕は不安でたまらなかった。
警察は学生に情報を教えてくれない。もっともなことだが、学校の関係者にして被害者となった僕には、少しくらいなにかを教えてほしいとも思う。
「警察に全力で頑張ってもらうしかないね。それにしても京。あなた、翠ちゃんが追いかけてきてくれてよかったね。昔から運動が得意だったもんね」
ふいに母親がそう言った。
翠ちゃんって誰だと一瞬思ってしまったが、そうだ、副会長、そう高千穂翠のことだった。保育園から一緒だったんだから、うちの母親が高千穂翠を知っているのは当然だよな。
「京と翠ちゃんが一緒にいるのを見るのは久しぶりだな。保育園のときは運動会を二人三脚で走って、一等賞になったもんだったよ。いや、翠ちゃん、本当にありがとう。お父さんとお母さんはまだ仕事かな。とにかくよろしく伝えておいてくれ」
突如、父親から飛び出てきた幼馴染エピソード。
(覚えてる?)
(そんなわけないでしょ)
僕と高千穂翠はお互いに目線を交わして、テレパシーみたいな意思疎通をしたあと、本人たちでさえ忘れていた大昔の話で盛り上がる七原家の両親を冷たい目で眺めたものだったが、それはそれとして、僕は高千穂翠に感謝していたのだ。
助けてくれて、本当にありがとう、と。
それから、僕はしばらく自宅で過ごすことになった。
足の怪我もあるし、そもそも外があまりに危ないので、両親から当分、登校しないようにと命令されたからでもある。
もっともな話なので、学校側も、しばらく欠席したほうがいいと言ったようだ。
出席日数が足りなくなっても考慮します。冬休みに補習をすれば大丈夫でしょう、と延岡先生は言ったらしいが、僕はついにXのせいで冬休みを失うことになりそうだ。
――冬休みくらいで済んでよかったよな。
襲撃翌日の昼下がり、僕はぼんやりとそう思った。
改めて、怖くなってきたのだ。昨日、僕はもしかしたら死んでいたかもしれない。背筋がぞっとした。Xが僕を狙っている。カッターでずたずたに背中を切り裂かれた永谷先生のように、濡れティッシュと粘着テープで鼻と口を防がれ、呼吸が出来なくなり死んでしまった猿田のように。
「やめろ……」
思わず独りごちていた。
身体が小刻みに震えていた。
それでも襲撃の翌日と翌々日はよかった。翌日は母親と父親が、翌々日は母親が、会社を休んで家にいてくれた。
しかし、いつまでも休んでいられないということで、襲撃から三日後、両親はついに会社に出かけてしまった。
こうなると、恐怖が訪れた。家のどこかにXが潜んでいるかもしれない。あるいは僕の自宅をXが見張っているかもしれない。僕の家は高千穂翠と違って、一戸建てなのだ。二階建て、3LDK、ごく普通の一軒家。
それだけに恐ろしかった。裏手のガラスをぶち破って、Xが来るかもしれない。宅配便を装って、Xが来るかもしれない。二階の窓を音もなく割って、Xが侵入してくるかもしれない。
がたがたっ。
「ひっ!」
情けないことに声が出てしまった。
今日はなぜだか、風が強い一日だった。
窓がよく揺れる。屋根がよく軋む。僕は音の世界にXの幻想を見いだして、ひとり、頭を抱えて震えていた。ちくしょう、ちくしょう、僕がどうしてこんな目に。Xはいったい、僕になんの恨みがあるんだ!
足を怪我しているだけに、恐怖はいっそう高まった。
いま襲われても、僕は戦うことも逃げることもできない。
五体満足でないだけで、世界はこんなにも恐怖で満ちるのか。
誰も信用できない。そんな感覚に陥った。
外に出たらXが迫ってくる。知り合いのふりをして襲ってくる。
そうだ、生徒の誰かがXなのだ。ウグ先輩かもしれない、佐久間君かもしれない、下村かもしれない、陰山さんかもしれない、里村かもしれない、兎原さんかもしれない、延岡先生かも校長先生かも教頭先生かもしれない。複数犯かもしれない。学校に行ったら、何人もの黒ずくめが僕を襲ってくるかもしれない。たくさんのXが……!
ぴん、ぽーん。
「うっ!?」
家のドアホンが鳴った。
誰だ。両親が帰ってくるにはまだ早い。誰が来たんだ。まさか、Xが――
そう思ってドアホンのモニターを覗き込むと、そこに映っていたのは高千穂翠だった。
「ふ、副会長?」
ボタンを押して応答すると、
「あ、いた。良かった。さっきからずっとDMとかラインとか送っているんだけれど、出てこないから、どうしたのかと思って」
DMやライン?
そうか、さっきからスマホを見ていなかったから気付かなかった。
「開けてくれる? いちおう、お見舞いも兼ねているんだけど」
いつもの淡々とした口調。
だがそれが、いまはたまらなく頼もしく、ありがたい。
そうだ。
彼女だけは信用できる。
高千穂翠だけは。襲われた僕を助けてくれた副会長だけは、絶対に信用できるのだ。
僕は玄関に向かった。
ドアを開ける。すると、ブレザー姿の高千穂翠が立っていて、
「お邪魔します」
ぺこりと頭を下げて、家の中へと入ってきたのである。
高千穂翠をリビングに通す。散らかっていなくてよかった。閉め切っていたカーテンを開きながら「荷物、そのへんに置いて。座ってくれ」と言って「なにか飲む?」と尋ねた。「お構いなく」と答えながら、高千穂翠はソファに腰かけた。
「あまり昔と変わっていないね。テレビの横にブルーレイレコーダーがあるのも、昔からじゃない?」
「え、ああ。確かにうちのレコーダーは古くて、もう十年くらいそこにあるけれど、副会長、なんで知ってるの?」
「十年くらい前に、来たことあるから。小学一年生のときに、会長の誕生日パーティーで、友達と一緒に」
「そうだっけ。……」
「どうせ、忘れていたんだよね。薄情者」
「いや、悪い」
「いいよ。わたしが昔のことを覚えすぎているだけだから。本当、過去を覚えすぎているって欠点だよ。自分でも嫌になる。……ごめん、お見舞いだったね。会長、コーヒーの粉を買ってきたんだけど、どう? 良かったら淹れるけれど、コーヒーフィルター、ある?」
「あるよ。レンジの横に――案内する。……副会長、コーヒー、淹れられるの?」
「わたしだって別に嫌いじゃないからね。でも、わたしは砂糖を入れる派だけど」
「ああ、これは価値観の相違」
「バンドだったら解散ね。……ありがとう、じゃあ淹れるから。ソファに座ってて」
言われて、僕はひょこひょことぎこちなく足を引きずりながら、言われた通り、ソファに腰かけた。
ふと横を見ると、高千穂翠が無言でケトルに水を入れ、コーヒーカップとフィルターを用意しているのが分かった。変な気持ちだ。彼女が僕の家にいて、コーヒーを淹れてくれている。
窓の外に目をやると、庭に金木犀の花が咲いていた。母親はこの花の香りが大好きで、秋になるとよく庭に出て、夜空を見上げながら深呼吸を繰り返している。
「どうぞ」
高千穂翠がコーヒーを持ってきて、サイドテーブルの上に置いてくれた。
「ありがとう。いただきます」
僕はコーヒーの香りを存分に楽しみながら、カップに口をつけて、ゆっくりと味わった。隣に座った高千穂翠も、同じようにコーヒーを飲んでいる。風が吹いて、金木犀の花が揺れた。もう、音に恐怖は感じなかった。
「お見舞い、誰かに言われてきたの? 先輩とか先生とか」
「ううん。わたしが決めて来たこと。会長、絶対に疲れているだろうと思ったから」
「優しいんだな、副会長」
「わたしがしてほしかったことだから。バスケで足を怪我したあと、誰もお見舞いになんか来てくれなかったけれど、本当は来て欲しかった。誰かに優しくしてほしかった。だからいま、会長のお見舞いをしようって思った」
「こんなにしてくれたのに、高一のときは副会長のことに気が付かなくて、ごめん」
「また謝る。それはもういいって。当時はそんなに仲良くしていなかったんだから、仕方ないよ。……コーヒー、飲んで。冷めると美味しくなくなるから」
「うん。……」
僕はまた、カップに口をつけた。
「美味しい」
「そう。良かった」
高千穂翠が隣にいる。高千穂翠が淹れてくれたコーヒーがある。コーヒーが、たまらなく美味しい。
それだけなのに不思議だ。勇気が湧いてきた。Xへの恐怖に屈しそうだった自分の中に、決して負けてなるものかという、希望の気持ちが、闘争心が、無限大に心の底から湧き上がってくるのだ。僕はあんな殺人犯に負けない。絶対にだ。
高千穂翠の淹れてくれたブラックコーヒーを見つめる。これまでに飲んだどんなコーヒーよりも素敵な味だった。頭のもやが晴れていく。
事件について振り返った。これまでに気が付かなかったなにかがあるはずだ。僕も、警察さえも、見逃していたようななにかが。どんなに小さな綻びでもいい。事件について、新たに気が付くなにかがないか。なにか、なにか、なにか。――僕は無言のまま、高千穂翠が淹れてくれたコーヒーをまたひとすすりして、カップに目を落とし、揺れている黒い水面を眺めていると、
「待て」
「え。どうしたの?」
「待ってくれ。いま、僕は――」
ごく小さな疑問が生じた。
事件と関わりがあるのかどうかも分からない、だがどうしても気になる、ごくごく小さな謎。僕の取り越し苦労ならばいい。だが、そうでないならば――
僕は急いでスマホを操作した。
何度も何度も指を動かして、
「……やっぱりそうか」
「どうしたの、会長」
「副会長。僕はいまから学校に行く。一緒に来てくれないかな。確かめたいことがあるんだ」
「いまから? 足は大丈夫なの?」
「学校まではタクシーを使うよ。その後は、まあ少しくらいなら歩けるから。大丈夫、階段を上ったりはしない。……頼むよ。副会長が側にいると、安心できるんだ」
本心だった。
Xに襲撃されたとき、助けてくれた高千穂翠。
お見舞いに来てくれた、こんなにも美味しいコーヒーを淹れてくれた高千穂翠。
彼女だけは信頼できる。高千穂翠に、一緒にいてほしい。いてくれるだけで、安心できるんだ。
僕の言葉は、どうやら高千穂翠の心の中に、なにか強烈な感動を産みだしたらしい。
彼女は珍しく、興奮したように頬を紅潮させながら、しっかりと、大きくうなずいてくれた。
「じゃあ、行こう。いまから急いで制服に着替えるから、ちょっと待っててくれ。……ああ、それともうひとつ、いまのうちに連絡をしておいてくれないかな」
「連絡。誰に?」
僕は自分の部屋に向かいながら、言った。
「ウグ先輩――鵜久森有栖先輩にだ。他のひとには決して声をかけないで。鵜久森先輩にだけ声をかけてほしい。可能なら、いや忙しくても、できればすぐに、安曇学園の一階に来てほしい、と――」
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