三途の川で逢いましょう

鰐屋雛菊

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〈序〉

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 目の前には大きな川があった。はげしく逆巻く泥色の流れは、轟々ごうごうと水音すさまじい。
 ここはどこだろう。そしてぼくはいつ、どうやってここへ来たのだろう。周囲を見まわすも、川と河原とどんより曇った灰色の空、これで全部。ほかには何もない。道路も建物も橋も、それどころか草木一本見あたらず、人っ子一人いなかった。川面にかかったもやのせいで、向こう岸も見えない。
 これでは推測すら立てられないと、途方に暮れかけたときだった。岸辺から三メートルほど離れた川面に突然、ゴボリと大きな泡が立ちのぼった。泡は後から後から止めどなくわき上がって水面を白くざわめかせ、うねりがうねりを呼んで吹き上がる水柱となった。そしてそれがぼくの目線を超えるほどに達したとき――。
「あなたが落とした身体は、容貌こそ平凡ながら、身長は日本人男性の平均を十センチメートル上回る、健康状態きわめて良好の筋肉質な身体ですか。それとも輝くばかりの美貌ながら、体格繊弱にして身長はかろうじて日本人男性の平均、若さにまかせた不摂生と暴飲暴食に喫煙で、このままだとメタボリックまっしぐらは必至の身体ですか」
「お、叔父さん? 何て恰好ですか……」
 ザバンと水柱を割って現れたものに、ぼくは呆気にとられながらも非難の声を上げた。どういうわけか目の前には、ギリシャだかローマ時代だかの女神像のような扮装をした叔父が立っている。そしてどういう仕掛けかその服も、もじゃもじゃの白髪頭も濡れた形跡がなかった。
「我々は、あなたの叔父ではありません。……なるほど理解しました。どうやら我々の外見は、あなたにとって、もっとも不可解と認識されている存在が投影されているようですね。これだから無宗教者はやりにくい。まあ良いでしょう。此方において視覚情報は瑣末なことです」
 叔父の姿をして叔父の声で話していながら、叔父ではないと主張する人物は、気どった手つきで眼鏡のブリッジを押し上げると、わけのわからないことを言って勝手に納得してしまった。確かに口調は叔父らしくない。一人称がヘンだし、ぼくの知る限り、叔父は水面に立つ特技なんて持ってない。けれどドレスみたいな服で足下が隠れているうえ、濁った水のせいで水中の様子もわからないとなると、叔父がまた変な発明品でぼくを驚かそうとしている可能性を捨てきれない。
「そういうわけですから、質問に答えてください。あなたが落とした身体はどちらですか」
「何が、そういうわけ、なんです。それに身体なんか落としません」
「落としたのです」
「そんなのもの落とせませんてば。ていうか、一体なんなんですか、これ!」
 しばしの押し問答のあと、叔父ではないと主張する叔父が、丸々と肥えた芋虫のような指をぼくに突きつけた。
「あまり悠長にしていられないのです。とにかく自分の身体と思うほうを選びなさい」
 そのときだった。あくまで訳のわからない選択を迫る叔父モドキの背後で、視界をさえぎっていた靄がとつぜん吹き払われた。遠く見える対岸は、ごつごつした石ばかりのこちら側とちがって、色とりどりの花が咲き乱れ、大勢の人が穏やかにほほえみながら手をふっていた。ああ、小鳥までさえずっている。人々の群の中には父方の祖父や伯父、母方の祖父母など、なつかしい顔があった。到底一人ひとりの容貌を見分けられる距離ではないはずなのに、なぜかはっきりと見える。みんながぼくを呼んでいる……ような気がする。そう思うと、無性にあちら側へ行きたくなった。
「いけません!」
 ぼくの心が読めるのだろうか、叔父モドキが強い調子で制止する。そこでぼくは初めて気がついた。ぼくには周囲のいろいろが見えているけれど、ぼく自身の手足など、自分の身体がまったく視界に入らないことに。
 いや、見えないんじゃない。見えないんじゃなくて、身体が――無い?
「な、え? ど、どういうこと?」
「どうやらもう一人も限界ですね。これ以上の猶予はなりません。強制対処に移行します」
 パニック寸前のぼくを無視して宣言した叔父モドキの顔に、放射状の亀裂が入った。そしてあろうことか、まん中からべろんと花が咲くように、皮膚が開いた。
「ひぃっ?!」
 その内側は不自然なほどに真っ暗で――今さら不自然もないが――そこから毒々しい紫色の触手が数十本も伸びてきたかと思うと、ぼくをがんじがらめにした。身体がないのに拘束された感触はしっかりある。
「な! ななななな、なに? なに?! えええ!」
「確率は二分の一です。不確定要素は多いものの致し方ありません。なお、肉体を離れていたあいだに起こった事象は脳に記憶されませんが、修正は可能です」
「うああああああ! た、たた助けて食べられるー!」
「修正を求めるときは、こう唱えてください」
 修正? 唱えろって、脳に記憶されないなら、覚えられないってことじゃないのか。叫びながらも冷静な部分があって、そんな疑問がよぎった。が、身体のないぼくは抵抗らしい抵抗もできず、叔父の顔の中へ、易々と引きずり込まれてしまった。
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