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第〇七章 侵さレル水

侵さレル水(05)

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「――ナツキ、どういうこと」

「アザミ……」

 ナツキが通う女子校のプールには、更衣室のロッカーがこれでもかと並んでいる。
 授業やイベントがあってもロッカーが埋まることはまずありえない。お陰で水泳部の部員には1人1つの専用ロッカーが暗黙の了解で割り当てられていた。
 誰がどのロッカーを占有するかは部員だけが知り、顧問の先生も把握していない。

 ナツキとアザミのロッカーは、通路を挟んで向かい合う場所にあった。

「どうしたの? 怖い顔して、似合わないよ」

 アザミは、ナツキのことを睨んだまま動かない。ナツキは構わず競泳水着へと着替えていく。

「おちょくらないで、ちゃんと答えて」

 ナツキは、1か月前の練習中に突然足の痛みを訴え、練習と並行して病院に通っていた。今でも大きな力を加えると鋭い痛みが走る。
 水泳を含む運動には多大な支障があるが、それでも今日は久々に全力で泳ぎたい気分だった。

「だからなんのこと?」

「次の大会よ! 出場しないってほんと?!」

「それは……」

 アザミは、柄にもなく声を荒げていく。対するナツキは話が進むほど歯切れが悪くなる。

「先生から聞いた。ちゃんと教えて、ナツキの口から」

「いいじゃん、そんなこと」

 言い返す言葉が分からなくなる代わり、口調がキツくなってしまう。それに気付いていながら謝りはせず、アザミから顔をらして準備を進めていった。

「そんなことって……ねえ、何があったの?!」

「なんでもないって」

「もしかして足のこと? まだ痛むの? 私、良いお医者さん知ってるから――」

「だからなんでもいいじゃん!」

「なつ、き……?」

 最後は、心にもなくアザミ以上に声を荒げてしまう。アザミが目に涙を貯めているのが顔を見なくても分かった。

「もういいじゃん、早く練習しよ? 時間もったいないよ」

「……どうして――」

 ナツキは、アザミを無視してプールサイドへ向かおうとする。その足を引き留めるように、今度はアザミが声を張った。

「どうして? どうして私に話してくれないの?」

「どうしてって……」

「私はわたしのこと、なんでもアザミに話してきたよ?」

「だからって……」

「私たち、親友・・でしょ? 親友なら隠さず話してよっ!」

 涙ながらに訴えるアザミ――
 ナツキの頭は混乱し、何を言い返せば良いのか分からなくなる。

「ねぇ! ナツキっ!」

「……私さ――」

 頭がグルグル回り、ナツキは訳も分からずアザミに振り向いた。
 自分がどんな顔をしているのかも分からなかった。

「私さ、飽きたんだよね。水泳……」

「……は?」

「あとさ、彼氏できたんだ」

「かれ、し……?」

「楽しくってしょうがないんだよね、水泳なんかに邪魔されたくなくって」

 ナツキの口は止まらない。
 アザミの丸く見開いた目からは、あっという間に涙が乾いていく。

「だから、もういいかなって……」

「……なにそれ」

 アザミは手を握って拳を震わせ、頭頂部まで徐々に怒りを込み上げていく。
 2人の間に、不穏な空気が立ち込める。

「彼氏? 水泳なんか・・・? ナツキ、それ本気で言ってるの?」

「……だめ?」

 その一言でアザミは激昂げきこうした。誰にも見せたことなかった厳しい目をアザミに向ける。

「ふざけないでよっ! 私たちの夢はそんなに下らなかったの?!」

「夢って……アザミ、大げさだよ」

「またバカにするっ!」

「バカになんかしてないっ! でも現実を見て? ここはスポーツ推薦も無い平凡な女子校――仮に全国行けたとして、その先になにがあるの?」

「そんなの、そんなのっ――」

 ナツキの言葉を受け、アザミの声は細くなっていく。
 お互いの心が締め付けられる。

「アザミも分かってるんでしょ? こんなのムダだって」

「わたしは、なんでっ……」

「私、マジメに練習すんの……疲れちゃった」

「どう、してっ……」

 ナツキの口からは、余計な言葉が止まらない。
 その言葉に圧され、アザミは地べたに手をついて座り込んだ。顔をうつむけて大粒の涙を流す。

「……ごめん、泳ぐ気なくなっちゃった。帰るね」

「うっ、ううっ……なつ、き――」

 その場から急いで離れたくなり、ナツキは水着姿のままバッグを持ってアザミから距離を取る。
 離れたロッカーで着替え直す間も、後ろからはアザミの泣き声がどこまでもついてきた。




 ***




「うわー ほんとに入れるんだ」

「特別だからな」

 プール棟の入り口で、厳重に掛かった鍵を明人は手際よく外していく。
 立ち入り禁止とされた辺り一帯はシンと静まり、外の暗さと同調して気味悪さを演出する。常人にとっては寒気が止まらない空間で、明人も葵も臆することなく中へと進み、冷静に電気を点けてナツキに振り向いた。

「そのロッカーとやらを教えてもらおうか」

「あ、うん。こっちね――」

 ナツキは寒がりながらも2人を先導し、更衣室へと向かう。敷き詰められたロッカーがより一層不気味さを増していた。

「はい、このロッカーがアザミの」

「そうか……鍵は?」

「あー、そうだったね――」

 ナツキは、自身の制服にあるポケットをまさぐって鍵を探る。中でつっかえて手間取った様子だが、目的の鍵はすぐに明人の手前に差し出された。

「はい、なんか分かるといいんだけど……私はプールサイドの方を見てくるね」

「ああ、分かった」

 ナツキは、そそくさと更衣室から出て行ってしまう。明人は気にすることなくロッカーに鍵を刺す。
 そして、建付けの悪いロッカーの扉をゆっくりと開いていく。葵も背伸びをして明人の肩越しにロッカーの中を覗き込む。

「……外れだな」

 予備の水着、鏡、化粧品、お菓子、飲みくさしのミネラル水――
 特別手掛かりになる物は見当たらない。

「あれ? どうだった?」

 ナツキは、思いのほか早くプールサイドから戻ってきた。明人と葵は合わせて首を横に振る。

「プールサイドは?」

「なんもないよ。中は空っぽだしね」

「どうするんだ明人?」

「他のロッカーも気になるが……」

 ナツキは、キョロキョロと辺りを見回した。
 この膨大な量のロッカーを1つずつじ開けるには、あまりに遅い時間だった。

「ひとまずは作戦を練り直すか」

「あれ? 帰っちゃう?」

「長くいてもしょうがない。葵、電気を消してくれ」

「分かった」

 葵が電気を落とし、更衣室はりガラスの窓から入るボンヤリした光だけが頼りになる。

「また明日かな?」

「気は済んだだろ? もう俺たちに構うな」

「あれー そんなこと言っていいのー?」

 厳重に鍵を閉め直す――
 その後ろから、ナツキは明人の「急所」を強く握り込んだ。

「また明日、ね?」

「ぐっ――」

 鈍い痛みに耐え、明人たちは暗くなったプール棟を後にした。
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