愛を請うひと

くろねこや

文字の大きさ
上 下
162 / 175
その後の話

久瀬家にて(前編)

しおりを挟む
「いらっしゃいませ。あら…結城さん!?」

外にまで届く醤油のいい匂い。立派な木のはり、アパートの2階分くらいある高い天井、少し薄暗い建物の中。

響いた元気な声は、久瀬くぜ社長の奥さん…陽子はるこさんだ。

久瀬醤油の経理でありながら、直売所で販売と蔵見学の受付・案内まで担当している。

約束なく訪れた上、いつも着ていたスーツ姿ではなかったから驚かせてしまったようだ。


今日は土曜日。佐久間さんの事務所で、優斗さんに会ってすぐの休日。

まだこの家にきょうはいないのだろう。

今朝帰宅してさらに夜勤がある詩音は家に置いてきた。付いて来ようとしたが、飯を食わせてベッドに押し込み 無理矢理寝かしつけた・・・・・・・・・・

…唇が腫れている気がする。




「いきなり退職してしまい、ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」

お詫びの菓子折りを差し出して、不義理を謝り頭を下げたオレのために、久瀬社長と陽子さんが時間をとってくれた。


「いいんだよ。すぐに佐藤くんが対応してくれたからね」

突然会社を辞めることになり、引き継ぎは出来なかったが、会社のパソコンに顧客データを細かく記録しておいたのが役に立ったらしい。

後輩の佐藤くんは入社したばかりの頃、オレとペアになって動いていたから、データの存在を思い出して引き継いでくれたのだろう。

「謝らなくていいのよ。ただ心配だっただけだから。佐藤さんも心配していたから、連絡してあげて」

オレへのストーカー行為と現役刑事への傷害によって、元社長が再び逮捕されたこともあり、とてもではないがあの会社へ挨拶しに行く気にはなれなかった。

それにオレの件は、佐藤くんや他の社員も知っているはずだ。

男に拉致され、犯された際の動画をネタに脅迫を受けた。その後、監禁され、性的暴行を受け続け、動画が有料配信をされていた。

そんなニュースがテレビで報じられていたからだ。

オレの有料コンテンツに金を溶かしたせいで、あのクソ社長は身を滅ぼした…というあたりも社内で知られているだろう。


監禁される前にオレは、自主的に仕事を辞め、妻との離婚届を提出したことになっていたから、ネットニュースやSNS、掲示板はさらに酷く荒れたようだ。

離婚届は『偽造されたもの』だと、解放された時のオレは否定しなかった。

そのせいもあるのだろう。




「それより、元気そうで安心したわ」

陽子さんがオレの顔を見て笑った。

この人たちにも事件を知られているはずだ。

それなのに、触れないでくれている。


「杏のことも、申し訳ありません」

「ああ、優斗から聞いているよ。君は何も心配しなくていい」


お前が育てないのか?

そう聞かれるかと思った。

アズが子どもたちと別れて暮らすことを選ぶなら、オレが杏の親権を得るという選択肢も出てくるからだ。


「ですが…せめて養育費を払わせてください」

言葉を選ぼうとしたけれど、見つからなかった。久瀬さんたちは、オレの…他人の子である杏をここに住まわせてくれるという。

だが、せめてお金だけでも受け取ってもらえないだろうか。

「杏くんはもう、うちの孫なのよ。受け取れないわ」

差し出した封筒は、すぐに返されてしまった。

「お金なら心配しないで。うちの息子たちったら、1人は進学せずにあっさり家業を継いでしまうし、もう1人は地元の大学を出てすぐにスーパーへ就職するんだもの。『うちの醤油を全国で売るんだ』なんて意気込んで」

てっきり2人とも『こんな田舎の蔵を継ぐなんて嫌だ。上京して大学に行く!』って言うと思って覚悟して準備してたのに。ドラマの見過ぎかしら…と頬に手を当てる陽子さん。

確かに本やドラマとかでよく見る設定だ。


「それにね。有名な料理人や料理研究家が、うちのお醤油を使ってるって言ってくれたんだよ。君にオンラインショップを作ってもらって大正解だった。いまだに定期購入してくださるお客様が多いんだ」

こんな田舎の蔵なのに、海外からも問い合わせがあってね、と嬉しそうな笑顔に思わずオレの口元も綻んでしまう。

「だから、お金の心配はいらないわ。心配しないで」


だが、杏より詩音を選んでしまったオレにできることは、それくらいしか見つからない。

原材料費も高騰している時代だ。お金はあっても困らないのではないだろうか。


「…もしも君が息子のために金を使いたいなら…杏の大事な節目に…。そうだ、学習机を買ってやってくれないか?」

ランドセルなどは全て揃えてくれたそうだ。

だが、机だけは買っていないらしい。

杏が遠慮して断ったのだという。

「はい。すぐに机のカタログを送らせていただきますので、型番をご連絡いただければ…」

「結城くん、そろそろ他人行儀な話し方をやめないかい?もう君は営業の人間じゃないんだ」

「そうよ。結城さんの子がうちの孫…ということは、逆に考えたら結城さんもうちの息子ってことにならないかしら?」

え…?

そうなる…のか?


気がつくとオレは、『凛くん』と呼ばれていた。

どこまで太っ腹なのだろう。優しすぎて悪人に騙されないか少し心配になる。


「そうだ。お金なんて寂しいこと言わないで、お菓子でも持っていつでも会いに来てあげて。杏くんのお父さんは何人いたって良いでしょう?」

そう言って陽子さんが微笑んだ。まるで大輪の向日葵ひまわりが咲いたようだった。




「お義父さんにも会いに行ってくれるの?…少し分かりにくい場所にあるから、息子…優馬ゆうまに案内させるわね」

会長のお墓参りしたいと言うと、『お義父さん、喜ぶわ』と笑って、優斗さんのお兄さんを呼びに行ってしまった。

忙しかったらかえって申し訳ないな。







「あんたが結城さん?」

遠くで聞こえる犬の声。

歴史を感じる立派な門の下に立ち、待っていると、細身の男性に声をかけられた。

この人が優馬さんなのだろう。

作業途中だったのか、頭に手拭いを巻き、紺色のTシャツに黒いタイトなパンツを穿いている。

その人が、いきなりガバッと頭を下げた。

「あんたの彼氏を引っ叩いて悪かった!」


え?彼氏?

彼氏……ってどういうことだ?

まさか詩音…な訳ないよな。


ぽかんとするオレに優馬さんは『しまった!!』という顔をした。


「…彼氏が木曜日、うちに来たんだよ。うっかりしちまった。…今思えば、あんたには黙っててほしいって言われたかも」


詩音からは何も聞いていない。


…そういえば。

会社から帰ったら詩音の左頬が少し赤くなってた日があったな。

ぶつけた、とか言ってた気がする。

まだ在庫ストックがあるのに、お醤油や麺つゆを大量に買ってきたから変だと思った。

この前シフトが休みだった、あの日か。



『オレは彼から仕事と家族を奪いました』

詩音は社長と陽子さんに頭を下げたそうだ。


突然拉致され、強姦された時の動画をアップされた。詩音は社長にURLをメールした。それを観た社長にオレは退職を迫られた。

詩音に無理矢理キスされているところを見たアズは、杏を連れて出て行った。その両親からは、離婚届を提出するよう置き手紙をされた。


あの時、もっと冷静に対応できていたら、オレは『奴隷』にされなかったのかもしれない。

警察に相談する、という選択肢もあった。

今思えば、佐久間さんのような探偵に相談する、という方法もあった。

会社を辞めたって、フリーで活動する道もあった。ウェブ制作ならできるし、仲の良いデザイナーだっていたのだ。アルハラセクハラ社長から引き抜いて、新しく自分の会社を立ち上げることだってできただろう。

そうすれば久瀬醤油さんの仕事を途中で投げ出さずに済んだかもしれない。


でも、監禁された日々があったから。

彼のことを知ることができたからこそ、今の関係があるのだ。


謝らなければならない相手がたくさんいる。

それでもオレは、今の道を選んだことを後悔していない。


きっかけは詩音だったが、彼が久瀬さんたちに謝罪する必要などないんだ。


それに、詩音は

『杏はオレの子でもあると思っています』

『養育費を払わせてください』

そう言ってくれたらしい。

オレには何も言わずに。

そういえば、さっき陽子さんが言っていた。

『杏くんのお父さんは何人いたって・・・・・・良いでしょう?』

…そういうことか。

久瀬さんたちがいくら優しいといったところで、妙に話がスムーズに進みすぎると思ったんだ。


胸がギューっとなる。

……馬鹿だなぁ。

帰ったら詩音の頭をぐりぐりしてやろう。




それにしても何故、詩音はこの人に叩かれたのだろう。


「詩音が、何か失礼なことをしましたか?」

優馬さんは頭の手拭いを取ると、気まずそうに頭を掻いている。


「あんたの彼氏がオレに何かしたわけじゃない。ただ…オレの…勝手な、トラウマっていうか…」



黙ってしまった優馬さんに先導され、門を出てから2分ほど歩いただろうか。

確かに分かりにくい細道を入ると、小さなお堂、墓石がたくさん見えてきた。

その入り口には水道と手桶、自動販売機。少し離れて、よく大きな公園にあるみたいな東屋あずまやがあった。

飲み物を買い、そこのベンチに2人並んで座る。

誰もいない静かな場所だ。



迷うように何度か口を開きかけては閉じ、開きかけては閉じ。

1分くらい経っただろうか。


「…オレさ。ガキの頃、近所の不良ワルどもに拉致られて、輪姦まわされたことがあるんだ」

優馬さんの口から衝撃的な言葉が呟かれた。

まるで独り言のような声。

「これでもガキの頃はオンナみたいなツラしてたんだよ」

と苦く笑った。

確かに、この人の顔立ちは綺麗だ。…でも、

「学校の帰り、後ろから学ランの襟首えりくび掴まれてさ、引き摺られて汚ねぇ小屋に連れ込まれた」

耳から入ってくる言葉を、脳が拒みたがる。

「自分が何されてんのか、全く分かんなかったよ。…中1で、まだ精通もなかったしな」

“中1”という単語に、ズキリと痛みが走る。

「ただ怖くて、気持ち悪くて、すげぇ痛いことを繰り返されて、」

まるでオレに何か言われることを恐れているかのように、その言葉が途切れない。

「ちなみに。その時、助けに来てくれたのが今のオレの彼氏」

優斗さんが言っていた、蔵で働いているという年上の男性のことだろう。

「通学路を何往復もして、帰らないオレを見つけてくれたんだ」

オレの顔を見て、無理してるみたいな顔でヘラリと笑う。


「親父やお袋、死んだじいさんが、急に来なくなったあんたをスゲェ気にしててさ。その名前がニュースで流れて、……オレ、あんたの事件をネットで見ちまってさ。勝手に自分と重ねてたんだ」

この人は、あの拡散された酷い画像や動画を見てしまったのかもしれない。


「まぁ、オレは男だったし。年上とはいえ、相手も全員同じ中学生だったからな。地元の新聞にも載らないほどの小せぇ事件だったんだ」

“小さい事件”?

そんな筈ないだろう。


「半年以上も苦しめられたあんたと比べたら悪い…」

つらかったね」


堪らなくなって、

思わず優馬さんの言葉を止めていた。

頭が真っ白になって、

そんな言葉しか口に出せなかった。


オレは大人だった。

だから耐えられたのだろう。

でも、この人は…。


どれほど苦しめられたのだろう。


どうしてソイツらは、

そんなに残酷なことができたのだろう。



「……うん。……あんたもツラかったな」


揺れる声で言葉を返されて、

あぁ、そうか。と思った。


「うん。辛かった…」


急にオレの声が震えた。


膝へぼたりと大粒の雫が垂れる。


なんで。

目が熱い。


情けない。

まだなのか。


もう、いい加減、


いい加減に

忘れたと思っていたのに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)

ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。 そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。

スライムパンツとスライムスーツで、イチャイチャしよう!

ミクリ21
BL
とある変態の話。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

真・身体検査

RIKUTO
BL
とある男子高校生の身体検査。 特別に選出されたS君は保健室でどんな検査を受けるのだろうか?

処理中です...