愛を請うひと

くろねこや

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その後の話

娘の回想と、現在、未来。(前編)

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お父さんがお部屋に来てくれない。


今夜は寝る前に、絵本を読んでくれると約束したのに。


お仕事が終わらないのかもしれない。

…私との約束を忘れちゃったのかもしれない。


なんだか急に寂しい気持ちになった私は、

『夜に東棟へ来てはいけない』

というお父さんとの約束をすっかり忘れて、お父さん、お母さん、私の部屋がある西棟から、武彦たけひこお父さんの部屋がある東棟に渡って来てしまった。




西棟に比べて少し薄暗い廊下。

武彦お父さんの部屋の前で、お父さんが出てくるのを待つ。

さっきお父さんの声が聞こえたから、ここにいるのは間違いない。


その時だった。

『…絵本………夕凪ゆうなと……』

お父さんの声が、私の名前を呼んだ気がした。

耳をドアに近づけようとしたその時。


ダンッ、とドアがすごい音を立てて揺れた。

「…お父さん?」

思わず、私は部屋の中に声をかけてしまった。


『ゆう…な?ど…して、ここ…』

「お父さん!大丈夫?!」

弱々しくて、辛そうな声。

『へや…っ、もどって…。えほん…あした…いっしょに…っ、』

荒い息、焦ったような、途切れる声。


『夕凪』

武彦お父さんの冷たい声がした。


『お父さんはお腹の中が熱いらしくてね』

「お腹?熱い?痛いの?お父さん、大丈夫?」

『ゆう…な。だいじょ…ぶ…だから。ごめ…』

ごめんね、と謝る、お父さんの苦しそうな声。顔を見て、本当に大丈夫なのだと安心したかった。

でも、

『“お注射”して寝れば治るから、絵本は明日にしなさい』

冷たい武彦お父さんの声。
『この声』の時は、逆らっちゃだめだ。


[お父さんが酷い目に遭わされる]

そう思った。


私は武彦お父さんに怒られた事がない。
ただ冷たい目を向けられるだけ。

そして、その後必ずお父さんの体調が悪くなる。
手首に変な模様のアザが付いていたり、
声がおかしくなっていたり、
ふらついて倒れたりする。


ガタッ、ガタッ、ガタッ、

『っ…!!ぁっ…!!くっ…!!』

ドアが何度も揺れて、そのたびに苦しそうなお父さんの声が聞こえる。


「早く良くなってね。おやすみなさい!」

今まで聞いたことのないお父さんの『声』に、怖くなった私は早口でそう言って、部屋に戻ることにした。




泣きながら東棟の廊下を歩いていると、玲子れいこお母さんの部屋から…何故かお母さんが出てきた。


「やっぱり夕凪ちゃんの泣き声。こんなところでどうしたの?」

いつも通り、のんびりしたお母さんの話し方。
少しだけ怖かった気持ちが和らぐ。


「ひっく、お母さんは、ひっ、玲子お母さんと、仲良し?」

泣いてしゃくり上げながら、お母さんに聞くと、ニコッと笑って

「仲良しよ。お母さん、玲子ちゃんのこと『だぁーいすき』だもの」

聡子さとこっ」

玲子お母さんの顔が、崩れた。

いつも冷静で、怖い人だと思ってたのに。


「玲子ちゃん、今夜は3人で一緒に寝てもいい?」

お母さんの声にかぶせ気味で

「もちろん!一緒に寝よう!」

と叫んだ玲子お母さん。


お母さんに絵本を読んでもらい、2人に挟まれるようにして眠った。

いつも寝る時はひとりぼっちだったから、嬉しくて『もう少し起きていたかったなぁ』と思ったのを憶えている。





「…って、なぁにが『お注射すれば治る』だ。子ども相手に下ネタかましてんじゃねぇよ、あのクソ親父!!」


反抗期の私は、少し言葉が乱れていた。

もちろん父さん達の前では『綺麗な日本語』を心がけている。


武彦お父さんの『言葉の意味』がわかったのは、高校生になってからのことだった。

ある日突然、ストンと腑に落ちたのだ。


父さんの『声』。

手首にあった模様は、おそらく縄で縛られた痕。

あの日、ドアをガタガタさせていたのは、
押さえつけられた父さんが武彦お父さんに『乱暴なこと』をされていたのだろう。


[父さんは、性暴力を受けている]


お母さんに話しても、
玲子お母さんに話しても、
困ったように笑うだけ。

父さんに探りを入れたら、可哀想なほど青褪あおざめていた。

武彦お父さんには、もちろん怖くて聞けない。

一番酷いのは、2人が『出張』と称して『ホテルに外泊した夜』だ。
翌日決まって父さんが発熱し、1日寝込んでしまうのだ。




それでも父さんは、私の前で『何でもない』ように振る舞おうとする。

だから私は、気づいていないフリをすることにした。

『そこ』に触れたら、父さんが死んでしまう気がしたから。



私に出来ることといえば、武彦お父さんの気に障らないよう、気配を殺すことだけ。

会社で働く時間は、『涼野の娘』ではなく、ただの一社員として父さん達に接した。

『私』を理由に、父さんを『酷い目』に遭わせてたまるものか。

完璧な仕事を心がけるうち、社長になった孝彦くんの秘書に選ばれた。








ある朝、武彦お父さんが死んだ。

79歳。心筋梗塞だった。

お母さんは58歳、玲子お母さんは64歳だったから、それに比べたら長生きだったと思う。

新規事業がようやく軌道に乗ったところだった。

父さんからメッセージで『午後出社させてほしい』と連絡があったから、どうせ朝方まで自分の年齢を忘れて『頑張りすぎた』のではないかと思う。





あれでも『武彦“お父さん”』と呼んでいたし、社長秘書としても『会長の死』を悲しむべきなのだろう。


でも私は正直ホッとしていた。


ずっと性暴力に苦しめられていた父さんが、
やっと解放されたのだ。





ところが、

武彦お父さんの葬儀が無事終わった夜。



父さんは非常階段から『転落』した。

見つけたのは、孝彦たかひこくんだった。



「クソ親父に連れて行かれなくて…本当に良かった…」


病院のベッドでギプスに固定され、
機械に囲まれて眠る父さん。

その手をギュッと握りしめ、口付けて、
孝彦くんが呟いた。

涼野すずや。愛してる』


ギュッと心臓が握りつぶされそうな痛み。

彼がずっと、父さんのことだけ見ていたのを、私は知っている。

しかも子どもの頃からずっと、私の父さんを『涼野お父さん』とは呼ばず、『涼野』と呼んでいるのだ。


父さんは、『私と彼が結ばれること』を願っていたし、私もそうなると信じていた時期もあった。


私も、もう43歳。


幸彦ゆきひこくんは大学進学を機に、この屋敷から独り立ちして、学生結婚をし、男の子が生まれた。


お母さんと、玲子お母さんは、2人仲良く逝ってしまった。


父さんは、武彦お父さんのことが…後を追いたいくらい、好きだったのかもしれない。


孝彦くんは、父さんを愛している。


私は急激な孤独感に襲われた。
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