痛みと快楽

くろねこや

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本編 3 番外編

家族(後編)

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築年数が3桁に見える蔵。それをフルリノベーションしたカフェは、母の古い知り合いが趣味でやっている店らしい。

白い漆喰がコテの模様を残すように塗られた凹凸ある壁、吹き抜けの高い天井にはシーリングファンが回り、無垢材の床が何とも落ち着く空間だ。

今日は店休日だったらしい。母が電話を入れて特別に開けてくれたそうだから、他に客はいない。

奈津はオレの隣に、秀矢と母は向かい側に座っている。テーブルは洒落ているが少し狭く、膝がぶつかりそうだ。

オレと母さんはオリジナルブレンドのコーヒー。秀矢はクリームソーダを頼み、それ見た奈津も『飲んでみたい』と同じものを頼んだ。


「探偵をしているらしいな」

静かなジャズが流れる店内。飲み物が揃い、店主が姿を消したところで、母が口を開いた。

母の元までオレたちの事務所の噂は届いていたらしい。SNSを通してストーカー問題を解決してきた実績が世間に認知されてきたが、警察OGやOBの方にも知られているそうだ。

「あれから20年だ。春さんの事件は、私もずっと心に残っていた」

5年おきに見知らぬ花束が置かれていたのだが、母と秀矢が供えてくれたものだったそうだ。

オレが春と結婚したことも、愛する人と子を同時に失ったことも、母は知っていた。

春のことは『現役刑事の妻』として派手に報じられ、勤めていた警察署にまでマスコミが押しかけて来たからだろう。


母も『犯罪を未然に防ぐ』という点で、警察官として対応できる限界を感じていたのだという。

10年前くらいに警察を辞めて警備員になったらしいとは風の噂に聞いていたが、未だに働いているというから驚く。



「ストーカーなんて滅べばいいのに」

そう呟いた秀矢は、今まで見たことのない暗い目をしていた。

「秀矢…お母さん?」

さっき「お母さんと呼んでいい」と言われたからだろう。奈津がおずおずと秀矢を見た。

「奈津、ありがとう。とても嬉しいよ。…小さい頃の秀一は『お母さん』って呼んでくれてたのに、小学校に入ってから呼んでくれなくなっちゃうんだから」

年齢的に『“お母さん”というより“おばあちゃん”ではないか』と思ったが、何となく指摘するのはやめた。

67になる筈なのに、相変わらず年齢不詳に見える美しい男は、クリームソーダに浮かんだアイスをストローで突く。

年齢相応の母に比べて、秀矢の肌は真っ白だ。昔から彼は外に出ることを恐れていたから、今もあまり日に当たらない暮らしをしているのかもしれない。


成長するにつれて聞こえてきた、先生や周りの声。

ずっと母親だと思っていた秀矢は『男性』で、『血の繋がらない他人』。

その事実を知らされた日から、オレは『お母さん』と呼ばずに『秀矢』と名前で呼ぶようになった。


「僕ね、子どもの頃の夢は『お母さんになること』だったんだ」

初めて聞く話だ。

「男は母親になれないと知って、保育士になる道を選んだんだよ」

本当の夢は『専業主夫』ではなかったのか。

「家から出たくない」といつも言っていた。進路に関わる呼び出しには母が来ていたし、学校行事はいつも1人だった。


「当時の保育園は…男の職員なんて他にいなくてね。女性しかいない職場だったけど、上手くやれていたと思う。もちろん子どもたちは可愛いばかりではなかったし、行事のたびに寝不足にもなったけど…」

バニラアイスは溶けはじめ、ソーダがシュワッと泡立つ。

口の渇きを癒すように、ストローへ唇を付けると、奈津にも『溶けちゃうよ』と声をかけた。

初めて飲んだのか『美味しい…』と微笑んだ奈津に、秀矢も優しく微笑む。


「そんなある日、保護者の1人に付き纏われるようになったんだ」

その人はシングルマザーだったが、ある日『子どもの事で相談したいことがある』のだと家に呼び出されたらしい。

子どもは祖母と出かけていて、その母親と2人きりになってしまったのだという。

「寝室に連れ込まれそうになって、慌てて逃げたよ。そうしたら、自宅の郵便受けに切手のない手紙が入るようになってさ、」

『切手のない手紙』…つまり、家のポストへ直接入れに来ているということだ。

それを無視していたら家の電話が鳴るようになった。園からの連絡や、他の保護者からの電話は無視できないから電話線を外すことも出来ず、夜中にも鳴る電話に眠れなくなった。

その保護者は外面を取り繕うのが上手く、他の職員に相談しても理解してもらえない。

限界が来て寝不足で倒れたところ、子どもの1人が怪我をしてしまい、問題になって退職に追い込まれたそうだ。

…だから電話に出ることを恐れていたのか、と今更ながら知る。


「引っ越したんだけど何故か家の前にいて。もう一度引っ越したけど怖くてさ。大家のおばあさんがアドバイスしてくれて、彼女に気付かれないように“この格好”をするようになったんだ」

オレが物心つく前から彼はこの女性にしか見えない姿をしていたから、子どもの頃は何の疑問も持たなかった。必要最低限の買い物でしか外に出ようとしなかったのは、そのストーカーのせいだったのだ。

「でも、やっぱり外に出るのは怖かったし、この姿では新しい仕事も探せなくて。…もともと男性の保育士を雇ってくれる所も少なくてね。お金がなくて困っていた時、さとるに出会ったんだ」

「お前が腹にいて、もうすぐ生まれるという頃に、情けなくも階段から落ちかけてな。あの時、秀矢に会えていなかったら、私もお前も今この世にいなかっただろう」

歩道橋の階段で2人は出会ったのだという。

病院まで付き添ってくれた秀矢と待合室で話すうち、互いの事情を知ったそうだ。

「私は母親になれない人間だ。『母親になりたい』と言ってくれたお前に感謝している」

「僕も、あの時あなたと出会えなければ、どうなっていたか分からない。警察官として働くあなたが一緒に暮らしてくれて、どれだけ心強かったか。子どもの頃からの夢まで叶えてもらえて。聡、秀一。2人ともありがとう」

頭を下げられて、どうしたらいいか分からなくなる。

オレは当たり前のことを忘れていた。

あの頃の春のように、母はオレを腹に宿して10ヶ月以上の長い時間を生きてくれていたのだ。…ろすことも出来た筈なのに。


悪阻つわりが酷かった春。

食事どころか起き上がることが出来ない日もあった。

大好きな本を読むことすらままならなくなっていた。

彼女には優しい両親が付いていてくれたが、母には頼れる人がいなかった筈だ。

オレの祖父母は、不倫したことを理由に母を勘当したと聞いている。



「だからね。『ストーカーから絶対に守ってくれる探偵さん』。…君の評判を知って、僕は嬉しかったんだよ」

テーブルに置いていた手を、温かい手のひらが包んでくれる。

子どもの頃は大きいと思っていた手。今では骨ばって細く小さく見え、それでも力強くて。

「秀矢…。オレが探偵を続けられているのは、全部ここにいる奈津のお陰だよ」

隣に座っている奈津が、こちらを見たのが分かる。

「オレは力技でしか解決出来ない。奈津がいてくれたから、ここまでやって来られた」


「だから養子にしたのか?…彼にも家族がいるのだろう?」

本当に珍しい。

母親がこんなに話すなんて。


今度は奈津がストローに唇を付けた。

溶けたアイスに濁ったソーダをゴクゴクと飲み、半分になったところで、ふぅ、と深く息を吐いた。


「両親と姉がいましたが、オレだけ家族じゃなかったから…」

「家族じゃない? 血が繋がっていなかったのか?」

「いえ。血は繋がってました」

「どういうこと?」

「母さん。これ以上は…、」

奈津にヤツらの事を思い出させたくない。

「…いいんだ。ありがとう父さん」

言葉とは裏腹に、震える手がオレを求めてくる。冷たい指先はソーダのグラスに触れていたせいだけではないだろう。

秀矢がくれた温もりを渡すように、オレはその手をギュッと握った。


「オレと血が繋がっている筈の父は、小さかったオレを毎日、性欲処理に使いました」

「「…っ!!」」

淡々とした奈津の声に、母と秀矢がヒュッと息を飲むのが分かった。

「それを見た母が包丁を振り回して脅してから、父はオレに近づかなくなり、無視するようになりました」

オレの手を握りしめた奈津を、2人は声もなく見ていた。


初めて会った2人を相手に、奈津がここまで話すと思わなかった。秀矢の過去を聴いてしまったからか、母の独特な雰囲気が隠し事を許さないせいか。

震えて恐れながら、自身の過去を話してもオレの『両親』に『家族』として受け入れて貰えるのか、確かめたいのかもしれない。


「母は、生まれた瞬間からオレの事を憎んでいたようです」

「…何故?」

「オレの顔は、母が大嫌いだった人に似ているから…」

「……」

奈津の言葉は母とオレに突き刺さった。

『殴りそうになるから顔を見せるな』と、この人もオレに言ったからだ。


「…君の顔は、何処かで見たことがある」

「……あ、もしかして。女優の………柚月ゆづき ナホさん?」

秀矢の言葉に母さんは「あぁ」と息を吐いた。

自殺か事故か、はたまた他殺か。

謎の死因と、人気絶頂だった美しい女優の早すぎる死は、新聞の号外が出されるほど世間を騒がせたから、母も覚えているのだろう。

「柚月 ナホ…奈穂なおは母の妹です。その人が亡くなった翌日に生まれたから、オレを彼女の生まれ変わりだと思ったようです」

「…ありえない。そんな非科学的な理由で」

「オレもそう思います。……それでも。その人に似ているというオレの顔を、母さんは憎んでいました」

「……」

母は黙って奈津の顔を見た。そのまま視線は握り合ったオレたちの手を通り、オレの顔へ向けられる。

かつて母さんを裏切った、憎い男に似ているという、オレの顔を。

「…そうか」

相変わらず表情が読めない。

だが、僅かではあるがその瞳に揺らぎが見える気がした。


「姉も、オレの顔が嫌いだったみたいです」

「あぁそうか。君は綺麗だからねぇ…」

秀矢が奈津の頬にそっと触れた。
もう片方の手は、母の背に添えられている。

「わぁ、本当に綺麗。肌もツヤツヤだし。僕も嫉妬してしまうよ!」

「…秀矢、君という奴は」

母と奈津の表情が緩んだ。


「秀一の子どもになった今の君は幸せ?」

奈津の髪に触れ、さらりさらりと撫でながら秀矢が問う。

手を握ったまま、横に座る奈津を見ると、彼もまたこちらを見てくれた。

「はい。とても幸せです」

ニコッと笑うその顔は本当に嬉しそうで、オレも彼を子どもにして良かったと思った。

「可愛い! ねぇ聡。この子が秀一の子なら、僕たちの孫ってことになるね!」

秀矢の顔も蕩けそうに緩んでいる。

「…私の孫だ。秀矢のじゃない」

「え…僕だけ除け者にするの酷くない? 奈津だって僕のこと、『お母さん』だって言ってくれたよ。…あ、じゃあ僕が奈津の『お母さん』で、聡は『おばあちゃん』ね!」


すんっ、と鼻をすするような音がした。

隣を見ると、奈津が泣いていた。


「奈津?」

名前を呼ぶと、

「嬉しくて」

と涙を零して笑った。


秀矢は席を立つと、オレたち3人を立たせた。

奈津を中心にして、母とオレごと抱きしめるために。

「僕も嬉しいよ!」



「…いいなぁ」

秀矢が腕を緩めた時、奈津がオレと母の頭の辺りを見比べて呟いた。

「背の高さも、聡お母さんに似たんだね」

母の目は僅かに大きくなった。

「…あぁ、言われてみれば確かにな。あの男…秀一の父親は背が低かった。…君や秀矢よりも」

オレの父親はその辺りで母に劣等感を抱いていたのではないだろうか、と思った。

「ヤツは背も器も小さかった」

ふふっ、という信じられない声が母から聞こえてきた。

揶揄からかってやるとキャンキャン吠える仔犬のようでな。…あぁ、どうして忘れていたんだろう。それを可愛く思っていたのだ」

オレに似た顔の男が背の低い『仔犬』。しかも可愛い…。ずっと想像していた『父親』という存在のイメージが崩れていく。


だが。

おそらく心の底からであろう。

雲が晴れた空のように

母が笑っていた。




2人と別れ、車のエンジンをかけると、ラジオから春が好きだった歌が流れてきた。

春。

母さんが笑う顔を初めて見たよ。

『すまなかった』

別れ際、風に紛れそうな声が耳に届いた。

何だか変な感じだ。


あの後、奈津の父親について詳しい話を聴くと、母さんと秀矢は言ったんだ。

「逮捕…はできんな。これから私がそいつを捕まえて、同じ目に遭わせてやろうか」

「いや、いっそ去勢した方がいいんじゃない?」

あぁオレは、この2人の子なんだなと思ったよ。


ここに君がいないのが、とても寂しい。

君をオレの両親に紹介したかった。

籍を入れたあの日。『オレに親はいない』なんて言ってしまったけれど。

君を連れて、母と秀矢のところへ会いに行けば良かった。



生まれて来られなかった

君のおじいちゃんとおばあちゃん、

お兄ちゃんだよ。


君に会いたかった。

二十歳になる君に、会いたかった。




春と娘がいなくなって、

オレに家族はもういないと思った。

このまま1人で死んでいくのだと。


奈津が家族になってくれて嬉しかった。

彼が『父さん』と呼んでくれて嬉しかった。


その彼が、秀矢と母をオレに引き寄せてくれた。

彼がいなければオレは、2人から逃げていたかもしれない。

彼らの事情を知らないまま、2人が心から笑う顔を見ることは出来なかっただろう。



交換した連絡先に早速メッセージを送っている、助手席の奈津。

この子に出会えて本当に良かった。

そう、この心から思う。
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