2 / 12
〈1〉
しおりを挟む
ああ、目がまわる。目を閉じているのに目がまわる。
皮膚の感覚が妙に鈍くて、酔っぱらってうたた寝してしまったときの感じに似ている。でも酒なんて飲んでないはずだ。ひょっとしてこれが、噂に聞く金縛りというやつなのだろうか、指一本動かせないのに意識ははっきりしている。金縛りの対処法、何かで読んだ気がするんだけど思い出せない。しかし金縛りなのだとすると、やっぱりぼくは眠っていたということだ。そして酔っ払ってもいないのに眠っていたということは、自宅で就寝していたということだろう。それなら時計の音がするはずと耳をすませてみた。ところが聞こえて来たのは聞き慣れた秒針の音ではなく、人の声だった。ひどく聞きとりづらいが、何か叫んでる? いや、どうやらぼくを呼んでいる。そう認識したとたんにバチン! と頬に痛烈な一撃が見舞われた。
「モヘジ、起きろモヘジ! いつまで寝ていやがる」
唐突にすべてが明瞭になった。明るい灯火のもと、ぼくを見おろす顔がある。それはどう見てもぼく自身で。
「誰? え……か、鏡?」
ぼんやりと口走った数秒後、今度はガツン! と頭突きを食らった。ふたたび気を失うかと思うほどの衝撃。痛い。ものすごく痛い。
「寝ぼけてんじゃねえ、っかやろうが」
ぼくを見おろし、ぼくに頭突きを食らわせたぼくが、ぼくの意に反してしゃべった。平凡ながらも温厚な性格と地味な顔が取り柄のぼくとは思えない、怒りにつり上がった目、いきなりの暴力、おまけに罵倒の途中で舌打ちまで入れるという、難易度高い芸当をさりげなく披露する。間違いない、これはぼくじゃない。というか、ぼくがここにいるんだから、もう一人ぼくがいるのはおかしいわけで。
「何が、誰? だ、てめえの顔もわかんねえのか」
「ううむ、もしや記憶に部分的な欠落があるのではないだろうね」
腕組みをして、ぼくの肩を蹴るというか踏みつける(ガラの悪い)ぼくを押しのけて、今度は白衣を着た大柄な中年男性が、のっそりと視界に割って入ってきた。爆発したような頭髪は真っ白だが、色つやのよい丸顔は老人というほどではなく、せいぜいが五十代前半である。
「しかしもしそうなると、この天才科学者・麻土冴人をもってしても再構築は不可能だよ。なにせ電子の海は広大だ! ……微妙に古いネタだな。いっそもっと思い切って、そう、たとえば……科学はバクハツだ!……うむ。うむうむ、悪くない」
自称天才科学者は、もうぼくのことなど眼中にないようだった。
えーと。ぼくはこの人を知っている。認めたくないが、この自称天才科学者・麻土冴人はぼくの身内だ。母方の叔父だ。
いまだ事態はのみこめないものの目眩はすっかり治まっていた。身体にある痛みは額とほっぺたと肩だけで、これは原因がわかってるから心配なし。それに痛さが身体に馴染んで心地良い……っていやいや、なんだか微妙にアブナイ発言になってしまった。そうじゃなくてええと、痛さで身体が馴染んでいく、ような? なんだろう、この感覚。
「ヘンな感じがするのは最初だけだ。身体動かしてりゃ、すぐ慣れる」
ぼくのソックリさんが、ぼくの内心を見透かすように言って煙草をくわえた。ところが何やら不器用な手つきで、しかも苦労して火をつけた途端に激しくむせ返った。ぼくは煙草を嗜まない。だから煙草の銘柄なんかほとんど知らない。でもあの白と緑のパッケージにだけは馴染みがある。何度買いにやらされたことか。
「くっそ不味ぃ! モヘジ、このへたれ! ガタイは立派なくせして煙草も喫えねえのか」
まさか。
皮膚感覚の鈍さやら、四肢の違和感やら、細かいことなど吹っ飛んだ。重心が定まらず力の入らない身体をむりやりに起こす。
「つきやせ……!」
まさかまさかと思いつつ、勇気をふりしぼって呼びかけた自分自身の声に驚いてのどが引きつった。聞き覚えはあった。でもぼくの声ではない。
ぼくはぼくの意思に従って動いている一対の手をおそるおそる見た。細い手首、薄い手のひら、絆創膏だらけの指、深爪気味に剪んだ爪。違う。この手も、ぼくの手ではない。
なんだこれ。
床に寝かされていたので、見おろす手の向こうには自分の足があった。買った覚えのない靴とジーンズをはいている。そして俯いた目に落ちかかる髪の色は明るくて、明るすぎて……ほとんど金髪だ!
ぼくはすがるような思いで辺りを見まわした。安っぽいアルミのパーティションが広い部屋を二分していて、その向こうを隠している。壁際にはワークテーブルと、合皮の古ぼけた椅子が二脚並び、部屋の中央には、どっかと居座る工具台のような大きな机。それらすべては謎の機器類に占領されており、床は機械と機械を繋ぐコードだらけで足の踏み場もない。
そこは叔父の住まう古い洋館の居間という、ぼくにとってはよく知る場所だった。だが丸椅子が横倒しになっていたり、前述のパーティションが派手にへこんで焼け焦げていたりと、いつもより物騒な散らかり方で、不安はますます深まるばかりだ。それでいて何ら決定的な物を見い出せず、ぼくの目は部屋の西側に切られた窓へと行きついた。カーテンは引かれていない。夜闇が荒れ放題の庭を隠している。その暗がりと室内の明るさの狭間に、ぼくと月野先輩がいた。如何にもふてぶてしさ全開で鼻から煙を吐き出すぼくを、窓越しに見る月野先輩の美貌は蒼白で……。
位置がおかしい。
ぼくはおそるおそる両手で自分の顔にさわった。窓の中で先輩が不安げにみずからの頬に手をやる。
なんなんだ、これ?
「理解したか……って、モヘジこのばか野郎。いちいちひっくり返るんじゃねえ!」
ぼくが怒鳴っている。いや怒鳴っているのはぼくじゃないぼくだ。ぼくはぼくじゃなくなっていた。ぼくが先輩で、じゃあ先輩は? ああ、だめだ。また、気が……とおく、なって…………。
皮膚の感覚が妙に鈍くて、酔っぱらってうたた寝してしまったときの感じに似ている。でも酒なんて飲んでないはずだ。ひょっとしてこれが、噂に聞く金縛りというやつなのだろうか、指一本動かせないのに意識ははっきりしている。金縛りの対処法、何かで読んだ気がするんだけど思い出せない。しかし金縛りなのだとすると、やっぱりぼくは眠っていたということだ。そして酔っ払ってもいないのに眠っていたということは、自宅で就寝していたということだろう。それなら時計の音がするはずと耳をすませてみた。ところが聞こえて来たのは聞き慣れた秒針の音ではなく、人の声だった。ひどく聞きとりづらいが、何か叫んでる? いや、どうやらぼくを呼んでいる。そう認識したとたんにバチン! と頬に痛烈な一撃が見舞われた。
「モヘジ、起きろモヘジ! いつまで寝ていやがる」
唐突にすべてが明瞭になった。明るい灯火のもと、ぼくを見おろす顔がある。それはどう見てもぼく自身で。
「誰? え……か、鏡?」
ぼんやりと口走った数秒後、今度はガツン! と頭突きを食らった。ふたたび気を失うかと思うほどの衝撃。痛い。ものすごく痛い。
「寝ぼけてんじゃねえ、っかやろうが」
ぼくを見おろし、ぼくに頭突きを食らわせたぼくが、ぼくの意に反してしゃべった。平凡ながらも温厚な性格と地味な顔が取り柄のぼくとは思えない、怒りにつり上がった目、いきなりの暴力、おまけに罵倒の途中で舌打ちまで入れるという、難易度高い芸当をさりげなく披露する。間違いない、これはぼくじゃない。というか、ぼくがここにいるんだから、もう一人ぼくがいるのはおかしいわけで。
「何が、誰? だ、てめえの顔もわかんねえのか」
「ううむ、もしや記憶に部分的な欠落があるのではないだろうね」
腕組みをして、ぼくの肩を蹴るというか踏みつける(ガラの悪い)ぼくを押しのけて、今度は白衣を着た大柄な中年男性が、のっそりと視界に割って入ってきた。爆発したような頭髪は真っ白だが、色つやのよい丸顔は老人というほどではなく、せいぜいが五十代前半である。
「しかしもしそうなると、この天才科学者・麻土冴人をもってしても再構築は不可能だよ。なにせ電子の海は広大だ! ……微妙に古いネタだな。いっそもっと思い切って、そう、たとえば……科学はバクハツだ!……うむ。うむうむ、悪くない」
自称天才科学者は、もうぼくのことなど眼中にないようだった。
えーと。ぼくはこの人を知っている。認めたくないが、この自称天才科学者・麻土冴人はぼくの身内だ。母方の叔父だ。
いまだ事態はのみこめないものの目眩はすっかり治まっていた。身体にある痛みは額とほっぺたと肩だけで、これは原因がわかってるから心配なし。それに痛さが身体に馴染んで心地良い……っていやいや、なんだか微妙にアブナイ発言になってしまった。そうじゃなくてええと、痛さで身体が馴染んでいく、ような? なんだろう、この感覚。
「ヘンな感じがするのは最初だけだ。身体動かしてりゃ、すぐ慣れる」
ぼくのソックリさんが、ぼくの内心を見透かすように言って煙草をくわえた。ところが何やら不器用な手つきで、しかも苦労して火をつけた途端に激しくむせ返った。ぼくは煙草を嗜まない。だから煙草の銘柄なんかほとんど知らない。でもあの白と緑のパッケージにだけは馴染みがある。何度買いにやらされたことか。
「くっそ不味ぃ! モヘジ、このへたれ! ガタイは立派なくせして煙草も喫えねえのか」
まさか。
皮膚感覚の鈍さやら、四肢の違和感やら、細かいことなど吹っ飛んだ。重心が定まらず力の入らない身体をむりやりに起こす。
「つきやせ……!」
まさかまさかと思いつつ、勇気をふりしぼって呼びかけた自分自身の声に驚いてのどが引きつった。聞き覚えはあった。でもぼくの声ではない。
ぼくはぼくの意思に従って動いている一対の手をおそるおそる見た。細い手首、薄い手のひら、絆創膏だらけの指、深爪気味に剪んだ爪。違う。この手も、ぼくの手ではない。
なんだこれ。
床に寝かされていたので、見おろす手の向こうには自分の足があった。買った覚えのない靴とジーンズをはいている。そして俯いた目に落ちかかる髪の色は明るくて、明るすぎて……ほとんど金髪だ!
ぼくはすがるような思いで辺りを見まわした。安っぽいアルミのパーティションが広い部屋を二分していて、その向こうを隠している。壁際にはワークテーブルと、合皮の古ぼけた椅子が二脚並び、部屋の中央には、どっかと居座る工具台のような大きな机。それらすべては謎の機器類に占領されており、床は機械と機械を繋ぐコードだらけで足の踏み場もない。
そこは叔父の住まう古い洋館の居間という、ぼくにとってはよく知る場所だった。だが丸椅子が横倒しになっていたり、前述のパーティションが派手にへこんで焼け焦げていたりと、いつもより物騒な散らかり方で、不安はますます深まるばかりだ。それでいて何ら決定的な物を見い出せず、ぼくの目は部屋の西側に切られた窓へと行きついた。カーテンは引かれていない。夜闇が荒れ放題の庭を隠している。その暗がりと室内の明るさの狭間に、ぼくと月野先輩がいた。如何にもふてぶてしさ全開で鼻から煙を吐き出すぼくを、窓越しに見る月野先輩の美貌は蒼白で……。
位置がおかしい。
ぼくはおそるおそる両手で自分の顔にさわった。窓の中で先輩が不安げにみずからの頬に手をやる。
なんなんだ、これ?
「理解したか……って、モヘジこのばか野郎。いちいちひっくり返るんじゃねえ!」
ぼくが怒鳴っている。いや怒鳴っているのはぼくじゃないぼくだ。ぼくはぼくじゃなくなっていた。ぼくが先輩で、じゃあ先輩は? ああ、だめだ。また、気が……とおく、なって…………。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
君が好き過ぎてレイプした
眠りん
BL
ぼくは大柄で力は強いけれど、かなりの小心者です。好きな人に告白なんて絶対出来ません。
放課後の教室で……ぼくの好きな湊也君が一人、席に座って眠っていました。
これはチャンスです。
目隠しをして、体を押え付ければ小柄な湊也君は抵抗出来ません。
どうせ恋人同士になんてなれません。
この先の長い人生、君の隣にいられないのなら、たった一度少しの時間でいい。君とセックスがしたいのです。
それで君への恋心は忘れます。
でも、翌日湊也君がぼくを呼び出しました。犯人がぼくだとバレてしまったのでしょうか?
不安に思いましたが、そんな事はありませんでした。
「犯人が誰か分からないんだ。ねぇ、柚月。しばらく俺と一緒にいて。俺の事守ってよ」
ぼくはガタイが良いだけで弱い人間です。小心者だし、人を守るなんて出来ません。
その時、湊也君が衝撃発言をしました。
「柚月の事……本当はずっと好きだったから」
なんと告白されたのです。
ぼくと湊也君は両思いだったのです。
このままレイプ事件の事はなかった事にしたいと思います。
※誤字脱字があったらすみません
ハッピーエンド
藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。
レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。
ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。
それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。
※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。
キミの次に愛してる
Motoki
BL
社会人×高校生。
たった1人の家族である姉の由美を亡くした浩次は、姉の結婚相手、裕文と同居を続けている。
裕文の世話になり続ける事に遠慮する浩次は、大学受験を諦めて就職しようとするが……。
姉への愛と義兄への想いに悩む、ちょっぴり切ないほのぼのBL。
薬師は語る、その・・・
香野ジャスミン
BL
微かに香る薬草の匂い、息が乱れ、体の奥が熱くなる。人は死が近づくとこのようになるのだと、頭のどこかで理解しそのまま、身体の力は抜け、もう、なにもできなくなっていました。
目を閉じ、かすかに聞こえる兄の声、母の声、
そして多くの民の怒号。
最後に映るものが美しいものであったなら、最後に聞こえるものが、心を動かす音ならば・・・
私の人生は幸せだったのかもしれません。※「ムーンライトノベルズ」で公開中
キミと2回目の恋をしよう
なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。
彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。
彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。
「どこかに旅行だったの?」
傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。
彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。
彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが…
彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる