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第一七章 クウ虚な心

クウ虚な心(04)

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 明人の視界は、突如遮られる。
 先ほどまで揺らいでいた周囲の草木は、真冬に連れてこられたかのように凍り、葉っぱから生える小さな氷柱つらら気温の低さを露骨に表現する。

「姉さん、いつの間に……」

 目の前に現れたのは、巨大な氷の壁だった。依子はあらかじめ周囲に氷のタネを巻いていたようで、その周到な準備に明人は更に警戒を高める。

『アキ、安心して……』

 どこからともなく響く依子の声に、明人は辺りを見渡すが、周りはただ凍っていくだけである。

『逃がす気はないわ』

 そして、唐突に地面から生える氷柱つららを明人はギリギリでかわす。更にその直後、ガラスが割れるような音を鳴らして、近くにあった氷の壁が上から崩れ去った。

「だからあなたも殺す気で来なさい。つまらない夢からさましてあげる」

 細かく砕かれた氷が粉塵となって舞い、明人の視界を遮って、頬にも強く突き刺さる。明人の警戒をしつこく邪魔して、その隙をつくように地面から依子が迫った。
 氷で作られた鋭いやりが一直線に明人へと迫る。

「――姉さんのことなら、よく知ってるつもりだ」

 明人は、その槍を両手で握り込むようにして体に当たる直前で止めきった。

「姉さんの癖とか、思考とか……他のヒトよりはわかる自信がある。でも、どうしてもわからないことがある」

「何かしら」

 槍を掴んで離さない明人に、依子は体重も乗せて槍を押し込んでいく。

「姉さん、本気で俺を殺そうとしてる?」

 だが、槍はどうしてもビクともしなかった。依子は諦めて槍を氷解させ、すぐに飛び跳ねて明人から距離を取る。

「何が聞きたいの?」

「姉さんは俺を殺したくて殺そうとしてるの?」

「見ない間に、ずいぶんイジワルになったのね。アキにSっ気は似合わないわ」

「正直に答えて、心から俺を殺したい」

「……それを聞いてアキはどうするの?」

「分からない。でも、理由次第では、俺は殺されてもいいと思ってる」

 常に真っ直ぐな目で依子に向き合う。
 依子は指を顎に当て、少し考えて言葉を発する。

「例えば、大事に飼っていた猫と離れ離れになって、数年後に再開するとその猫は、獰猛どうもうなライオンになっていたの。そしてそのライオンは、自分や自分の周りに危害を加えてくる。それもこれも、すべてはライオンに育て上げた飼い主のせいだけど、その猫を救うには、始末するしか方法はないと思わない?」

「やっぱり……姉さんにとって、あの頃・・・の俺はペット同然だったの?」

「アキ、例えばの話よ。寵愛ちょうあいを飼育に例えただけ」

「閉じ込めているのに違いはないよ。それに、今の話で見えてこないものがある」

「何かしら」

「姉さんの目的だよ。どうして始末が必要なんだ? 危害と言うけど、いったい何の邪魔をしたと言うんだ」

「……はぁ。アキ、変わってしまったのね。私が知ってる可愛いアキはもういない」

「姉さん、俺は真面目に質問してる」

 終始、明人をおちょくるような態度を示す依子だったが、明人は決して依子から目を逸らさなかった。依子は観念したらしく、今までよりも厳しい表情で明人を見返す。

「なら、どうして種人は始末する必要があるのかしら?」

「種人は人間とは違う。種人を放置すれば、被害が広がっていくだけだ」

「人間だって同じじゃない。迷惑で周りに被害を及ぼす人間は、種人と同じように駆逐されるべきと思わない?」

「違う。人間は人間のルールに従って裁かれるべきだ。植人のルールとは違う」

「そうよ、アキ。あなたはそのルールに生かされているだけなのよ?
 他人が決めたルールに従わされて、そのルールで他人のいいように操られて、本当のアキは一体どこにいるの?」

「俺は、少なくとも今は、俺を見失っていない」

「立派になったのね。でも、私は耐えられなかった」

 依子は憂い気な表情で一歩アキトに踏み出した。そのプレッシャーで圧し潰されそうになるが、何とか明人はその場に踏みとどまった。

「アキは、私が苦しくても平気?」

「……っ、そんなことは」

「アキは、私が悲しんでいても平気なの?」

「だからっ――」

「私は、アキが辛い目にあっていたら、それこそ耐えられない」

 依子は、いつの間にか目の前まで距離を詰めていた。何とか目を逸らさずにいるが、過去の苦い思い出がフラッシュバックして胸を強く締め付けられる。

「……ルールは、ルールに従って変えられるべきだ」

「いいえ、それでは何も変わらない。ルールの上で新しくルールができるだけ。土台は放置されたままになる」

「なら、姉さんはどうしたいんだ」

「腐ったルールは一度捨てて、第三者の手によって新しく作られるべきだわ。人間でも、植人でもない、誰でもないモノによって」

白髪しらがの男がそう言ったのか」

「嫉妬してくれるの? でも、口が悪いのは一番嫌いよ」

「ごめん。まるで姉さんの言葉じゃなかったから」

 依子の動揺が強く表情に現れた。明人は追い打ちをかけるように哀しげな目で依子を見つめる。

「姉さんこそ、自分を見失ってるんじゃないの?」

「……」

「姉さんこそ、よく知りもしない男のルールに踊らされているだけだ」

 依子は、何も言い返さなかった。
 動揺を隠すように表情を無くし、静かに明人の首元を締めるように両手を当てる。

「いいよ。姉さんのことはよく分かった」

 パキパキと音を立てて、明人の首周りを氷が覆っていく。依子の手の代わりに、明人の首をキツく締め付けていく。

「俺をっ、殺せば、自分を見つけられる?」

「はぁ、はぁ……」

「俺を、殺せば、飼い猫になる前のっ、弟を、思い出せる?」

「はぁ、はぁ……うわ言を……っ」

「俺は、あのときのっ……優しかった、姉さんをっ、わすれ、ないっ、よ」

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 明人の呼吸は限界に近かった。首元を巻く氷のせいで喉が完全に締まり、氷の冷たさが分からなくなるほど意識が遠のいていく。
 それと同時に、依子の動悸も激しくなる。今まで幾重にも重なった氷で見えなかった依子の心が、氷の奥で寂しく凍える心がようやく垣間見えた。

「ねえ、さんっ……ありが、とうっ――」

「あっ、ああー゛っ!」

 明人は、薄れていく意識の中で依子に微笑みかけた。依子は押さえつけていた感情が爆発したようにわめき叫ぶ。
 依子に心を動かすのに、あと少しだった。
 だが、あと少しが足りない。明人は、気絶寸前だった。

 そこに、2人を覆い尽くす大きな影が浮かび上がる。

「や、め゛……」

「はぁ、はぁ……はっ?!」

 依子もすぐに背後の気配に気づいた。
 明人の首から手を離し、その場でしゃがんで地面に手をつくと、自分の周りを覆うように何重も氷が出現して被さっていく。
 解放された首の氷はすぐに溶けて落ち、一気に意識を回復させた明人は、そこから間髪を入れずに大声を上げた。

「南剛っ! やめてくれ!」

「はっ! 相変わらずぬるいなぁ葉柴ぁ!」

 南剛雁慈がんじの巨大に膨れ上がっった木槌が、依子を覆っているだろう氷に思い切り振り落とされる。
 明人の制止を無視して、雁慈の剛槌ごうづちは何枚も氷を粉々に砕いていく。

「はっ! 砕け散ろぉっ!」

 剛槌は最後まで、氷をすべて砕け散って地面にめり込むまで進み切った。細かな氷が、塵となって空気中を漂い、その跡形に依子の姿は見当たらなかった。

「――ひどいわアキ、騙していたの」

 雁慈の更に後ろから距離を取り、依子は再び姿を表した。今日最初に会ったときと同じ、イタズラに微笑む依子に戻ってしまっていた。

「油断させて攻撃なんて、お姉ちゃん悲しい」

「はっ、しぶとい奴だ」

「それに、また女。アキは本当に何度言っても懲りないんだから……」

 依子が右手を空中にかざすと、ちょうど雁慈が持つ剛槌と同じ大きさのハンマーが氷で作られていく。

「まずは、その邪魔な女を始末しないと」

「はっ、せいぜい楽しませろよ化け物」

 雁慈は、依子に向かって一気に踏み出した。
 明人は、締め付けられて紫色に変色した首元を抑え、次の作戦を真剣に練っていた。
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