篠辺のお狐様

梁瀬

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過去 夕霧

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「朝霧、今日はママと一緒に、お出掛けするわよ。」
怖いくらい機嫌がいい母親の様子に、
「夕ちゃんも一緒だよね?」
朝霧が不安そうに聞くと、
「あの子は、行かないって言うはずよ。」
 口紅を塗り、仕上げに鏡に映る自分に笑顔を向けて、満足そうにしている母親に
「夕ちゃんも一緒がいいな。」
そう言うと、鏡越しに微笑んで首を振った。朝霧は、
「私も、お留守番してる。」
 母親は、さっきまでの鏡越しの笑顔を一瞬で消し、片眉を上げて振り返った。
その姿に言葉を失い、朝霧は後退った。
 そして急いで、妹の所へ行き
「ごめんね。一緒にお留守番ダメだって…。早く帰ってくるようにするから待ってて。」
涙ぐみ、妹の顔をじっと見ている朝霧に
「いってらっしゃい。」
そう言って妹は笑って、片手を振った。

 夕方、やっと母親と一緒に帰宅すると、家の中は静かだった。
「夕ちゃーん、ただいまー。」
朝霧は急いで靴を脱ぎ、家に入った。
 リビングに妹の姿がないので、二人の部屋のドアをそっと開けた。
「夕ちゃん…寝てるの?」
部屋のベッドで、読みかけの本を開いたまま、横になっている妹に
「ただいま。」
小さい声で言い、妹の顔にかかっている髪を、小さな指でかき分けた。
 その時、妹の顔が熱く赤い事に気付き、慌てて母親の所へ行き様子を伝え、急いで病院へ向かった。

 夏の暑い日に5歳の女の子が一人、クーラーもない家で、窓を開けていたとはいえ留守番していて、熱中症と脱水症状を起こし、熱を出して倒れていたのである。
 医師には
「発見が遅く、脱水症状も酷く、高熱が続いていて、大変危険な状態です。数日が峠でしょう。」
さすがに青くなった母親が、声を震わせて
「…峠を越した状態とは?」
「そうですね…点滴で脱水症状が落ち着き、高熱が下がり、意識が取り戻せれば…一番の峠は越したと言えると思います。」
 医師と母親の話しの意味は分からなくても、朝霧には、妹が大変な状態だという事だけは分かった。

 ナースステーションが近い個室には、妹のベッドと、小さいソファーがあり、そこへ大人用の簡易ベッドを入れて貰い、母親と一緒に付き添う事になった。
 朝霧は不安で仕方なかった。
これから先、妹が寝たままで、話も出来ず、起きてこないような事になったら…そう考えると、不安と恐怖で押しつぶされそうだった。
 同時に、後悔ばかりが浮いてきて、涙が止まらなかった。

〝一緒に出掛けていたら〟
〝一緒に留守番していたら〟
〝早く帰って来れるようにするから待ってて。何て言わなかったら〟
〝私がもっと強かったら…〟
 朝霧の頭の中は、今朝の事が繰り返し出てきて、
〝あの時、こうしていれば…〟〝もしも…〟と戻れない時間を彷徨っていた。
 幼い朝霧には、何も出来ず、何も言葉にならず、ただ妹の手を握り、
「夕ちゃん、ごめんね…。」
そう繰り返すだけだった。

 入院して二日目の夜、もう片時も離れたくない朝霧は、妹の眠るベッドで一緒に横になり、妹の手を握りながら、ウトウトと浅い眠りに入った時
「おか…えり。」
妹の声が聞こえたような気がして、反射的に妹の手を強く握った。
「うーっ朝ちゃん、痛い。」
そう言いながら、点滴が繋がっている手を、そっと動かし姉の手の甲をポンポンと軽く叩いた。
声と手の感触に飛び起きた朝霧は、これ以上ないくらい大きく見開いた目で、暫く妹を見つめ、
「…ごめん。」
瞬きもせず、ポロポロと大粒の涙を流しながら、妹の手をそっと包み込んだ。

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