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第一五章 フカくて暗くて黒いヤミ

フカくて暗くて黒いヤミ(03)

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 矢剣家の道場は、静かで暗くて、依子はあまり好きになれない。気分が乗らないまま、正面には矢剣家の嫡男であるはやとが立ち構える。

「準備はいいか?」

「……ええ」

 仕方なく構えて隼と睨み合う。そして、いつの間にか隣に立っていた審判が合図を出して試合が始まる。
 お互いに徒手空拳――
 隼に剣を持たせては勝ち目がないので、矢剣側の配慮とも言えた。

「――ぐっ……」

 武器がないところで依子に勝ち目はない。それもそのはずで、相手は最強の植人と称される男なのだ。
 それでも、脱力していた割には、喰らいついたほうだと思う。

「――やめいっ!」

 依子の体を押さえていた隼だが、審判の合図と同時に力を抜いて解放する。勢い余って体がヨロけ、何とか堪えて転ばずには済んだが、結局何もできなかったのだと改めて思い知らされる。
 だが、悔しい感情は特別湧かなかった。むしろ明人おとうと以外の体と密着したことで悪寒を覚えていた。

「洗練されているな」

「どうかしら」

「間違いない。本気を出されていたら互角だったはずだ」

「そう……」

 興味ない。
 隼のことを毛嫌いしているわけではない。彼には、強さ、人格、容姿、清潔感、どれをとっても否定する点が見当たらない。
 それに、隼とは植人になった時期も同じで付き合いは長かった。薄く、長い、良好な関係を築いている。
 だが、興味がない。隼にも、他人にも、植人にも――

「また手合わせ願えるか?」

「もうすぐ亜御堂との会食でしょう? 本殿の婿候補が気軽に女を誘うべきじゃないわ」

「かもしれないな。だが、俺興味がない」

「……どういうこと?」

「忘れてくれ。俺は葉柴の強さを買っている、それだけだ」

 冷静沈着な隼にしては、足早に去っていったのだと思う。隼なりに口を滑らせていたらしい。
 依子には、やはり興味が沸かなかった。




「見て、依子先輩ですわ」

「まあ、なんてお美しいのでしょう」

 依子が校内を歩くだけで周りが騒がしくなる。ある者は目を輝かせて、ある者は珍しいモノを見る目で、依子に強い視線を向けてくる。
 昔からだった。特に男性の視線はわかりやすい。生まれ持った葉柴家の性質は理解しているが、気分は常に悪かった。特に、性的な目で見られるのが最も気持ちが悪い。

 そこで依子は、女子校を進学先に選んでいた。だが、状況はあまり変わらなかった。葉柴の『呪い』は性別を問わないらしい。比較的閉鎖的なお嬢様学校を選んだのも間違いだった、かもしれない。

「依子さん、今日もお美しいですわ」

「依子さん?」

「依子さん、本日の昼食のご予定は?」

「依子先輩、放課後、お話がありまして

「依子先輩、よろしければ校舎裏まで……」

「依子さん」

「依子先輩――」




 ――疲れた……
 植人も人間関係も、何もかも

 依子は、無言で家の中に入るなり、大きなため息を吐いた。ここのところ出ずっぱりで、落ち着く暇もない。種人たねびと退治、それに植人になっても終わらない鍛錬、稽古のせいで体が休まる暇もなかった。

 さらに依子自信は常に落ち着いた風で、昔から周囲頼られることが多かった。それも億劫だった。年上も、年下も、もううんざりだ。


「――姉さん、だいじょうぶ?」

 でも、明人だけは違う。
 いつも周りに気を遣い、面倒見が良くて、それは姉の依子にも例外ではない。

「……大丈夫よ、アキ」

 つい飛び込んでしまいたくなる明人に、依子は甘えたことはなかった。自分は明人の姉であり、明人を導く立場であるはずだから、自分を押し殺して常にたくましい姉を演じていた。

「早くご飯にしましょう」

 それももう、限界かもしれない――




 ***




『ぐぎゃああぁぁぁあああ゛っ!』

 植人として仕事を続け、不思議に思うことがある。
 種人かれらの胴体に拳が当たる瞬間、その感触、それは正しく人間の肉と同じ感触ではないか。

 彼らは何者なのか
 彼らは本当に怪物なのか

 彼らは本当に、人間ではないのか――

 眼の前に広がる怪物のはらわたを呆然と眺め、つい手を止めてしまっていた。早く肝心のタネを潰さないと……

「――あ、あぅ……」

 死に体の怪物が何か呻き声を上げている。依子は、つい耳を傾けてしまう。

『おねえ、ぢゃ、あ……ん……』

「……」

 タネが見当たらない、散らばった肉片で隠れているのだろう。

『やめ゛、て゛……いだ、い゛、よ……』

 うるさい、早くタネを見つけないと

『おねえ゛、ぢゃ゛――』

「うるさぁあい゛っ!」

 どいつもこいつも、自分ばかり――
 興味がない。関心がない。
 関わりたくないのに、無理やり関わらせられて、つらい目ばかりみて――

「もう、やめさせてよ……」

 依子は、いつの間にか地面に拳を強く叩き付けていた。地面には、クレータ跡のように大きな窪みが出来上がっていた。

 派手に拳を打ち抜いたせいか、怪物がこれ以上喋ることは無かった。というより、怪物の肉体は散り散りになって見えなくなっていた。




 ***




『おねえちゃん』

「うっ、ん、うっ……」

 夜中、部屋には誰もいないはずなのに、どこからか声がする。依子は、その声に反応しても動くことができない。

「ねえさん」

 目も開けられない、真っ暗な視界で呻くことしかできない。
 まるで今日の怪物と同じ――

「姉さん!」

「くっ…」

 依子は、ようやく目を覚ますことができた。
 目の前には心配そうな明人が、依子の肩をガッシリと掴んでいた。

「アキ……」

「姉さん、すごくうなされていたよ? 何かあった?」

 依子は泣いていないのに、なぜか明人が泣きそうに声を張っている。

「姉さん、おれなんかじゃ、頼りにならないかもしれないけど、もし話せることがあったら何でも――」

 依子は、無意識に明人の体を抱き寄せていた。
 明人を同じベッドの上で横たわらせ、ちょうど明人を背中から包み込む体勢で明人の体を強く抱き締める。

「ね、姉さん?」

 依子は、特に口に出すことなく明人の体と自身の体を密着させる。明人の鼓動が速くなり、やがて体温が急速に上昇するのを直に感じる。

「どうしたの? 何だか姉さんらしく――」

「アキ」

 抵抗して離れようとする明人を、依子はより強い力で抱き寄せる。
 明人も抵抗する力を徐々に弱めていく。

「アキ、ありがとう……」

 依子は、明人の背中に顔を当て、真っ暗な部屋で再び目を閉じる。
 小さい頃から知っている明人の背中は、思っているよりもずっと大きくて、温かかった。

 以来、明人の体への執着は日に日に増していった。




「――アキ、入るね」

 明人の部屋は、昔ながらの和室の布団敷きだ。明人の趣味ではなく、空いていたのがたまたま和室だっただけで、ただ本人は気に入っているらしい。

「どうしたの姉さん?」

 眠気眼をこすりながら起きてくる明人、この愛嬌もたまらなく依子の気持ちを昂らせてくれる。

「アキ、寝れないの」

「寝れない……? 一緒に起きてようか?」

「ううん、明日も朝早いから」

 朝の稽古に向けて英気を養わないといけない。そんな稽古も、実践を重ねてもうすぐで終わりになる。もうひと踏ん張りだ。

「そ、そうだよね。そしたら……」

「一緒に横になって」

 依子は、強引に部屋の中へと入り、明人の手を引いて布団へと誘った。

「姉さん、恥ずかしいって……」

「アキ、ちゃんと見て」

 明人の瞳を見つめる。
 明人にも、自身の瞳を見つめさせる。

 お互いが混じり合うように、とろけ合うように、見つめ合い、そっとおでこを合わせる。

「姉さん、最近どうしたの? 何か辛いことでも――」

「いいから」

 そして、ゆっくりと目を閉じる。
 温かい。ようやく寝れる。
 もう少しの辛抱だから――
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