愛を請うひと

くろねこや

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その後の話

見えない傷(後編)

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苦しい。

痛い。

早くラクになりたい。



山神、助けて。

山神。

助けて。





「…き、…びき、響!」

はっ、と身体が大きく跳ねた。

「ごほっ、げほっ、」

急激に肺へ入り込んだ空気。

「響!」


咳き込んで生理的な涙に滲んだ視界。


「………やま…がみ?」

「響! お前! 呼吸が止まってたんだぞ!」


オレを見下ろす顔は、先ほど夢で頭に思い描いていたものと違っていて。

「……おまえ…老けたなぁ」

「! はぁ? おま…、お前、死にかけて開口一番がそれかよ?!」

啓一は怒りながらも、震えているオレの身体を抱きしめてくれた。抱き返す腕に力が入らないが、啓一の身体も冷えて震えているのが分かった。


「……夢を見ていたんだ。最悪な夢だ」

怒りのせいか、オレを蘇生しようと処置したせいか、目の前にいる幼なじみの顔は真っ赤で、瞳は涙に濡れていた。

歳を取っても、その澄んだ瞳は変わらない。


「啓一。助けてくれてありがとう」


あの頃も、今も。

お前がオレを救ってくれた。


「本当に…心配したんだからな」



平常心を取り戻そうとするように、啓一は『医師らしい問診』を始めた。

体調の確認に続き、問われるまま今日の記憶を遡る。

すると、悪夢の原因に思い至った。

真っ赤なタオルを見たせいだろう。


今日は特に冷えるから、深夜まで仕事をして帰る啓一の為に消化の良いスープを作ろうと、ホールトマトの缶詰を鍋に投入していた。そうだ、その時。クラッときて、床へ中身を派手にぶちまけてしまったのだった。

雑巾代わりの使い古した白いタオルを、ぐちゃぐちゃなトマトが赤く染めていく。


記憶が飛んで、気がついた時には片付けを終えていた。

そのまま新しい缶詰を開けて、完成させたスープ。帰宅した啓一と2人で食べ、ベッドに入った…のだが。



『クラッと…。貧血…ではなさそうだ。暖かいリビングと寒いキッチンの寒暖差で血圧に影響が出たか?』

『ホールトマト。真っ赤なタオル…。血? いや…トマト。そうか、トマトジュース』

『身体の不調と心の傷が悪影響を与えあったか?』

啓一はぶつぶつと考えを纏めているようだ。



「啓一、もう大丈夫だ」

ライトを当てて口の中や喉の奥を見たり、血圧を測ったり、聴診器を胸に当てたりと忙しい。


「うん。頭痛もなし。言葉もしっかりしている。喉に呼吸を妨げるような炎症は無いし、心音と肺の音も問題ない。血圧は少し高いが、まぁ問題ない範囲だろう」

ホッとした表情になった啓一が、オレの身体を抱きしめてくれた。

「…朝になったら脳ドックを一式受けさせるからな」

啓一の身体が冷たくなっている。

「明日は、……いや…分かった」

明日は仕事の予定だったが、オレを抱きしめる腕にグッと力が入ったので承諾した。


啓一はオレの身体を起こすと、冷たい水を口に含ませてくれた。

「口移しで飲ませてくれてもいいのに…」

オレの言葉に『おっさん同士で何言ってんだ…』と呟くと、まるで苦い茶でもあおるかのような顔をしてペットボトルに口を付ける。

やっぱり優しい。だからこんな汚い人間につけ込まれるんだ。

深く合わせた唇。舌を伝わせるように流し込まれた液体は啓一の体温でトロリとぬるくなっている。ゴクリ、ゴクリと飲み込めば、染み込みように身体が受け入れていくのを感じた。


「お前が久しぶりに“山神”って呼ぶからびっくりした」

悪夢のせいで記憶が混濁したのだろう。

「啓一…。すまない」

謝ったオレを驚いた顔で見た後、破顔して頭をわしわしと撫でてきた。



頭を撫でられて、父さんのことを思い出した。

刑務所に入れられていた頃、何度か面会に来ようとしたらしいが、松谷まつたにに気を逸らしてもらい避けた。

松谷はオレが父さんの元に派遣した信頼できる男だ。
老いた父さんを補佐して、側でずっと守ってくれている。

しばらく会っていないが、報告によると元気にしているらしい。


あの夜オレが死ななくて済んだのは、身体が壁に叩きつけられた時の音と振動に父さんが起きてきてくれて、救急車と警察を呼んでくれたからだった。

泣きながら何度も謝る父さんが、ずっと病院のベッドで手を繋いでくれていたのを思い出す。

あんなふうに泣かせてしまうと分かっていたから、父さんにだけは知られたくなかった。

叔父は警察に連れて行かれたが、『甥への躾』だと言い張って思っていたより早く帰って来たらしい。結局『家族の問題』だとして警察は子どもに親身になってくれなかった。

こんなことなら、ナカに物的証拠を射精させてから吐けばよかった。


それでも父さんはオレが入院している間に家に入り浸っていた叔父を追い出してくれたし、外で再会した叔父は顔面に食らったトマトジュースに懲りたのかオレをベッドへ連れ込もうとしなくなった。

あれからすぐにオレの声が低くなり、身長が急激に伸びて叔父を追い越したのが大きいかもしれない。

ガキを痛ぶるのが好きな変態だったから、オレには興味がなくなったのだろう。


大学を卒業した頃、父さんを連帯保証人にした叔父の会社が酷い経営をしていることに気づいた。代わりに立て直してやると、オレに社長職を押し付けて、ますます遊び回るようになった。

そのくせ『社長』と名乗り、さらに悪癖を撒き散らした。施設から勝手に身寄りのない見目のいいガキを引き取って『かつてのオレ』と同じように扱うわ、オレにもガキを抱くことを強要してくるわ。

父さんの名を出されても、もう昔のオレじゃない。面倒で表面上は許容できる範囲で従ってみせたが、もはや叔父など恐れるには値しなかった。

山神が会社へ出入りするようになってからは、その関心を得ようとわざと叔父と同じように振る舞った。

海砂みさが山神の元で暮らしていると知ってからは自暴自棄になり、さらに酷い事をした。


叔父がした事で唯一オレのためになったのは、海砂を奴隷にした事だろう。お陰で啓一と接点を持ち続けることが出来たのだから。




啓一が、ベッドで寝ているオレの胸に耳を当てた。

その腰を引き寄せ、尻を撫でる。

筋肉質に引き締まった身体だが、この部分は柔らかい。

「…こら、撫で回すな。…んっ、」

スウェットと下着を引き下ろし、尻たぶを開かせるように揉んでやると、僅かに甘い声を漏らし始めた。脱力しそうになってはオレに体重をかけまいと踏ん張っている。


「抱かせろ」

耳元で囁くと、ガバッと身を起こした啓一は首を振った。

「ダメだ。医師として許可できない。今夜は安静にしていろ」


「頼む。…抱かせてくれ」

次にオレの喉から出た声は、思ったより弱々しかった。

「明日の検査結果次第だ。異常が見つからなければ…好きにしていい」

優しく髪を撫で、額にキスしてくれた。


「代わりに、」

オレの隣へ横たわると、両腕を広げてくる。

「抱きしめて寝てやるから」

『来いよ』と笑う啓一の胸に身を寄せると、力強い腕がオレの身体を包み込んでくれた。

すぅ、と息を吸うと、ガキの頃から好きだった落ち着く匂いがした。


「おやすみ、響」

穏やかな声。高めの体温。規則正しい鼓動。

「ん」



あの悪夢の原因は、もうこの世にいない。

この身体に残っていた不快な記憶は啓一が上書きしてくれた。

この男が相手なら、オレが『下』でも構わないと思った。


(こいつが望んでくれるなら、もう一度だけ上書きしてもらおうか)


後頭部をゆっくりゆっくり撫でられ、気持ちよさと良い匂いに目を閉じると、幸せな夢を見られる気がした。


(温かい)


オレはそのまま穏やかな眠りに落ちていった。
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