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おいで。早く、おいで…。

第102話 ラッカと悪夢

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 透明な壁の向こう、彼が私を見つめる。
 それが私の思い出せる、最も古い記憶だった。

 その前は分からない。
 外の世界にいた様な気もするが、ずっとこの場所にいた様な気もする。

 この頃の私は、まだ記憶も曖昧あいまいで、考えて何かをするという事も、少なかったように思う。

 唯々、与えられる餌を食べ、寝て、たまに彼の実験に付き合わされる。
 実験の内容は、迷路の先にある餌をとったり、正しいボタンを押して餌を貰ったり、迫ってくる壁から逃げるようなものもあった気がする。

 まぁ当時の私は、何も考えずに、生きる為だけに、行動していたにすぎないので、実験に付き合っていたつもりは無いのだが…。

 そんな日々を繰り返していくうちに、記憶がはっきりとし始め、同じような実験内容には、簡単に対処できるようになってくる。
 彼の独り言も覚えられるようになり、それらを頭の中で組み合わせると、色々な事が分かってきた。

 まず、私に与えられている食物が”餌”と呼ばれるもので、”魔力”とやらを含んでいる事。
 その”魔力”が、私の記憶の保持能力に影響を与えている事。
 そして、私は彼の実験とやらに付き合わされているという事だった。

 実験の結果から、私の頭は日増しに良くなっているらしい。
 なんでも、実験による刺激と、魔力の影響が私の脳を変化させている。との事だった。

 魔力は変化の誘発剤ゆうはつざいで、少量ずつ、身のたけに合った濃度で取り込んでいけば、周りの状況に合わせて、体を進化させてくれる物らしい。

 ここで私が生き残るには、数多あまたの実験を潜り抜けなければならなかった。
 逆を言えば、それだけで済み、肉体的、野性的な変化にエネルギーを割く必要がない。
 その為、私の知能はこれだけ早く発達し、彼の言葉の意味を察すことができる段階にまで、至ったのだ。

 そして、知能が発達した私は色々な事を考えたり、思ったりすることが多くなってきた。

 例えば、彼を観察して、外に広がる世界を観察して…。
 そして、私の住んでいるこの狭い空間をかえりみる。

 何もない、四角い空間。
 何もせずとも餌が与えられて、安心して眠れる空間。
 …私は飽きてしまったのだ。

 飽きる。
 今までにはない感情だった。

 感情と言えば、危ない、眠い、食べたい。
 生きるのに必要な事だけを、刹那に感じていただけだった。

 さて、どうやってここを出るか。
 私はすんなりと、住みやすい環境を切り捨てる。
 死ぬよりも、ここに居続ける事の方が、余程よほど、苦痛に思えたからだ。

 私は、頭の良さをひけらかせば、実験が難しいものになると分かっていた。
 難しい事をしても、報酬が同じなんて割に合わない。
 そう感じていた私は、最近、頭の悪い振りを続けていたのである。

 そのせいもあってか、今の彼は私を甘く見ている。
 実験の最中、その隙を見て、私は逃げ出した。

 彼は追ってくるが、ここは汚い部屋の中。
 私は散らかった物の隙間を通って、彼の手から逃れる。

 生きやすい空間に、後悔はなかった。
 あそこはもう、私にとっての楽園ではなくなってしまったのだから。

 …嘘だ。
 あの空間は今でも魅力的だ。
 安全な空間、飢えに苦しむ事もなく、寒さに震える事もない、まがう事なき楽園。

 環境が変わったわけではない。私が変わったのだ。
 退屈と言うものを覚えてしまったのだ。

 そうなっては、もう後には引き返せない。
 私は不安に身をこわばらせ、新しい世界へと足を踏み入れた。

 全てが初めてに満たされた空間。
 不安と恐怖。そしてちょっぴりの好奇心。
 それらは私の退屈を満たして埋めた。

 見た事の無い物、見た事もない生き物。
 特に、物や頭を一杯に使い、獲物を狩るのは楽しかった。

 達成感と言われるもは、これ程に気持ちが良い物なのかと、初めて知った。
 確かに、その時、この屋根裏部屋は私の楽園になったのだ。

 この建物の外には彼と同じ生物がわらわらとしているので、出る事は出来ないが…。
 それでも私は十分だった。
 十分幸せだった。
 そう、エボニが現れるまでは…。

 エボニのせいで、私はまた変わってしまった。
 知る事は怖い。満足できていた世界を壊してしまうから。

 壊されたらまた探しに行かなければならない。
 探しに行く?
 獲物を食べなくても良い世界を?
 それは詰まり、死ぬという事だろうか?

 嫌だ。
 何故かは分からないが、それだけは嫌なのだ。

 怖い。
 初めの楽園を飛び出した時以上に怖いのだ。

「…大丈夫か?」
 悪夢から覚めた私の目の前には、エボニがいた。

 距離を保ちつつも、心配そうにこちらを見つめている。
 その程度の距離で私から逃げきれると思っているのだろうか?

 …それに足が震えている。
 怖いなら逃げれば良いものを…。

 私は無言で頭を上げる。
 彼を食べる為だ。

 そうすれば、私は全てを割り切って、他の獲物を食らう事ができるようになる。
 死なずに済むのだ。

 私はゆっくりと彼に近づく。
 彼は、逃げ腰だが、私の目を見たまま、その場にとどまり続けた。

 地獄になった楽園で生き続ける。
 それがそれだけ苦しい事なのか。
 私は知りたくもないそれを、考えてしまう。

 もう彼は目の前だ。
 後は一呑みにするだけ…。

 私は口を開く。
 それでも彼は逃げ出さなかった。

 だから私は…。

「少々、飲みすぎただけだ…。心配するな」
 私には、まだ、地獄を知る勇気はなかった。

 彼は、私の返答に安堵の息をつくと、その場にへたり込んでしまった。
 どれだけ意地っ張りなんだ。エボニは。

「フッ」
 情けない姿のエボニをあざけるように笑う。

 すると、彼は「な、なんだよ!こっちが心配してやったのに!」と顔を赤くして文句を言ってきた。

 彼と話している時間。
 それは確かに私にとっての楽園だ。

 本当は話していたい。
 もっと、お互いの話をしたい。
 …できれば悩みを聞いて欲しい。
 …しかし。

「仕方ない。その勇気にめんじて、今日の所は見逃してやろう」
 私はそう言うと、彼をおいて、暗闇に潜る。
 心はまだ彼を求めていた。

 ぐぅ~。
 そして、また、腹の虫も、彼の事を求めているようだった。
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