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第〇七章 侵さレル水
侵さレル水(07)
しおりを挟む「全国は、私にとっても夢だった」
ナツキは空になったプールを見つめ、ひとりでに語り出す。目線の先はプールにありながら、どこか遠くを見つめているようにも見えた。
「……泳ぐのが、好きだからね」
「もう泳げないのか?」
ナツキは小さく首を横に振る。否定はするものの、そこに自信はないらしい。
「元に戻るには、手術が必要なんだって……成功しても、前みたいに速く泳げるかは分からないってさ」
「怖いのか?」
「まあね」
ナツキは、プールサイドをコースに沿ってゆっくり歩く。かつて泳いだ自分の姿を、空のプールに重ねている様子だった。
「アザミはね、親友なの。私がダメでも、アザミには全国に行って欲しかった」
ナツキが泳ぐ隣のレーンには、アザミが泳ぐ姿も重ねていた。
「私がダメでも、アザミが全国で泳ぐ姿が見たかった。だから、余計な心配を掛けたくなかった……」
「だから嘘をついた?」
「それか、なんて言えばいいのか分からなかったのかも」
「どうして嘘のロッカーを俺たちに見せた?」
「言ったでしょ、アザミは親友――アザミに変な噂が立って、アザミが戻ったときには全国の夢が途切れてたなんて、私が許さない」
「証拠品を隠蔽しようとしたのか」
「そんな大げさに言わないでよ。被害者は私なんだから私の勝手でしょ?」
被害者とはいえ、ロッカーについて黙っていられたのは頂けない。お陰でアザミの発見が遅れ、関係のない他人にまで被害が及ぶところだった。
「ねえ、アザミは生きてるの? 何か知ってるんでしょ?」
「まだ分からない。だが、可能性は低いと思え」
「そっか……」
ナツキは、ある程度は覚悟していた。諦めたわけではないが、それでもナツキにとっては受け止め難い、悲しい事実だった。
「――まずは居場所を探る。もう1度ロッカーを確認して、話はそれからだ」
ナツキに同情の余地は存分にある。それでも、急がないと被害は大きくなるだけ――明人は、隣にいた葵を引き連れて再び更衣室に戻ろうとする。ナツキもその後ろをついて行こうとした。
会話が終わり、プールサイドが静かになった直後、明人はプールから漂う微かな「気配」に気付く。
「――おいっ、走れ!」
「え……?」
後ろにいるナツキに向かって明人は大声で叫んだ。ナツキは意味が分からず、その場に立ち尽くしてしまう。
気付いたときには遅い――いつの間にかドロドロに汚れた触手がプールから伸び、呆然と立つナツキの足首に巻き付いていた。
「くそっ……!」
明人は急いでナツキに駆け寄るが、それよりも早くナツキの体をプールへと引きずり込む。その勢いでナツキの頭はコンクリートの床に強く打ちつけられてしまう。
「あう゛っ――」
「おいっ!」
触手はプールの排水溝から伸びていた。排水溝の奥は、真っ暗でも分かるくらい黒く濁っている。
排水溝に向かって吸い込まれていくナツキの体――
明人が追いかけるも間に合いそうにない。その明人の横を鋭い鎖が通り過ぎる。
「明人! 早くっ!」
葵が操る鎖――鎖楽苦が引き摺られるナツキの体を捕まえた。
排水溝からの触手と引っ張り合いになり、葵の体まで徐々に排水溝に引き摺られていく。その間中
で明人は身軽に動き、排水溝の前まで即座に移動した。
「葵、助かった」
明人も植器である毒手を右手に嵌めていた。
そして、その右手の拳を勢いよく排水溝に打ち放つ――
「ふん゛っ!」
明人の声に合わせ、排水溝周りのコンクリートが大きな音を立てて崩れ去る。プール全体にヒビが入るほど衝撃が明人の拳から放たれた。
衝撃に驚いたのか、ナツキに絡んでいた触手も慌てて排水溝の奥深くへと引っ込んでいく。
「ちっ、逃がしたか……」
明人は、まずナツキの体を抱えてプールサイドに上がり、その安否を確かめる。葵はプールの中にいたまま周囲の様子を窺っていた。
「明人、大丈夫そうか?」
「ああ、気絶してるだけだ」
ひとまずは安心する。
触手の正体はアザミで間違いないだろう。プールに飛び込んだ時点でアザミは種人に成り果てていた。葵は警戒を強めたままプールの中から明人に問い掛ける。
「明人、おそらく――」
「下水道に逃げたか」
「どうする? 退散するか?」
「そうだな。病院にも連れていきたいし、ここはもう――」
突如、プールサイド全体が激しく地響きを鳴らして揺れ始める。揺れに合わせて「ゴボゴボ」と不気味な音が響き渡る。その音の正体に気付いたときには、既に葵の体は浮いていた。
「なっ――」
明人が作ったコンクリートのヒビ割れから大量の濁った水が流れ込む。
あっという間にプールを水で埋め尽くし、さらに水の勢いはコンクリートの床まで破壊し尽くす。葵の体を奥深くへと沈み込ませていく。
「葵っ!」
明人は慌てて飛び込み、汚れ切った水の中で目を凝らす。視界の悪さに加え、カナヅチである葵にとっては絶望的な状況だった。
どこまで続くか分からない水の中を、明人は深くへとグイグイ進む。
「……っ!」
濁った水は、生身の人間では耐えられないほどの#
「汚れ」で満ち溢れている。明人は特殊な体質のお陰で満足に泳げているが、長時間その水に浸かる行為は溺れている葵には危険極まりなかった。
遠くまで視界が見渡せず、葵の体はなかなか見つけられない。だが、偶然にも葵の持つ鎖の先端が明人の目を横切った。
明人は鎖を辿って葵の体を見つけ、なるべく息を吐かないようにして葵の体を包み込んだ。そのまま急いで引き上げようとするも、葵の足首にはドロドロの触手が巻き付いていて逃がさなかった。
「ぶぐっ――」
明人は、葵の体を抱え込んだまま目いっぱいの力で触手を引き、触手の張力も利用して逆にプールの底へと近づいていく。
プールの底――触手の根元には海月のように透明で光を放つ怪物が張り付いていた。透明だからこそ、中心に黒く濁った『タネ』も確認できる。
「ぐ゛っ……」
怪物はありったけの触手を吐き出し、最後の抵抗を見せる。明人の右手に巻き付いて動きを封じようとする。
水中で動きも鈍り、圧倒的に不利な状況でも、明人は最後の一撃に向けて息を温存する。危機的状況だからこそ、あくまで冷静さを保った。
葵を抱えていた左手で葵の鎖を掴み、先端にあるクナイを手繰り寄せる。そして一瞬だけ葵を離し、左手に掴んだクナイを怪物の根元に突き刺した。
『――キィィィッ!』
耳を塞ぎたくなる高音が水中に響く。
怪物の体が震え、触手に込められていた力も鈍る。
明人は、その隙を逃さない――
「ぐぁあ゛っ!」
水中での雄叫びと共に、体に溜めていた息を使い、明人は力を振り絞って拳を振るう。
水中で威力は半減するも、怪物は拳の圧に耐え切れず、中のタネごと木端微塵に砕け散った。
プールを埋め尽くしていた水が途端に引いていく――
明人は葵を抱え、急いで水面を目指した。
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