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その後の話
久瀬家にて(後編)
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「あぁ、安心しろよ。あの事件からすぐ、この地域から不良どもは一掃されたからな。治安は良くなってる筈だ」
そうか。
これから杏と柚くんが通うであろう中学校の話だ。
「ヤツらが溜まり場にしてた物置小屋も取り壊されて、もうねぇよ」
オレの不安を先回りして消してくれたのだ。
言葉は荒いが、優馬さんは優しい。
コーヒーの缶を持つ右手を、左手の指が辿る。
「…オレは今でも、でけぇ手に、手首を掴まれると動けなくなっちまう」
吹き抜けた風にかき消されそうな声。
「オレも…複数の男に囲まれると、動けない。声も出なくなってしまいます」
温泉街の寂れた商店街で、5人の男に囲まれて、掠れた声しか出せなかった。
身体が動かなくて、怖かった。
詩音から護身術を習ったけど、それでもやっぱり身体がすくんでしまうと思う。
優馬さんの目から、涙がぽろりと落ちた。
悔しそうにガシガシ手拭いで乱暴に拭うから、目を傷つけないか心配になる。
どちらともなく、プシッとアイスコーヒーの缶を開けてゴクリと飲んだ。
その喉を通る冷たさに、思わず目を閉じた。
「…なぁ、なんでアイツを許せたんだ?あの男はあんたを地獄に落とした張本人だろ」
いろんな相手から、もう何度も投げかけられた問い。
オレ自身、何度も自分に問いかけた。
「確かに、オレは地獄へ落とされました。…その代わり、彼は天国も与えてくれた」
「…今が幸せだからいいってか?」
はっ、と息を吐くように優馬さんが笑った。
「詩音はオレだけを求めてくれたんです。オレは、彼を選んだ。……大事な息子の手を離して」
「あの女があんたを嵌めて出来たガキなんだろ?」
優斗さんはこの人にもアズの話をしたのか。
「勘違いすんなよ。優斗はオレに嘘をつけない。それを利用して、オレが無理矢理聞き出しただけだ」
この人は嘘が嫌いなんだ。
「…アルコールのせいにして、彼女から逃げることもできたのでしょう。でも…。おそらくオレは…失った家族の代わりが欲しくて、彼女の手を取った。子どもを産んでくれる彼女となら家族になれるかもしれない…と」
「失った家族?」
「オレと詩音は施設育ちなんですよ。中1の冬、オレは両親を事故で亡くしました。相手は居眠り運転の逆走車でした」
13歳になる誕生日の前日、オレは1人になった。
施設では部屋に閉じこもったし、ミサト先生に、たくさん迷惑をかけた。
だからこそ、知っている。
中学1年生なんて、まだ子どもだ。
この人が受けた苦しみを、想像してしまう。
許せないだろう。
加害者を。
弱かった自分自身を。
それでも、
「…詩音は両親の顔さえ知らなかった」
優馬さんは黙ってオレの言葉を待ってくれている。
「オレは両親がくれた愛情を覚えている。でも、彼は知らなかった」
もちろん『親の愛』が全てではない。
ミサト先生、彩人、啓一先生、竜瑚をはじめ、関わってきた全ての人々が詩音に『人としての感情』を渡してくれたのだろう。
「彼は子どもの頃から、ずっと“奪われる側”で。それでも1人、戦っていました」
親のようだったミサト先生を奪われ、
施設の男から暴力を受けながら、必死に戦って親友を守っていた。
その大切な親友も奪われた。
さらには…性の搾取。
具体的には言わなくても、優馬さんには伝わったのかもしれない。
彼が見たであろう動画。
詩音は、性行為に慣れていた。
カメラの前で“見せるための行為”に、慣れすぎていたのだから。
「その彼がオレに『愛してる』と言って、初めての『愛』をオレにくれたんです。オレはそれを『嬉しい』と感じた。彼を『愛おしい』と思いました」
奪われ続けた彼が、オレを求めてくれた。
『愛してほしい』のだと。
「……あー。あれか? 噛みついてきた野良犬が自分だけに懐いてきたから、すげぇ可愛くなって拾っちまった、みたいな?」
詩音が野良犬…。
そういえば、あの頃のアイツは前髪が長くてボサボサだった。
初めて『ありがとう』と笑った顔、その優しい目を見て、胸がキューッとなってしまったんだ。
なんだろう。
すごくシンプルなのに、言い得て妙だ。
「犬を拾ったら最後まで、って言うもんな」
オレは、最後まで詩音の側にいる。
「はい」
「まぁ、そう考えると。あの女はあんたを本当に愛してなかったのかもな。男に脅されてたあんたの変化に全く気付かず、ガキ連れて出て行っちまったんだからな」
身も蓋もない…。
でもそうかもしれない。
詩音に脅されていた頃。
無理矢理キスされたあの日。
彼女は一方的に浮気だと決めつけてオレを捨てた。
信じてくれなかった。
信じてほしかった。
あの時の絶望が、彼女を愛していると思っていたオレの気持ちを凍り付かせたのだ。
「…でもさ、あんたは忘れられンのかよ?」
「?」
「…オレは今でも男の笑い声を聞くとビクついちまう。情けなくて死にたくなる」
「…分かります。忘れられるわけがない」
あの『イベント』で、『派遣』で、死を覚悟するほどの目に遭わされた。
いっそ殺してほしい。
死にたい、と、思った。
「…親には『もう大丈夫』『忘れた』『心配すんな』って言ってるけどさ。……未だに忘れられねぇんだ。嫌な夢で飛び起きることも結構あるし」
「オレも…、」
1人でいた頃。
詩音と2人で暮らすようになってからもしばらく。
酷い悪夢に魘され続けた。
ダメだと分かっていても、悪夢のスイッチになっているのかもしれないと気付いてからも、無意識に右足首へ手を伸ばして、触れてしまった。
その時、詩音がくれた右足首のアンクレットを思い出した。
「……オレは、監禁されてる間、足枷をずっと付けられ、鎖で繋がれていました。解放されてからも、この足首に残る傷跡へ触れる度に悪夢を見て」
「足枷、鎖…」
「でも、これを彼に貰ったんです。『夢の中でもお前と繋がっていいのはオレだけだ』って。これを嵌めてもらってから安心して眠れるようになりました」
詩音とお揃いのアンクレット。お互いのそれを合わせないと外せない、2人で生きると決めた約束の証。
彼は眠りに落ちる前、これに必ず口付けてくれる。
「結婚指輪みたいなもんか?」
「指輪なんて甘いものじゃなくて。…考えてみれば、これも足枷に近いのかも」
彼と繋がる足枷。
カチッと鍵をかけられた時に感じたもの。
アズに指輪を渡した時。
互いの指に嵌めた時。
あそこまで胸が震えなかった。
あの時、詩音へ感じた『激しい気持ち』が『愛』なのだとしたら、オレは彼女を愛していなかったのかもしれない。そう思ってしまうほどに。
「……オレも、彼氏にお願いしよっかな」
仕事柄、指輪や腕輪などのアクセサリーは衛生面への心配や、醤油作りの木桶へ落下させるなどの危険があるのだろう。外せば紛失の恐れもある。
“アンクレット”と聞いて心に響いたようだった。仕事中は上から靴下を履いてしまえば落とさずに済む。
どこで買ったものか問われたが分からない。
「詩音に訊いてみます」
と答えると、
「いや、直接訊くからいいや。次は2人で来るんだろ?」
“2人で”。
その返ってきた自然な言葉が、じわりと胸に沁みた。
「はい!」
「……あぁそっか。アイツがわざわざここに詫び入れに来たのは、自分の経験があったからなんだな」
空を見ていた優馬さんがぽつりと言った。
「杏から父親を奪ったんだ。自分が欲しくて仕方なかった“親の情”ってやつを」
「そう…ですね」
「難しく考えすぎだ。優斗とあんた。…それにアイツ。みんなで“親父”になってもいいじゃねぇか」
オレは杏の父親でいてもいいんだろうか。
詩音を選んだオレが、杏のことも愛していいのか。
「そんな都合のいいこと…」
「都合のいい時に全力で愛してやればオッケーだろ! 基本、優斗とお袋に任せとけば大丈夫だ。その代わり、杏と会う時は2人がかりで可愛がってやれよ」
「…はい。ありがとうございます」
0か100か、杏か詩音か、どちらか選ばなくてはならないのだと思い込んでいたのかもしれない。
優馬さんの言葉が、ふわっと心を軽くしてくれる。もちろん杏の気持ちを大切にしたい。
許されるのならオレも、あの子の父親でありたい。
できれば詩音も一緒に。
「柚のことも差別せずにな!」
『菓子を片方にしか買ってこないとか、絶対にすんなよ』とすごく念を押してくる。
2人兄弟で何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
もちろん、杏と柚くんを同じように大事にする。
「…ああ、 柄じゃねぇわ! さっきは傷の舐め合いみたいなことさせちまって悪かった。…これ飲んだらじいさんの墓参りしような。『待ちかねた!』って怒られるかもしんねぇけど」
思わず笑ってしまう。
会長は短気なところがあったから、確かに怒られそうだ。
2人で少しぬるくなったコーヒーを飲み干す。
「なぁ。あんたはオレたちの家族になったんだろ?」
「はい。陽子さんはそう仰ってくださいました」
「なら、その堅苦しいのやめろよ」
少し迷ったが、甘えさせてもらうことにした。
「……あぁ、分かった。オレのことは“凛”と呼んでほしい」
「オレも“優馬”でいい」
「うん。……誰にも話せないことがあったら、聴くよ。優馬」
「おう。凛も話せよ」
あの頃の体験を話せば話すほど、記憶が深まってしまう。その可能性は確かにあるのだろう。
でも、ひとりじゃない。
その奇妙な安心感は、詩音の母・海砂さんに対して感じたものと似ている気がする。
優馬が右手を差し出してくる。
その手をギュッと握れば、
すぐに握り返されて
ニカっとした笑顔が向けられた。
その顔は、まるで向日葵みたいな陽子さんの笑顔とよく似ていた。
彼の話し方は、もしかすると『男らしく見られたい』という気持ちの現れなのかもしれない。
男から『性の対象』として見られることへの恐怖。オレは、それをよく知っている。
持ってきたお線香に火をつける。
風に消えてしまうかと思ったその時、
優馬の両手が風除けを作ってくれた。
「ありがとう」
「…いちいち言わなくていい」
素直じゃないその言葉。
まるでカラカラ笑うように、吹いた風で塔婆のぶつかり合う音が響いた。
「じいさんに笑われた」
オレが思ったようなことを優馬が口に出すから、思わずオレも笑ってしまった。
◇
「優馬!!!」
お参りを終えたオレたちが大きな門の前まで戻って来た時だった。
頭に手拭いを巻いたクマみたいに大きな男が中から走り出て来た。
「…これ、オレの彼氏」
優馬さんは、オレを視線で威嚇してくる大男に抱きしめられながら力なく言った。
…ああ。
この人も、ずっと事件に囚われているのだろう。心配なんだ。
「大志…痛い。いてぇって馬鹿力…」
「すまない」
パシパシ叩いて抵抗するその手を見て、ようやく大男は優馬の身体をそっと離した。
「この人は結城 凛さん。…ほら、杏の父ちゃんだよ」
「…杏の。…そうか」
この人もオレの事情を知っているのだろう。
ようやく鋭かった視線が緩められた。
それどころか、眉がやや下がっている。
「あんたもすまない」
「こちらこそ、急にお邪魔して申し訳ありません。…杏のことも」
頭を下げると、オレの背中にバシッと衝撃が走った。大きな手に叩かれたらしい。
痛い。
「オレたちも杏のことを気に入っている。安心していい」
涙目で顔を上げると、2人とも優しい目でオレを見ていた。
「杏も柚も、オレたちが守ってやる。かわいい甥っ子たちだからな」
◇
車の助手席には来た時より多い荷物。
会長が書いてくれた筆文字が印象的なラベル。再仕込み醤油は社長から。
新商品だという醤油プリンが入ったクーラーバッグは陽子さんから。
最初から最後まで任されて仕込んだ、初めての醤油なのだという瓶は優馬から。
最後は大志さんからだ。
「蔵の人間はみな持っている」
少ない言葉と共に渡されたのは久瀬醤油のロゴが入った手拭い。それは、2枚あった。
おそらくオレと詩音を『蔵の仲間』に入れてくれた、ということなのだろう。
ごとごと揺れる農道を、瓶が割れないよう気をつけて走る。
「今度は2人で来なさい」
「泊まれるように準備して来て」
社長と陽子さんの温かい声。
「…彼氏とイチャイチャしても大丈夫な部屋を用意しとく」
オレの耳元に囁いたのは優馬。
その身体を引き戻し、黙って後ろからギュッと抱きしめる大志さん。
思い出して「ふふっ」と笑ってしまう。
帰ったら詩音の好物を作ってやろう。
やっぱり『唐揚げが食べたい』って言うかな。
それから頭をぐりぐり撫でて、
思いっきり抱きしめよう。
久しぶりに
「愛してる」と言葉で伝えてみるか。
あぁ、でも。
夜勤前だから体力は使わせないようにしないと。
明日は詩音も休みだったはず。
……うん。覚悟した方がいいかもしれない。
そうか。
これから杏と柚くんが通うであろう中学校の話だ。
「ヤツらが溜まり場にしてた物置小屋も取り壊されて、もうねぇよ」
オレの不安を先回りして消してくれたのだ。
言葉は荒いが、優馬さんは優しい。
コーヒーの缶を持つ右手を、左手の指が辿る。
「…オレは今でも、でけぇ手に、手首を掴まれると動けなくなっちまう」
吹き抜けた風にかき消されそうな声。
「オレも…複数の男に囲まれると、動けない。声も出なくなってしまいます」
温泉街の寂れた商店街で、5人の男に囲まれて、掠れた声しか出せなかった。
身体が動かなくて、怖かった。
詩音から護身術を習ったけど、それでもやっぱり身体がすくんでしまうと思う。
優馬さんの目から、涙がぽろりと落ちた。
悔しそうにガシガシ手拭いで乱暴に拭うから、目を傷つけないか心配になる。
どちらともなく、プシッとアイスコーヒーの缶を開けてゴクリと飲んだ。
その喉を通る冷たさに、思わず目を閉じた。
「…なぁ、なんでアイツを許せたんだ?あの男はあんたを地獄に落とした張本人だろ」
いろんな相手から、もう何度も投げかけられた問い。
オレ自身、何度も自分に問いかけた。
「確かに、オレは地獄へ落とされました。…その代わり、彼は天国も与えてくれた」
「…今が幸せだからいいってか?」
はっ、と息を吐くように優馬さんが笑った。
「詩音はオレだけを求めてくれたんです。オレは、彼を選んだ。……大事な息子の手を離して」
「あの女があんたを嵌めて出来たガキなんだろ?」
優斗さんはこの人にもアズの話をしたのか。
「勘違いすんなよ。優斗はオレに嘘をつけない。それを利用して、オレが無理矢理聞き出しただけだ」
この人は嘘が嫌いなんだ。
「…アルコールのせいにして、彼女から逃げることもできたのでしょう。でも…。おそらくオレは…失った家族の代わりが欲しくて、彼女の手を取った。子どもを産んでくれる彼女となら家族になれるかもしれない…と」
「失った家族?」
「オレと詩音は施設育ちなんですよ。中1の冬、オレは両親を事故で亡くしました。相手は居眠り運転の逆走車でした」
13歳になる誕生日の前日、オレは1人になった。
施設では部屋に閉じこもったし、ミサト先生に、たくさん迷惑をかけた。
だからこそ、知っている。
中学1年生なんて、まだ子どもだ。
この人が受けた苦しみを、想像してしまう。
許せないだろう。
加害者を。
弱かった自分自身を。
それでも、
「…詩音は両親の顔さえ知らなかった」
優馬さんは黙ってオレの言葉を待ってくれている。
「オレは両親がくれた愛情を覚えている。でも、彼は知らなかった」
もちろん『親の愛』が全てではない。
ミサト先生、彩人、啓一先生、竜瑚をはじめ、関わってきた全ての人々が詩音に『人としての感情』を渡してくれたのだろう。
「彼は子どもの頃から、ずっと“奪われる側”で。それでも1人、戦っていました」
親のようだったミサト先生を奪われ、
施設の男から暴力を受けながら、必死に戦って親友を守っていた。
その大切な親友も奪われた。
さらには…性の搾取。
具体的には言わなくても、優馬さんには伝わったのかもしれない。
彼が見たであろう動画。
詩音は、性行為に慣れていた。
カメラの前で“見せるための行為”に、慣れすぎていたのだから。
「その彼がオレに『愛してる』と言って、初めての『愛』をオレにくれたんです。オレはそれを『嬉しい』と感じた。彼を『愛おしい』と思いました」
奪われ続けた彼が、オレを求めてくれた。
『愛してほしい』のだと。
「……あー。あれか? 噛みついてきた野良犬が自分だけに懐いてきたから、すげぇ可愛くなって拾っちまった、みたいな?」
詩音が野良犬…。
そういえば、あの頃のアイツは前髪が長くてボサボサだった。
初めて『ありがとう』と笑った顔、その優しい目を見て、胸がキューッとなってしまったんだ。
なんだろう。
すごくシンプルなのに、言い得て妙だ。
「犬を拾ったら最後まで、って言うもんな」
オレは、最後まで詩音の側にいる。
「はい」
「まぁ、そう考えると。あの女はあんたを本当に愛してなかったのかもな。男に脅されてたあんたの変化に全く気付かず、ガキ連れて出て行っちまったんだからな」
身も蓋もない…。
でもそうかもしれない。
詩音に脅されていた頃。
無理矢理キスされたあの日。
彼女は一方的に浮気だと決めつけてオレを捨てた。
信じてくれなかった。
信じてほしかった。
あの時の絶望が、彼女を愛していると思っていたオレの気持ちを凍り付かせたのだ。
「…でもさ、あんたは忘れられンのかよ?」
「?」
「…オレは今でも男の笑い声を聞くとビクついちまう。情けなくて死にたくなる」
「…分かります。忘れられるわけがない」
あの『イベント』で、『派遣』で、死を覚悟するほどの目に遭わされた。
いっそ殺してほしい。
死にたい、と、思った。
「…親には『もう大丈夫』『忘れた』『心配すんな』って言ってるけどさ。……未だに忘れられねぇんだ。嫌な夢で飛び起きることも結構あるし」
「オレも…、」
1人でいた頃。
詩音と2人で暮らすようになってからもしばらく。
酷い悪夢に魘され続けた。
ダメだと分かっていても、悪夢のスイッチになっているのかもしれないと気付いてからも、無意識に右足首へ手を伸ばして、触れてしまった。
その時、詩音がくれた右足首のアンクレットを思い出した。
「……オレは、監禁されてる間、足枷をずっと付けられ、鎖で繋がれていました。解放されてからも、この足首に残る傷跡へ触れる度に悪夢を見て」
「足枷、鎖…」
「でも、これを彼に貰ったんです。『夢の中でもお前と繋がっていいのはオレだけだ』って。これを嵌めてもらってから安心して眠れるようになりました」
詩音とお揃いのアンクレット。お互いのそれを合わせないと外せない、2人で生きると決めた約束の証。
彼は眠りに落ちる前、これに必ず口付けてくれる。
「結婚指輪みたいなもんか?」
「指輪なんて甘いものじゃなくて。…考えてみれば、これも足枷に近いのかも」
彼と繋がる足枷。
カチッと鍵をかけられた時に感じたもの。
アズに指輪を渡した時。
互いの指に嵌めた時。
あそこまで胸が震えなかった。
あの時、詩音へ感じた『激しい気持ち』が『愛』なのだとしたら、オレは彼女を愛していなかったのかもしれない。そう思ってしまうほどに。
「……オレも、彼氏にお願いしよっかな」
仕事柄、指輪や腕輪などのアクセサリーは衛生面への心配や、醤油作りの木桶へ落下させるなどの危険があるのだろう。外せば紛失の恐れもある。
“アンクレット”と聞いて心に響いたようだった。仕事中は上から靴下を履いてしまえば落とさずに済む。
どこで買ったものか問われたが分からない。
「詩音に訊いてみます」
と答えると、
「いや、直接訊くからいいや。次は2人で来るんだろ?」
“2人で”。
その返ってきた自然な言葉が、じわりと胸に沁みた。
「はい!」
「……あぁそっか。アイツがわざわざここに詫び入れに来たのは、自分の経験があったからなんだな」
空を見ていた優馬さんがぽつりと言った。
「杏から父親を奪ったんだ。自分が欲しくて仕方なかった“親の情”ってやつを」
「そう…ですね」
「難しく考えすぎだ。優斗とあんた。…それにアイツ。みんなで“親父”になってもいいじゃねぇか」
オレは杏の父親でいてもいいんだろうか。
詩音を選んだオレが、杏のことも愛していいのか。
「そんな都合のいいこと…」
「都合のいい時に全力で愛してやればオッケーだろ! 基本、優斗とお袋に任せとけば大丈夫だ。その代わり、杏と会う時は2人がかりで可愛がってやれよ」
「…はい。ありがとうございます」
0か100か、杏か詩音か、どちらか選ばなくてはならないのだと思い込んでいたのかもしれない。
優馬さんの言葉が、ふわっと心を軽くしてくれる。もちろん杏の気持ちを大切にしたい。
許されるのならオレも、あの子の父親でありたい。
できれば詩音も一緒に。
「柚のことも差別せずにな!」
『菓子を片方にしか買ってこないとか、絶対にすんなよ』とすごく念を押してくる。
2人兄弟で何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
もちろん、杏と柚くんを同じように大事にする。
「…ああ、 柄じゃねぇわ! さっきは傷の舐め合いみたいなことさせちまって悪かった。…これ飲んだらじいさんの墓参りしような。『待ちかねた!』って怒られるかもしんねぇけど」
思わず笑ってしまう。
会長は短気なところがあったから、確かに怒られそうだ。
2人で少しぬるくなったコーヒーを飲み干す。
「なぁ。あんたはオレたちの家族になったんだろ?」
「はい。陽子さんはそう仰ってくださいました」
「なら、その堅苦しいのやめろよ」
少し迷ったが、甘えさせてもらうことにした。
「……あぁ、分かった。オレのことは“凛”と呼んでほしい」
「オレも“優馬”でいい」
「うん。……誰にも話せないことがあったら、聴くよ。優馬」
「おう。凛も話せよ」
あの頃の体験を話せば話すほど、記憶が深まってしまう。その可能性は確かにあるのだろう。
でも、ひとりじゃない。
その奇妙な安心感は、詩音の母・海砂さんに対して感じたものと似ている気がする。
優馬が右手を差し出してくる。
その手をギュッと握れば、
すぐに握り返されて
ニカっとした笑顔が向けられた。
その顔は、まるで向日葵みたいな陽子さんの笑顔とよく似ていた。
彼の話し方は、もしかすると『男らしく見られたい』という気持ちの現れなのかもしれない。
男から『性の対象』として見られることへの恐怖。オレは、それをよく知っている。
持ってきたお線香に火をつける。
風に消えてしまうかと思ったその時、
優馬の両手が風除けを作ってくれた。
「ありがとう」
「…いちいち言わなくていい」
素直じゃないその言葉。
まるでカラカラ笑うように、吹いた風で塔婆のぶつかり合う音が響いた。
「じいさんに笑われた」
オレが思ったようなことを優馬が口に出すから、思わずオレも笑ってしまった。
◇
「優馬!!!」
お参りを終えたオレたちが大きな門の前まで戻って来た時だった。
頭に手拭いを巻いたクマみたいに大きな男が中から走り出て来た。
「…これ、オレの彼氏」
優馬さんは、オレを視線で威嚇してくる大男に抱きしめられながら力なく言った。
…ああ。
この人も、ずっと事件に囚われているのだろう。心配なんだ。
「大志…痛い。いてぇって馬鹿力…」
「すまない」
パシパシ叩いて抵抗するその手を見て、ようやく大男は優馬の身体をそっと離した。
「この人は結城 凛さん。…ほら、杏の父ちゃんだよ」
「…杏の。…そうか」
この人もオレの事情を知っているのだろう。
ようやく鋭かった視線が緩められた。
それどころか、眉がやや下がっている。
「あんたもすまない」
「こちらこそ、急にお邪魔して申し訳ありません。…杏のことも」
頭を下げると、オレの背中にバシッと衝撃が走った。大きな手に叩かれたらしい。
痛い。
「オレたちも杏のことを気に入っている。安心していい」
涙目で顔を上げると、2人とも優しい目でオレを見ていた。
「杏も柚も、オレたちが守ってやる。かわいい甥っ子たちだからな」
◇
車の助手席には来た時より多い荷物。
会長が書いてくれた筆文字が印象的なラベル。再仕込み醤油は社長から。
新商品だという醤油プリンが入ったクーラーバッグは陽子さんから。
最初から最後まで任されて仕込んだ、初めての醤油なのだという瓶は優馬から。
最後は大志さんからだ。
「蔵の人間はみな持っている」
少ない言葉と共に渡されたのは久瀬醤油のロゴが入った手拭い。それは、2枚あった。
おそらくオレと詩音を『蔵の仲間』に入れてくれた、ということなのだろう。
ごとごと揺れる農道を、瓶が割れないよう気をつけて走る。
「今度は2人で来なさい」
「泊まれるように準備して来て」
社長と陽子さんの温かい声。
「…彼氏とイチャイチャしても大丈夫な部屋を用意しとく」
オレの耳元に囁いたのは優馬。
その身体を引き戻し、黙って後ろからギュッと抱きしめる大志さん。
思い出して「ふふっ」と笑ってしまう。
帰ったら詩音の好物を作ってやろう。
やっぱり『唐揚げが食べたい』って言うかな。
それから頭をぐりぐり撫でて、
思いっきり抱きしめよう。
久しぶりに
「愛してる」と言葉で伝えてみるか。
あぁ、でも。
夜勤前だから体力は使わせないようにしないと。
明日は詩音も休みだったはず。
……うん。覚悟した方がいいかもしれない。
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