三途の川で逢いましょう

鰐屋雛菊

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 ああ、目がまわる。目を閉じているのに目がまわる。
 皮膚の感覚が妙に鈍くて、酔っぱらってうたた寝してしまったときの感じに似ている。でも酒なんて飲んでないはずだ。ひょっとしてこれが、噂に聞く金縛りというやつなのだろうか、指一本動かせないのに意識ははっきりしている。金縛りの対処法、何かで読んだ気がするんだけど思い出せない。しかし金縛りなのだとすると、やっぱりぼくは眠っていたということだ。そして酔っ払ってもいないのに眠っていたということは、自宅で就寝していたということだろう。それなら時計の音がするはずと耳をすませてみた。ところが聞こえて来たのは聞き慣れた秒針の音ではなく、人の声だった。ひどく聞きとりづらいが、何か叫んでる? いや、どうやらぼくを呼んでいる。そう認識したとたんにバチン! と頬に痛烈な一撃が見舞われた。
「モヘジ、起きろモヘジ! いつまで寝ていやがる」
 唐突にすべてが明瞭になった。明るい灯火のもと、ぼくを見おろす顔がある。それはどう見てもぼく自身で。
「誰? え……か、鏡?」
 ぼんやりと口走った数秒後、今度はガツン! と頭突きを食らった。ふたたび気を失うかと思うほどの衝撃。痛い。ものすごく痛い。
「寝ぼけてんじゃねえ、っかやろうが」
 ぼくを見おろし、ぼくに頭突きを食らわせたぼくが、ぼくの意に反してしゃべった。平凡ながらも温厚な性格と地味な顔が取り柄のぼくとは思えない、怒りにつり上がった目、いきなりの暴力、おまけに罵倒の途中で舌打ちまで入れるという、難易度高い芸当をさりげなく披露する。間違いない、これはぼくじゃない。というか、ぼくがここにいるんだから、もう一人ぼくがいるのはおかしいわけで。
「何が、誰? だ、てめえの顔もわかんねえのか」
「ううむ、もしや記憶に部分的な欠落があるのではないだろうね」
 腕組みをして、ぼくの肩を蹴るというか踏みつける(ガラの悪い)ぼくを押しのけて、今度は白衣を着た大柄な中年男性が、のっそりと視界に割って入ってきた。爆発したような頭髪は真っ白だが、色つやのよい丸顔は老人というほどではなく、せいぜいが五十代前半である。
「しかしもしそうなると、この天才科学者・麻土冴人をもってしても再構築は不可能だよ。なにせ電子の海ネットは広大だ! ……微妙に古いネタだな。いっそもっと思い切って、そう、たとえば……科学はバクハツだ!……うむ。うむうむ、悪くない」
 自称天才科学者は、もうぼくのことなど眼中にないようだった。
 えーと。ぼくはこの人を知っている。認めたくないが、この自称天才科学者・麻土冴人はぼくの身内だ。母方の叔父だ。
 いまだ事態はのみこめないものの目眩はすっかり治まっていた。身体にある痛みは額とほっぺたと肩だけで、これは原因がわかってるから心配なし。それに痛さが身体に馴染んで心地良い……っていやいや、なんだか微妙にアブナイ発言になってしまった。そうじゃなくてええと、痛さで身体が馴染んでいく、ような? なんだろう、この感覚。
「ヘンな感じがするのは最初だけだ。身体動かしてりゃ、すぐ慣れる」
 ぼくのソックリさんが、ぼくの内心を見透かすように言って煙草をくわえた。ところが何やら不器用な手つきで、しかも苦労して火をつけた途端に激しくむせ返った。ぼくは煙草を嗜まない。だから煙草の銘柄なんかほとんど知らない。でもあの白と緑のパッケージにだけは馴染みがある。何度買いにやらされたことか。
「くっそ不味ぃ! モヘジ、このへたれ! ガタイは立派なくせして煙草も喫えねえのか」
 まさか。
 皮膚感覚の鈍さやら、四肢の違和感やら、細かいことなど吹っ飛んだ。重心が定まらず力の入らない身体をむりやりに起こす。
「つきやせ……!」
 まさかまさかと思いつつ、勇気をふりしぼって呼びかけた自分自身の声に驚いてのどが引きつった。聞き覚えはあった。でもぼくの声ではない。
 ぼくはぼくの意思に従って動いている一対の手をおそるおそる見た。細い手首、薄い手のひら、絆創膏だらけの指、深爪気味に剪んだ爪。違う。この手も、ぼくの手ではない。
 なんだこれ。
 床に寝かされていたので、見おろす手の向こうには自分の足があった。買った覚えのない靴とジーンズをはいている。そして俯いた目に落ちかかる髪の色は明るくて、明るすぎて……ほとんど金髪だ!
 ぼくはすがるような思いで辺りを見まわした。安っぽいアルミのパーティションが広い部屋を二分していて、その向こうを隠している。壁際にはワークテーブルと、合皮の古ぼけた椅子が二脚並び、部屋の中央には、どっかと居座る工具台のような大きな机。それらすべては謎の機器類に占領されており、床は機械と機械を繋ぐコードだらけで足の踏み場もない。
 そこは叔父の住まう古い洋館の居間という、ぼくにとってはよく知る場所だった。だが丸椅子が横倒しになっていたり、前述のパーティションが派手にへこんで焼け焦げていたりと、いつもより物騒な散らかり方で、不安はますます深まるばかりだ。それでいて何ら決定的な物を見い出せず、ぼくの目は部屋の西側に切られた窓へと行きついた。カーテンは引かれていない。夜闇が荒れ放題の庭を隠している。その暗がりと室内の明るさの狭間に、ぼくと月野先輩がいた。如何にもふてぶてしさ全開で鼻から煙を吐き出すぼくを、窓越しに見る月野先輩の美貌は蒼白で……。
 位置がおかしい。
 ぼくはおそるおそる両手で自分の顔にさわった。窓の中で先輩が不安げにみずからの頬に手をやる。
 なんなんだ、これ?
「理解したか……って、モヘジこのばか野郎。いちいちひっくり返るんじゃねえ!」
 ぼくが怒鳴っている。いや怒鳴っているのはぼくじゃないぼくだ。ぼくはぼくじゃなくなっていた。ぼくが先輩で、じゃあ先輩は? ああ、だめだ。また、気が……とおく、なって…………。
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