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第一三章 不タシかな燃ゆるイノチ

不タシかな燃ゆるイノチ(07)

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「――さゆ! おかあさんっ!」

 炎は、家の中全体を埋め尽くしていた。
 母が長年愛用してきたキッチン用品、父が今朝読んでいた新聞紙、他にも目に見える家財を余すことなく燃やしていた。

「何が起きてっ――げほっ、げほっ」

 炎がもたらす影響は、皮膚を焼く熱さだけではない。空気中の水分はほとんど蒸発し、熱気と乾燥で目を開けていられない。
 一番の問題は「酸素」で、ただでさえ熱い空気を、ゆっくり息を吸っても満足な呼吸に至らない。喉が焼くほど熱い炭酸ガスを吸っているようで頭がクラクラする。

「げほっ! みんなっ、どこっ……」

 二足歩行がままならず、膝をついた真由乃は、地べたを這ってリビングに移動する。しきりに瞬きをしながら進むため、視界はままならず、そのせいで「モノ」にぶつかってしまう。

 ――柔らかい感触、覚えのある形態
 モノじゃない、ヒトだ。

「おと、う、さん……?」

 眼を細く開けて、横たわる父を確認する。
 まだ生きてるか、意識はあるのか、顔を手前に向けて確認しようと肩を揺さぶって回転させる。

「おとうさん、おと――う゛っ」

 確かに父だった。
 証拠に、見覚えのあるメガネは黒ずんでいても形を残している。
 だが、肝心の父の顔は原形を留めていなかった。真っ黒焦げで、ヒトの顔なのかも判断突かない。
 状況が掴めず、呼吸が苦しいのは変わらないが、それでも急激な吐き気が襲う。そこに、微かな呻き声が奥から聞こえてくる。

「――まゆ、の?」

 カサカサ声でハッキリとは聞き取れない。だが、真由乃には声の主が分かる。

「おかあさん! おかあさん?!」

 父のすぐそばで、母の姿を必死に探す。
 燃え盛る炎を前に、目を凝らして母の姿を探す。

 そして、絶望が目の前に広がる――

「あっ、いやっ、おかあさんっ……いやっ」

 母は、とっくに目が見えていなかった。
 見えないからこそ感じる真由乃の気配に反応し、ただれた瞼でキョロキョロと辺りを見渡していた。

「まゆ、の……ま、ゆ、の……」

 見えないからこそ、何度も声を上げて真由乃に呼び掛けていた。
 爛れているのは瞼だけじゃない。炎は衣服にも引火して、母の全身を焼いていく。全身の皮膚がドロドロに剥がれ、真っ赤に腫れ上がった腕を伸ばし――母は力尽きる。

「ま、ゆ、の……にげ、て――」

「いやっ……いやーっ!」

 叫んだところで、炎にかき消される声が母に届くことはない。その代わり、真由乃の叫び声で炎が一瞬だけ揺らいだ。

 揺らいだ炎の先――もう1人、人影が見える。

「なん、でっ……」

 真由乃が最後に手を伸ばした先――
 悠然と立ち尽くす1人の少女

 白いワンピース姿の少女

 これだけの炎の中で、少女には火傷1つない。だが、ワンピースがはだけて、小さな背中が露わになっていた。

「さ、ゆ……?」

 小由里は、意識を失った母には目もくれず、真由乃にだけ振り返って寂しい表情を向ける。
 真っ黒に飛び出た眼球、その中心に映る黄色い斑点の眼を向けて、真由乃だけを見つめる。

「さゆ、さゆ……っ!」

 やがて小由里は顔を逸らし、完全に背中を向く。同時に、炎が元の勢いを取り戻す。
 小由里の背中には、おびただしい数の傷跡が垣間見えた。
 その傷跡が示す真実を、考えるよりも前に真由乃は意識を失った。

 意識を失った直後、炎は嘘みたいに鎮まったらしい――




 ***




『――真由乃さーん! 聞こえますかーっ』

 目の前で、燃え盛る炎
 目の前で、大切なヒトが苦しんでいる。

 父も母も、妹も失った。
 わたしは、その記憶に耐えられなかった――


 だから、忘れた。
 記憶に頑丈な蓋をした。


『真由乃さーん』

 覚えているのは、担架で運ばれる自分
 わたしは、何もできない……

 そう思うと悔しくて、忘れたはずなのに涙が溢れてくる。


 ぼんやりと開いた目に映るのは、病院の眩しい蛍光灯――

 耳鳴りと一緒に聞こえてくるのは、医療器具のビープ音と呼吸器の空気が抜ける音、そして看護師が自分の名前を呼ぶ声――

 状況はまるで分からないのに、何故か涙だけ溢れてくる。
 それから、またしばらく意識を失った。

 次に目覚めたのは病室で、火事の1件から丸一日経過したあとだった。
 ゆっくりと開けた目に映ったのは、真っ白な天井と、傍らに寄り添ってくれた祖母の姿だった。

「起きたんじゃな」

「……おばあ、ちゃん?」

 目の前の人物が祖母であることだけは分かった。
 それ以外は、全く以て記憶があいまいだった。
 通ってる学校も、家も、家族も――

「おばあちゃん、わたしは――」

「今は休むんじゃ、もう少し寝るんじゃ。もう少し……」

「……うん」

 祖母の言う通り、目を開けて、またすぐに目を閉じた。
 幸いなことに、真由乃自身には外傷も後遺症も残らなかった。火事も自宅の中だけで済み、被害は最小限に留まっていた。
 そして、両親の葬儀は粛々しゅくしゅくと行われ、真由乃は泣かなかった。

 それが変だと自覚していても、両親を失った実感が無かった。
 周りが真由乃のことを不憫ふびんに思い、その空気に飲まれ、ただ俯いて時間だけが過ぎる。祖母が寂しい表情でずっと見守ってくれていたのを覚えている。




「――よいんか? 無理せんでも」

「ううん、何か思い出せるかもしれないし」

 植人のことも、記憶から丸ごと飛ばしていた。
 ただ、新しい住まいとなった祖母の家には道場があり、事件前に剣術を学んでいたと祖母から聞かされていた。真由乃は、明確な目的も持たず、何かの手掛かりになればと稽古を再開した。

 剣術は、きっと身体が覚えていたのだろう。基礎はリハビリがてらに習得し直し、実力も見る見る取り戻していった。

 学校にもすぐに復帰できた。
 周りからは心配する声も多かったが、教室では何もしゃべれずにいた。

 知っているはずの見知らぬ他人が、自分のことを心配して口々に声を掛けてくれる。その善意が真由乃には怖くなり、せっかく戻れた学校には、すぐに行かなくなった。




「――真由乃、買い物は行けるかの?」

「……ごめん、おばあちゃん」

「そうか」

 枕を抱きしめ、穴が開いた記憶を埋めようと試みる。
 当然上手くはいかず、すぐに諦めて考えることを止める。

 道場と部屋の行き来だけで、塞ぎ込んだ日々を過ごす。
 食事と稽古の時間だけが充実して、あとは空っぽの毎日だった。

 真由乃の堕落した姿を見兼ねたのか――祖母の言いつけで、進学だけはすることにした。
 真由乃は、新天地で久しぶりの登校を決意し、やはり最初は馴染めないでいた。

 だが、すぐに明里と出会い、仲良くなった。
 明里は、常に明るくて顔も広い。とても根暗な自分には釣り合わないと、真由乃自身が感じていた。

 だから、明里はきっと、真由乃のミステリアスな出自に興味を持っただけに違いない。それでも、お互いが保つ絶妙な距離感のせいか、妙に気が合って仲良くなるのはあっという間だった。

 そう……真由乃はいつの間にか元気を取りもどしていた。新しい友達ができていた。
 いつの間にか、「普通」の生活を取り戻していた――
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