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その後の話
主任(前編)
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夜勤の休憩時間に、凛と電話で話した。
葛谷が捕まっても『窓の外が怖い』と言っていた。防犯カメラの動画など見せなければよかった。窓を割ろうとしたあの男の姿が目に焼き付いてしまったらしい。『不安で眠れない』と言う。
引っ越せば安心できるかもしれない。
だが、今のアパートは広さの割に家賃が安いし、築年数の割にリフォームされているから綺麗だ。しかも大家はおおらかで『古いから好きに改造していい』と言ってくれている。
凛の職場もすぐそこだ。
出来れば引っ越したくない。
防犯装置とカメラはそのまま残してあるが、ガラスに防犯フィルムを貼れば少しは安心できるだろうか。
カメラを屋外に付けて、リビングにも分厚いカーテンを下げる? それか、シャッターを窓の外に取り付ける? 工務店のおっさんに相談してみるか。10代の頃、啓一先生の紹介で仕事を手伝って以来の付き合いだから、時間が空いていればすぐに来てくれるだろう。
凛は話しているうちに眠ることができたらしい。
話し方が少しずつゆっくりになって、
やがて声が聴こえなくなった。
眠いのに頑張って応えてくれる凛の声は可愛くて、甘くて。こちらからは通話をやめられなかった。明日は月曜日だから、早く寝かせなくてはいけなかったのに。
…ビデオ通話にすればよかった。
ちゃんと布団を掛けて寝ているか?
ベッドには入っている筈だが、夜は冷えるから心配だ。
しばらく何も聞こえないスマホに耳を当て、
「愛してる。おやすみ」
良い夢が見られるよう祈り、キスをして通話を終えた。
夜食に凛が持たせてくれた唐揚げを食べていると、匂いに釣られたのか休憩室にやって来た主任にひとつ奪われた。
「美味しい!! …わぁ、凄い眉間のシワ。詩音くんのパートナーさんの手作りか」
『奪われた』といっても、決して無断で食べられた訳ではなかった。
『食べていいか』問われて、一応了承はしたのだが、つい顔に出てしまっていたようだ。
「…ごめんね。夕飯を食べ損ねたんだよ。空腹には暴力です。そのいい匂い」
認知症のヤエさんが、『お金を盗まれた』と介護士の小夜子さんに掴みかかったらしい。
もちろんそれは認知症の症状のひとつ、被害妄想で、彼女の財布はベッド脇の金庫に入っていたそうだ。
それは『いつものこと』だったのだが、ちょうど面会に来ていた息子が小夜子さんに絡んで来たらしい。
いつもは症状を把握している、その妻が来ているのだが、体調不良らしく代わりに息子が来たそうだ。
めったに面会に来ない上、家にいた頃もろくに母親の世話をしてこなかったらしい。
その親の言うことを鵜呑みにして、小夜子さんを酷い言葉で責めたのだ。
しかも、未だに母親を施設に入れた妻に文句を言っているそうだから始末に負えない。
一向に理解しようとしない息子への説明、泣き止まない小夜子さんへのフォローが夜までかかってしまったそうだ。
「…それはお疲れ様です。……オレは夕飯を食べたので、主任が食べてください」
凛なら『いつもお世話になっているんだから、食べさせてあげなさい』と言うだろう。
「えっ! いいのかい? 嬉しい…」
弁当箱を丸ごと差し出すと、
「ごめんね。遠慮なく…頂きます」
両手を合わせて頭を下げられる。
誕生日にも作ってくれると言っていたから、我慢だ。
「ん~! 美味しい! パートナーさん、唐揚げ弁当の店を開いてくれないかなぁ。凄く美味しい!」
もぐもぐと幸せそうに頬張る姿を見て、ふと疑問が浮かんだ。
そういえば、この人はいつ家に帰っているのだろう。
家族は家で待っていないのだろうか?
「美味しかった! ごちそうさまでした」
食べ終えた主任が手を合わせた後、弁当箱を洗おうとするのを代わる。
「主任は…家に帰らないんですか? 日勤から夜勤まで、いつもずっとここにいますよね」
プライベートの話はどうかと思ったが、洗剤の泡を立てながら何となく気になって聞いてしまった。
「…影でコソコソ探らずに、直接訊いてくれる君が好きだよ」
洗い終え、ペーパーで拭いた弁当箱をロッカーにしまう。
時計を見た主任は、『まだ時間があるね』と呟いた。
「…家に帰りたくないんだ」
『帰りたくない』?
「僕には姉がいてね。お婿さんに来てくれた人と3人で暮らしていたんだ」
『暮らしていた』?
「姉が亡くなって、そのお婿さんと2人暮らしになったんだけど」
いつも笑っているような顔。
それが主任だった。
「僕の顔は姉に似ているらしくて、」
笑っているように見えるけど、これは『悲しい顔』だと分かる。
「彼のツラそうな姿を見ていられなくて、」
聞いてはいけない部分だった。
「僕は逃げてしまったんだよ」
踏み込んではいけない部分だった。
「僕の姉さんはある日突然殺されたんだ」
「!」
「不妊治療の末、やっと子どもを授かったところだったのに…」
どんな言葉を返せばいいか分からない。
凛なら何と言うだろう。
「……犯人は捕まったんですか?」
「うん。3人目の被害者が出てね。その時、現行犯で逮捕されたんだ」
捕まったならよかった。
「犯人は、亡くなったんだ。裁判中に」
偶然か、最近そんな話を聞いたばかりだ。
「……疲れてるのかな? 話し過ぎたね。ごめん」
おそらく、凛ならこう言うだろう。
「主任。……田辺さん。無理にとは言いませんが、話して楽になるなら聴きます。ただ、仮眠だけはとってください」
「ありがとう、詩音くん」
「あの人が亡くなって、もう19年。あの人…僕の姉、遥がこの世にいたことが、この世界からどんどん薄れていくんだ。姉さんのことを、1人でも多く覚えていてほしいな」
そうか。
オレは同じ悲しみを抱えた人を2人知っている。
19年前。
3人の被害者。
妊婦。
犯人の死亡。
「……それなら、お姉さんの話をしてください。出来るだけ楽しい話を」
「うん。ありがとう」
葛谷が捕まっても『窓の外が怖い』と言っていた。防犯カメラの動画など見せなければよかった。窓を割ろうとしたあの男の姿が目に焼き付いてしまったらしい。『不安で眠れない』と言う。
引っ越せば安心できるかもしれない。
だが、今のアパートは広さの割に家賃が安いし、築年数の割にリフォームされているから綺麗だ。しかも大家はおおらかで『古いから好きに改造していい』と言ってくれている。
凛の職場もすぐそこだ。
出来れば引っ越したくない。
防犯装置とカメラはそのまま残してあるが、ガラスに防犯フィルムを貼れば少しは安心できるだろうか。
カメラを屋外に付けて、リビングにも分厚いカーテンを下げる? それか、シャッターを窓の外に取り付ける? 工務店のおっさんに相談してみるか。10代の頃、啓一先生の紹介で仕事を手伝って以来の付き合いだから、時間が空いていればすぐに来てくれるだろう。
凛は話しているうちに眠ることができたらしい。
話し方が少しずつゆっくりになって、
やがて声が聴こえなくなった。
眠いのに頑張って応えてくれる凛の声は可愛くて、甘くて。こちらからは通話をやめられなかった。明日は月曜日だから、早く寝かせなくてはいけなかったのに。
…ビデオ通話にすればよかった。
ちゃんと布団を掛けて寝ているか?
ベッドには入っている筈だが、夜は冷えるから心配だ。
しばらく何も聞こえないスマホに耳を当て、
「愛してる。おやすみ」
良い夢が見られるよう祈り、キスをして通話を終えた。
夜食に凛が持たせてくれた唐揚げを食べていると、匂いに釣られたのか休憩室にやって来た主任にひとつ奪われた。
「美味しい!! …わぁ、凄い眉間のシワ。詩音くんのパートナーさんの手作りか」
『奪われた』といっても、決して無断で食べられた訳ではなかった。
『食べていいか』問われて、一応了承はしたのだが、つい顔に出てしまっていたようだ。
「…ごめんね。夕飯を食べ損ねたんだよ。空腹には暴力です。そのいい匂い」
認知症のヤエさんが、『お金を盗まれた』と介護士の小夜子さんに掴みかかったらしい。
もちろんそれは認知症の症状のひとつ、被害妄想で、彼女の財布はベッド脇の金庫に入っていたそうだ。
それは『いつものこと』だったのだが、ちょうど面会に来ていた息子が小夜子さんに絡んで来たらしい。
いつもは症状を把握している、その妻が来ているのだが、体調不良らしく代わりに息子が来たそうだ。
めったに面会に来ない上、家にいた頃もろくに母親の世話をしてこなかったらしい。
その親の言うことを鵜呑みにして、小夜子さんを酷い言葉で責めたのだ。
しかも、未だに母親を施設に入れた妻に文句を言っているそうだから始末に負えない。
一向に理解しようとしない息子への説明、泣き止まない小夜子さんへのフォローが夜までかかってしまったそうだ。
「…それはお疲れ様です。……オレは夕飯を食べたので、主任が食べてください」
凛なら『いつもお世話になっているんだから、食べさせてあげなさい』と言うだろう。
「えっ! いいのかい? 嬉しい…」
弁当箱を丸ごと差し出すと、
「ごめんね。遠慮なく…頂きます」
両手を合わせて頭を下げられる。
誕生日にも作ってくれると言っていたから、我慢だ。
「ん~! 美味しい! パートナーさん、唐揚げ弁当の店を開いてくれないかなぁ。凄く美味しい!」
もぐもぐと幸せそうに頬張る姿を見て、ふと疑問が浮かんだ。
そういえば、この人はいつ家に帰っているのだろう。
家族は家で待っていないのだろうか?
「美味しかった! ごちそうさまでした」
食べ終えた主任が手を合わせた後、弁当箱を洗おうとするのを代わる。
「主任は…家に帰らないんですか? 日勤から夜勤まで、いつもずっとここにいますよね」
プライベートの話はどうかと思ったが、洗剤の泡を立てながら何となく気になって聞いてしまった。
「…影でコソコソ探らずに、直接訊いてくれる君が好きだよ」
洗い終え、ペーパーで拭いた弁当箱をロッカーにしまう。
時計を見た主任は、『まだ時間があるね』と呟いた。
「…家に帰りたくないんだ」
『帰りたくない』?
「僕には姉がいてね。お婿さんに来てくれた人と3人で暮らしていたんだ」
『暮らしていた』?
「姉が亡くなって、そのお婿さんと2人暮らしになったんだけど」
いつも笑っているような顔。
それが主任だった。
「僕の顔は姉に似ているらしくて、」
笑っているように見えるけど、これは『悲しい顔』だと分かる。
「彼のツラそうな姿を見ていられなくて、」
聞いてはいけない部分だった。
「僕は逃げてしまったんだよ」
踏み込んではいけない部分だった。
「僕の姉さんはある日突然殺されたんだ」
「!」
「不妊治療の末、やっと子どもを授かったところだったのに…」
どんな言葉を返せばいいか分からない。
凛なら何と言うだろう。
「……犯人は捕まったんですか?」
「うん。3人目の被害者が出てね。その時、現行犯で逮捕されたんだ」
捕まったならよかった。
「犯人は、亡くなったんだ。裁判中に」
偶然か、最近そんな話を聞いたばかりだ。
「……疲れてるのかな? 話し過ぎたね。ごめん」
おそらく、凛ならこう言うだろう。
「主任。……田辺さん。無理にとは言いませんが、話して楽になるなら聴きます。ただ、仮眠だけはとってください」
「ありがとう、詩音くん」
「あの人が亡くなって、もう19年。あの人…僕の姉、遥がこの世にいたことが、この世界からどんどん薄れていくんだ。姉さんのことを、1人でも多く覚えていてほしいな」
そうか。
オレは同じ悲しみを抱えた人を2人知っている。
19年前。
3人の被害者。
妊婦。
犯人の死亡。
「……それなら、お姉さんの話をしてください。出来るだけ楽しい話を」
「うん。ありがとう」
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