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その後の話
大切な相談、繋がっていた縁(後編)
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「…それで、今日ご相談させていただきたいことなのですが…、」
スマホの写真を見せながら、『杏のお兄ちゃんエピソード』を聞かせてくれていた久瀬さんが、姿勢を正して座り直した。
「僕の実家は代々続く醤油蔵でして、両親と兄から戻ってきてほしいと言われました」
『久瀬』という名前を初めて聞いた時、ドキリとした。
「……もしかして久瀬醤油さんですか?」
「やはりご存知でしたか」
「はい。前職でお世話になっていました」
前の会社で営業の仕事をしていた頃。ホームページの制作・保守管理から、パンフレットやラベル、包装紙などのデザインと制作を受けていた。
久瀬さんは横に置いていた紙袋から大きな瓶を取り出すと、『今さらですがこちらを差し上げます』と渡してくれた。
ずしりと重い。醤油だ。
久瀬醤油の会長に筆で書いてもらった力強い文字。思い入れがあるラベル。つい指で撫でてしまう。
「うちで使ってる醤油?」
詩音がそれを見て呟いた。
「そう。麺つゆとポン酢も久瀬さんのだよ。すごく香りが良くて美味しいんだ」
「いつもありがとうございます」
丁寧なお辞儀をもらった。
「うちの蔵がオンラインショップを開設した時、大変お世話になったという『担当の結城さん』は、あなたのことではありませんか?」
「自分です。…その節は突然退職してしまいご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。結城さんの後輩だという方が引き継いで対応してくれているそうです。ただ僕の両親があなたを心配していました」
急病で倒れたのではないかと。
その後、テレビのニュースや新聞でオレが事件の被害者になっていたことを知ったそうだ。
『パソコンは難しい』と久瀬社長夫妻はよく言っていたから、ネットニュースは見ていないと信じたい。
酷い画像や動画。
あのような自分を見られたくない。
「オレのせいだ…」
詩音は呻くように小さく呟いた。
事情を知っている佐久間さんは何も言わない。
久瀬さんはオレ達のことをどこまで知っているのだろう。
カップを手に取りコーヒーを一口飲むと、
「僕の兄には同性のパートナーがいます」
彼はゆっくりと話を始めた。
穏やかな表情を変えないままオレ達2人を見て、言葉を続ける。
「両親は最初こそ悩みましたが…」
相手は蔵で働く職人の1人らしい。久瀬社長より歳下ではあるそうだが、年齢差が大きいそうだ。
「もともと蔵で働く者は皆『家族』のようなものでしたから、まぁいいかと受け入れたようです」
大らかなご両親だ。
久瀬さんはオレ達の関係を知っているんだ。
だからこそ、この話をしてくれたのだろう。
「僕は杏のことを大事な子だと思っています。あの子の弟・柚と一緒に、僕の実家で暮らしたい考えています」
久瀬さんのご両親…久瀬社長夫妻は、杏と柚くんのことを『2人とも大事な孫』だと言ってくれているらしい。
「頑固者の祖父が亡くなり、母家はガランとしてしまいました。『後を継ぐか継がないかは考えなくていい。一緒に暮らしてくれたら賑やかで嬉しい』と、父と母は言っています」
お兄さんとそのパートナーは、母家や蔵と同じ敷地内に建つ別の家に暮らしているそうだ。
久瀬さんはスーパーで正社員として働いているそうだが、育休をもらって子ども達と過ごすうち、転職を考えるようになったのだという。
確かにスーパーでは休日こそ忙しく、正社員であれば早朝から深夜まで働き詰めになってしまうだろう。
「ちなみに、実家には犬と猫もいます」
動物が大好きな杏は喜ぶ筈だ。
「これ以上ないというくらい、杏には幸せな環境ですね。これから小学校に通うなら、タイミングとしてもベストだと思います」
久瀬醤油さんの周りは自然が豊かにも関わらず、学校や病院、商業施設なども充実している。
だが、アズは…。
「…彼女は別れて暮らしたいと言っています。親と同居したら、将来は介護しなきゃならないからイヤだ、と」
『彼女がお前と結婚しようと思ったのは、お前の両親がすでに亡くなっているからだ』
そう、かつての同僚に忠告されたことがある。休憩時間に別の女性社員と話しているのを聞いたそうだ。
「彼女と離婚はしません。アズと子ども達を引き離すつもりもありません。…ただ、少し距離を置こうと考えています」
おおらかな久瀬さん夫妻を『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼んで暮らす方が、子ども達に良い影響を与えてくれるのではないかと思う。
それに、距離を置けば心にゆとりができるだろう。アズも『優しい母親』として子ども達と接することができるようになるかもしれない。
「結城さんが賛成してくださるなら、このまま進めたいと思っています」
賛成しないはずがない。
「どうか、思うままに進めてください。これからも杏をよろしくお願いいたします」
頭を下げると、ほっとしたように久瀬さんが微笑んだ。
よかった。安心した。
寂しくないと言ったら嘘になる。
もしかしたら、あの子と一緒に暮らせるかもしれない。そんな風に考えてしまっていたからだ。
隣に座った詩音の手が、オレの手を握ってくれる。
「あの子に会いに来てくれませんか?」
彼の言葉に、オレは頷けない。
「…あの子に、自分は必要ないと思います」
このまま久瀬さん達と暮らしていくのなら、実の父親の存在など邪魔なだけだろう。
「そのついでに、僕の両親を安心させてください」
思わず顔を上げていた。
「結城さんのこと、未だに心配しています。ホームページやラベルひとつ見ても、あなたのことを思い出しているみたいです。祖父も、よくあなたの話をしていたそうです」
久瀬さんの、色素が薄い瞳。
この色を知っている。
そうか、久瀬会長に似ているんだ。
優しそうな目や眉の形は、お祖父さんではなくお母さんに似たのだろう。
最初の仕事をもらった時、久瀬会長はお元気だった。
社長夫妻はオンラインショップを開きたいと言っていたのに、会長には『そんな訳わからんもん、いらん』と突っぱねられた。
何度も足を運んで、何度も説明した。
『まぁ、やってみろ』
最後は投げ捨てるようにそう言われた。
だがその後、完成したホームページを、同業の仲間に自慢して回っていると知った。
嬉しかった。
他にも、商品の顔とも言えるラベルのデザインまで任せてくれるようになった。
『持ってけ。自信作だ』
帰ろうとすると気まぐれのようにお土産をくれた。
かなり高価なのに未だ久瀬さんの醤油を買ってしまうのは、会長がオレの舌を肥えさせてしまったからだと思う。
「ただし…お2人がうちに来ていただく際には、ひとつ条件があります」
先ほどよりさらに姿勢を正し、厳しい表情となった久瀬さんの言葉に、詩音がごくりと唾を飲んだ。
「「納豆を食べないこと」」
久瀬さんの声に合わせ、つい口から出てしまっていた。
納豆菌は繁殖力が高く、醤油造りに必要な麹菌の大敵らしい。営業として訪問していた頃、久瀬会長が会うたびに必ず厳しい顔で言っていた言葉だ。
「…すみません」
恥ずかしい。
人の言葉に被せてしまうなんて。
「ふふ、凛さんはご存知でしたね」
「はい。気を付けます」
「気軽にお越しください…というには少し距離がありますが」
久瀬醤油は県境が近い場所にあり、ここからだと車で1時間くらいかかるだろうか。高速道路は繋がっていないが社用車で何度も通った道だ。それほど遠く感じない。
詩音と視線を合わせると、大きく頷いてくれた。
「ぜひ、伺わせてください」
佐久間さんも、お土産だという醤油の瓶を久瀬さんに渡されながら蔵の見学に誘われているようだ。
未だに覚えている。
近づいただけで醤油のいい匂いがする蔵。
巨大な木桶、天井の太い梁。
小さな窓から射す光。
頭に手拭いを巻き、長い櫂棒で醪をかき混ぜる姿。
『頑固者の祖父が亡くなり、』と久瀬さんは言った。もう、あの会長には会うことができないのだろう。
目の奥が熱くなる。
もちろん杏には会いたい。
でも、まずはお墓で手を合わせたい。
そして、久瀬社長夫妻に不義理を謝りたい。
必ず行こう。
そう決めた。
◇
西陽が眩しい帰り道。
「夜勤明けに付き合ってくれてありがとう」
疲れている筈なのに一緒に来てくれて心強かった。お土産にもらった瓶まで持ってくれている。
「…凛。すまない」
「ん、どうしたんだ?」
お礼を言ったのに謝られた。
「…子どもと一緒に暮らせるかもしれないと、期待させた」
あぁ、そのことを気にしていたのか。
道中ずっと黙っていたから、眠くなってしまったのかと思い、瓶を受け取るべきか迷いながら手を繋いで歩いていた。
「オレは、詩音を選んだ。あの子ではなく、お前を」
「…凛」
「久瀬醤油さんで会ったとしても、父親とは名乗らないつもりだ」
「…それでいいのか?」
「あの子にはもう、父親がいるんだよ。杏が久瀬さんのことを『本当の父親じゃない』と知っていたとしても、あの写真を見る限り大丈夫だと思ってる」
心を許した笑顔。
絵を描くのに集中している横顔。
美味しそうに桃を頬張る顔。
柚くんと並んで眠る、穏やかな寝顔。
愛されていることに安心していなければ、あの表情にはならない。
愛していなければ、あんなにいい写真は撮れない。
「今のあの子にオレは必要ないよ」
彼はいい父親だ。
「…久瀬さんは凛に似ていたな」
「そうか? あんなに優しい顔してないだろ、オレは」
「お前は優しい。お前の方が綺麗だ」
「お…まえ、綺麗とか、言うな」
「優しくて、心が広い。そこが似てる」
「……ばか」
『馬鹿』と言ったのに嬉しそうな顔するなよ。
「それでも杏が大きくなれば、いつか自分のルーツを知りたくなる日も来ると思う」
「…あぁ、そうだな」
未来を目指して歩む途中で、自分の過去を振り返る時がきっと来るだろう。
「その時は、本当のことを話すよ」
「…そうか」
2人で暮らすアパートまで、もうすぐ。
夕日が背中を暖かく照らしている。
「その日が来たら、隣にいてほしい」
「いて、いいのか?」
立ち止まった詩音がオレの顔を見る。
「オレ達は“連れ合い”だろう?」
「…あぁ。いつも一緒だ」
握りしめた手を引き寄せられる。
オレンジ色の光が眩しい。
目を凝らすと、そこには詩音の不器用な笑顔があった。
瞳は潤んだように輝いていて、堪らずその震える唇に口付ける。
人も車も通らない、奇跡のような時間。
胸に当たる醤油の瓶を挟み込むように、オレ達は身を寄せ合った。
スマホの写真を見せながら、『杏のお兄ちゃんエピソード』を聞かせてくれていた久瀬さんが、姿勢を正して座り直した。
「僕の実家は代々続く醤油蔵でして、両親と兄から戻ってきてほしいと言われました」
『久瀬』という名前を初めて聞いた時、ドキリとした。
「……もしかして久瀬醤油さんですか?」
「やはりご存知でしたか」
「はい。前職でお世話になっていました」
前の会社で営業の仕事をしていた頃。ホームページの制作・保守管理から、パンフレットやラベル、包装紙などのデザインと制作を受けていた。
久瀬さんは横に置いていた紙袋から大きな瓶を取り出すと、『今さらですがこちらを差し上げます』と渡してくれた。
ずしりと重い。醤油だ。
久瀬醤油の会長に筆で書いてもらった力強い文字。思い入れがあるラベル。つい指で撫でてしまう。
「うちで使ってる醤油?」
詩音がそれを見て呟いた。
「そう。麺つゆとポン酢も久瀬さんのだよ。すごく香りが良くて美味しいんだ」
「いつもありがとうございます」
丁寧なお辞儀をもらった。
「うちの蔵がオンラインショップを開設した時、大変お世話になったという『担当の結城さん』は、あなたのことではありませんか?」
「自分です。…その節は突然退職してしまいご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。結城さんの後輩だという方が引き継いで対応してくれているそうです。ただ僕の両親があなたを心配していました」
急病で倒れたのではないかと。
その後、テレビのニュースや新聞でオレが事件の被害者になっていたことを知ったそうだ。
『パソコンは難しい』と久瀬社長夫妻はよく言っていたから、ネットニュースは見ていないと信じたい。
酷い画像や動画。
あのような自分を見られたくない。
「オレのせいだ…」
詩音は呻くように小さく呟いた。
事情を知っている佐久間さんは何も言わない。
久瀬さんはオレ達のことをどこまで知っているのだろう。
カップを手に取りコーヒーを一口飲むと、
「僕の兄には同性のパートナーがいます」
彼はゆっくりと話を始めた。
穏やかな表情を変えないままオレ達2人を見て、言葉を続ける。
「両親は最初こそ悩みましたが…」
相手は蔵で働く職人の1人らしい。久瀬社長より歳下ではあるそうだが、年齢差が大きいそうだ。
「もともと蔵で働く者は皆『家族』のようなものでしたから、まぁいいかと受け入れたようです」
大らかなご両親だ。
久瀬さんはオレ達の関係を知っているんだ。
だからこそ、この話をしてくれたのだろう。
「僕は杏のことを大事な子だと思っています。あの子の弟・柚と一緒に、僕の実家で暮らしたい考えています」
久瀬さんのご両親…久瀬社長夫妻は、杏と柚くんのことを『2人とも大事な孫』だと言ってくれているらしい。
「頑固者の祖父が亡くなり、母家はガランとしてしまいました。『後を継ぐか継がないかは考えなくていい。一緒に暮らしてくれたら賑やかで嬉しい』と、父と母は言っています」
お兄さんとそのパートナーは、母家や蔵と同じ敷地内に建つ別の家に暮らしているそうだ。
久瀬さんはスーパーで正社員として働いているそうだが、育休をもらって子ども達と過ごすうち、転職を考えるようになったのだという。
確かにスーパーでは休日こそ忙しく、正社員であれば早朝から深夜まで働き詰めになってしまうだろう。
「ちなみに、実家には犬と猫もいます」
動物が大好きな杏は喜ぶ筈だ。
「これ以上ないというくらい、杏には幸せな環境ですね。これから小学校に通うなら、タイミングとしてもベストだと思います」
久瀬醤油さんの周りは自然が豊かにも関わらず、学校や病院、商業施設なども充実している。
だが、アズは…。
「…彼女は別れて暮らしたいと言っています。親と同居したら、将来は介護しなきゃならないからイヤだ、と」
『彼女がお前と結婚しようと思ったのは、お前の両親がすでに亡くなっているからだ』
そう、かつての同僚に忠告されたことがある。休憩時間に別の女性社員と話しているのを聞いたそうだ。
「彼女と離婚はしません。アズと子ども達を引き離すつもりもありません。…ただ、少し距離を置こうと考えています」
おおらかな久瀬さん夫妻を『おじいちゃん』『おばあちゃん』と呼んで暮らす方が、子ども達に良い影響を与えてくれるのではないかと思う。
それに、距離を置けば心にゆとりができるだろう。アズも『優しい母親』として子ども達と接することができるようになるかもしれない。
「結城さんが賛成してくださるなら、このまま進めたいと思っています」
賛成しないはずがない。
「どうか、思うままに進めてください。これからも杏をよろしくお願いいたします」
頭を下げると、ほっとしたように久瀬さんが微笑んだ。
よかった。安心した。
寂しくないと言ったら嘘になる。
もしかしたら、あの子と一緒に暮らせるかもしれない。そんな風に考えてしまっていたからだ。
隣に座った詩音の手が、オレの手を握ってくれる。
「あの子に会いに来てくれませんか?」
彼の言葉に、オレは頷けない。
「…あの子に、自分は必要ないと思います」
このまま久瀬さん達と暮らしていくのなら、実の父親の存在など邪魔なだけだろう。
「そのついでに、僕の両親を安心させてください」
思わず顔を上げていた。
「結城さんのこと、未だに心配しています。ホームページやラベルひとつ見ても、あなたのことを思い出しているみたいです。祖父も、よくあなたの話をしていたそうです」
久瀬さんの、色素が薄い瞳。
この色を知っている。
そうか、久瀬会長に似ているんだ。
優しそうな目や眉の形は、お祖父さんではなくお母さんに似たのだろう。
最初の仕事をもらった時、久瀬会長はお元気だった。
社長夫妻はオンラインショップを開きたいと言っていたのに、会長には『そんな訳わからんもん、いらん』と突っぱねられた。
何度も足を運んで、何度も説明した。
『まぁ、やってみろ』
最後は投げ捨てるようにそう言われた。
だがその後、完成したホームページを、同業の仲間に自慢して回っていると知った。
嬉しかった。
他にも、商品の顔とも言えるラベルのデザインまで任せてくれるようになった。
『持ってけ。自信作だ』
帰ろうとすると気まぐれのようにお土産をくれた。
かなり高価なのに未だ久瀬さんの醤油を買ってしまうのは、会長がオレの舌を肥えさせてしまったからだと思う。
「ただし…お2人がうちに来ていただく際には、ひとつ条件があります」
先ほどよりさらに姿勢を正し、厳しい表情となった久瀬さんの言葉に、詩音がごくりと唾を飲んだ。
「「納豆を食べないこと」」
久瀬さんの声に合わせ、つい口から出てしまっていた。
納豆菌は繁殖力が高く、醤油造りに必要な麹菌の大敵らしい。営業として訪問していた頃、久瀬会長が会うたびに必ず厳しい顔で言っていた言葉だ。
「…すみません」
恥ずかしい。
人の言葉に被せてしまうなんて。
「ふふ、凛さんはご存知でしたね」
「はい。気を付けます」
「気軽にお越しください…というには少し距離がありますが」
久瀬醤油は県境が近い場所にあり、ここからだと車で1時間くらいかかるだろうか。高速道路は繋がっていないが社用車で何度も通った道だ。それほど遠く感じない。
詩音と視線を合わせると、大きく頷いてくれた。
「ぜひ、伺わせてください」
佐久間さんも、お土産だという醤油の瓶を久瀬さんに渡されながら蔵の見学に誘われているようだ。
未だに覚えている。
近づいただけで醤油のいい匂いがする蔵。
巨大な木桶、天井の太い梁。
小さな窓から射す光。
頭に手拭いを巻き、長い櫂棒で醪をかき混ぜる姿。
『頑固者の祖父が亡くなり、』と久瀬さんは言った。もう、あの会長には会うことができないのだろう。
目の奥が熱くなる。
もちろん杏には会いたい。
でも、まずはお墓で手を合わせたい。
そして、久瀬社長夫妻に不義理を謝りたい。
必ず行こう。
そう決めた。
◇
西陽が眩しい帰り道。
「夜勤明けに付き合ってくれてありがとう」
疲れている筈なのに一緒に来てくれて心強かった。お土産にもらった瓶まで持ってくれている。
「…凛。すまない」
「ん、どうしたんだ?」
お礼を言ったのに謝られた。
「…子どもと一緒に暮らせるかもしれないと、期待させた」
あぁ、そのことを気にしていたのか。
道中ずっと黙っていたから、眠くなってしまったのかと思い、瓶を受け取るべきか迷いながら手を繋いで歩いていた。
「オレは、詩音を選んだ。あの子ではなく、お前を」
「…凛」
「久瀬醤油さんで会ったとしても、父親とは名乗らないつもりだ」
「…それでいいのか?」
「あの子にはもう、父親がいるんだよ。杏が久瀬さんのことを『本当の父親じゃない』と知っていたとしても、あの写真を見る限り大丈夫だと思ってる」
心を許した笑顔。
絵を描くのに集中している横顔。
美味しそうに桃を頬張る顔。
柚くんと並んで眠る、穏やかな寝顔。
愛されていることに安心していなければ、あの表情にはならない。
愛していなければ、あんなにいい写真は撮れない。
「今のあの子にオレは必要ないよ」
彼はいい父親だ。
「…久瀬さんは凛に似ていたな」
「そうか? あんなに優しい顔してないだろ、オレは」
「お前は優しい。お前の方が綺麗だ」
「お…まえ、綺麗とか、言うな」
「優しくて、心が広い。そこが似てる」
「……ばか」
『馬鹿』と言ったのに嬉しそうな顔するなよ。
「それでも杏が大きくなれば、いつか自分のルーツを知りたくなる日も来ると思う」
「…あぁ、そうだな」
未来を目指して歩む途中で、自分の過去を振り返る時がきっと来るだろう。
「その時は、本当のことを話すよ」
「…そうか」
2人で暮らすアパートまで、もうすぐ。
夕日が背中を暖かく照らしている。
「その日が来たら、隣にいてほしい」
「いて、いいのか?」
立ち止まった詩音がオレの顔を見る。
「オレ達は“連れ合い”だろう?」
「…あぁ。いつも一緒だ」
握りしめた手を引き寄せられる。
オレンジ色の光が眩しい。
目を凝らすと、そこには詩音の不器用な笑顔があった。
瞳は潤んだように輝いていて、堪らずその震える唇に口付ける。
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