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第一五章 フカくて暗くて黒いヤミ

フカくて暗くて黒いヤミ(01)

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 夏、アブラゼミが騒がしい。
 そんな虫の鳴き声も、夏特有の蒸し暑さも、幼い子どもたちには無関係である。

「アキくん~ 待ってよ~」

 本殿の石段は全部で2,000余りに及ぶ。幼い女の子には、少々酷な道のりである。

「上で待ってれば良かっただろー」

「うー だって~」

 亜御堂あみどう天音あまねは、限界を迎えて石段に座り込んでしまう。汗が水滴となって石段に滴り落ちる。
 一方で、数段上にいる葉柴はしば明人あきとは、汗1つ掻いていなかった。足腰もピンと張り、天音と同い年ながらにまだまだ余裕を感じさせていた。

「天音、急がないと」

「でも~」

「衛門様に怒られちゃうよ」

 急かされたところで体が言うことを聞いてくれない。時間に厳しい祖父に怒られたくも無かった。頭では分かっていても体が言うことを聞いてくれないのだ。

「アキ――」

 困り果てていた明人を呼ぶ声――
 石段のさらに登った先、天音たちより少しだけ大人びた女の子が立っていた。明人同様、汗1つ掻かず、息切れ1つ起こさずに美貌を保っている。

「おぶって上げなさい。男の子でしょ」

「姉さん、でも」

「よ、依子よりこさん! おんぶなんてっ」

 天音も幼いとは言え、一丁前に年頃の女の子でもあった。誰かに、親以外におんぶされるのは恥ずかしいし、その相手が明人ともなれば――

「アキ」

「うっ……」

 そんな天音の羞恥心と照れは無視して、依子は鋭い視線を明人に送る。その瞳は、怒っていはいないけど笑ってもいない。
 何を考えているか分からなくて、冷たくて、ちょっぴり怖い。

「わ、わかったよ姉さん。ほら、天音」

 目の前でしゃがむ明人、それに自分たちより上で待つ依子を前に、天音は断りきれなかった。明人の肩に手を掛けてそっと体重を掛けていくと、明人はしっかりと太ももに腕を回し天音を支える。

「う~」

 恥ずかしさが声となって漏れてしまう。だが、それ以上に明人の温もりを直に感じ、脳をとろけさせるような充足感に満たされる。
 数十段登れば、恥ずかしさも薄れて明人の背中に居心地の良さを感じていた。天音は、明人の首元にゆっくりと顔を埋めた。

「……? 天音?」

「アキくん……」

 葉柴家は、昔から四家の中でも最も近い場所で本殿を守る役割を担っていた。そして、同い年の明人とは幼馴染として仲良くなっていた。
 明人は初子にあらず、植人の後継者でない分、少なくとも姉の依子よりは時間に余裕があった。周りから隔絶されている環境下で育ち、子供の頃は友人も少なく、必然的に明人と遊ぶ機会が多かった。
 一緒に本殿の敷地を駆け回っては、転び、慰められ、手を握る。月日が経つにつれ、体も心も成熟し、いつしか天音には友情を超えた、恋心が芽生えていた。

 明人のことを考えると顔が熱くなる。
 明人は、自分のことをどう思っているのかが気になってしょうがない。依子に聞いてみようとも思ったが、植人としての訓練で忙しそうで、それどころではなかった。

「天音、重くなったな」

「ん!」

 天音は、体を密着させて、明人の首元にキツく腕を巻き付けた。

「アキくんはデリカシーが無くなったね」

「ぐげげ、おっきくなったっていみだ……よっ」

 明人が降参して腕を叩くため、仕方なく腕の力を緩め、再び背中に顔を預ける。やっぱり明人の背中は大きくて安心できた。

「姉さん、いつの間にかいないんだから」

 いつの間にか依子は先を行って見えなくなっている。一段、また一段と、2人だけの時間が続く――

 こんな日常がいつまでも続くと思っていた。いつまでも続いてほしいと思っていた。
 いや、きっとこのときから、天音は現状に満足できないでいた。その先の関係を望んでいたのかもしれない……




「――あーっ! あまねずるいーっ!」

 石段を9割9分登りきったところで、上の鳥居から茜音いもうとの声が響く。

「迎えに行くならわたしにも言ってよー」

「うっ、あかね……」

 双子の妹である茜音とは、ここのところ折り合いが悪かった。お互い女の子としての自我が強くなり、ことあるごとに衝突を繰り返していた。

「それに、なんでアッキーにおんぶしてもらってるのよーっ」

「い、いいじゃん。疲れちゃったの!」

 とっくに体力は回復していたのと、妹に見つかったのではバツが悪いので、天音は名残惜しい気持ちを堪えて明人の背中から降りた。

「茜音ちゃん、おはよう」

「お、おはようアッキー……」

 それに、明人に話しかけられた途端、声色を変えてモジモジとする茜音が、何だか気に喰わなかった。

「あかねだって部屋で待ってればいいのに」

「むっ、なんか言った?」

「あかねは石段がキライでしょ! おとなしく部屋で待ってればいいの」

「うーっ……」

 茜音は、一瞬で涙目になる。もちろん謝るつもりはない。

「天音、言い過ぎだよ」

「わたしだって、アッキーにおんぶしてっ、してもらってごにょごにょ」

「なに言ってるか聞こえない」

「天音」

 明人は、天音をさとすように2人の間に割って入った。そして、涙が滲む茜音の頭にポンと優しく手を乗せる。

「あ……」

 そこで、天音は自分の過ちに気づいた。
 明人に嫌われて当然の行動をしてしまった。

「茜音ちゃんなら、いつでもおんぶしに来るよ」

「アッキー」

 茜音は、気持ちを堪えきれずに明人の胸元に飛び込んで顔を摺り合わせる。茜音が慰められる姿を眺め、天音の胸の鼓動はどんどん速くなる。

「アキくん……」

 苦しい。
 胸が苦しい。

 私は、やっぱり、アキくんのことが好きだ――
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