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記憶と小箱 〜???視点(前編)

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「我が公爵家の汚点め!! 野垂のたれ死ね!!」

走り出す馬のひづめと車輪の音。

遠く、小さくなっていく馬車のシルエット。


立ち昇る土煙だけが残された夜の道。

吐き捨てるように投げつけられた最後の言葉こそ、長年溜め込んだ兄の本心であったのだろう。


「は…ははは…、」

頬を濡らし笑う私を、丸い月だけが見ていた。





“その日”が今日であると確信していた。


『明日は狩りに行くぞ!!』

そう言って私を誘った兄は、これまでに見たことが無いほど上機嫌な顔で笑っていたからだ。


だからこそ、親友との別れは済ませてきた。


まぁ、その予兆は幼い日よりずっと感じていたものだったから、準備する時間は充分あったし、“狩り”という名目で連れ出されたのは幸いだった。

背負ったカバンの中には食料、水の入った皮袋、着替え用の服、防寒布、ランプ。強い酒と薬、包帯など。

そして着ている服と靴の中には金と、友が贈ってくれた大切な品。

頭の中には地図。

必要最限の物を持ち出すことが出来たのだから。


父から与えられていた長剣は兄に奪われてしまったが、想定の範囲内だ。むしろ、家の紋章が刻印された物など、これからの生活では邪魔になるだけだろう。

刃物は荷物の中に大きめのものを1本、服の中にも小さなものを2本隠し持っておいたから問題ない。

彼は所詮、公爵家で育てられた“お坊ちゃん”であったから、私の荷物チェックやボディチェックのようなことをせずに私を馬車から落としたのだろう。


荷物を全て奪われ縛られて、山中に置き去りにされることすら想定していたから、むしろ最高の状況といえるかもしれない。…彼のような“甘いお坊ちゃん”が公爵家を継いで大丈夫なのだろうか?




公爵家の次男であり、母似の“恵まれた”容姿で生まれて来た私だが、兄とは腹違いであった。

その事実は、兄が私を責めるための“大義名分”となった。

母は田舎にある男爵家の娘。

屋敷で働くメイドだったのだ。


兄は“母”のことより、私の“素行”こそ『公爵家の汚点』として責めるべきだったのではないかと思うが、“幼い”彼だ。私がしていたことに気付いていないのだろう。

王城への度重なる不許可侵入などは、その最たるものだ。最悪の場合、処刑される可能性もあるかもしれない。

…まぁ、その件で私を責めれば、公爵家にもダメージが行くのは間違いないが。


父は、“この国で最も美しい女”という評判を聞きつけ、母を強引に男爵家から連れ去って来たらしい。

子である私がいなくなっても、父が母へ向ける寵愛は変わらないだろう。…おそらく母にとっては望まない“愛”であろうが。


義母も貴族的な女性であるから、私たち母子を虐げることはしなかった。

常に薄い笑みを浮かべていた。

まぁ、兄の暴挙を止めない時点で義母の真意は『お察し』であろうが。

護衛たちの乗った馬車も途中でいなくなったのだから、おそらく彼女の指示があったのは間違いないだろう。

先程の馬車…御者の男は口封じに“事故死”させられる可能性もある。


兄弟といっても、私と兄の年齢は変わらなかった。父は義母と母を同時に孕ませたのだ。

政略結婚であったとはいえ、公爵家の娘というプライドもあるだろう。冷静に見えていた義母の心中は煮え繰り返っていたに違いない。


幼き時分は、父、義母、兄、私がテーブルに着いて食事をする際、母がいないことが不思議で仕方なかった。 

使用人棟で食事を摂っていると聞き、胸がモヤリとしたものだ。

「旦那様の血を継いだあなたは公爵家の人間ですけれど、彼女は違いますのよ」

義母が『ほほほ…』と笑った。

あの時の義母は、その“暗い感情”を微笑みに溶かしていたのだろう。子どもながらに“触れてはならない事”だと理解した。


年齢が同じであったからこそ当然のように、周りの者たちは兄と私を常に比較し続けた。

初等学校へ入学してから、さらに酷くなった。


「この無能が!! 後継ぎはお前でなくても良いのだぞ!」

12歳の頃。父が打ったのは兄の頬だった。

弟と競わせ、兄を奮い立たせようとしての行動であったのだろうが、それは完全なる悪手。

父だけは兄を否定してはならなかった。

公爵家であるから、『愛』などという感情を抱くことは叶わなくとも。

兄は精神が幼いのだ。“言葉の裏”など読めようはずもないのだから。


兄の顔から貴族の面が剥がれ落ち、『獣』のような形相となってしまったのも無理からぬことだったのだろう。

彼にとって“弟と競うこと”は、“自身の存在意義いのちを賭けた戦い”となってしまったのだ。


公爵家の家督などに全く興味はなかったが、周りが勝手に私を担ぎ上げようとしてくるのが面倒だった。



さらに私には“災厄の元”と言えるものがあった。

母に似た顔だ。

この顔は、まるで火に引き寄せられる蛾のように、良き者、悪き者に関わらず人々を惹きつけることになった。

足を引っ張り合いながら私に近づこうとする者たちの醜悪な顔は、父が時折私に見せる顔に似ていた。

面倒になった私は、自身の評判を落とせば父の関心が兄へ集中するかと考え、男女問わず交際を試みることにした。


だが好色な父にとって、むしろそれは“好ましいこと”であったらしい。

『男はそれくらいでなくてはな』などと言って笑い、ますます兄を歯噛みさせるのだった。


それどころか、酔った父は私が眠る部屋へ忍び込みさえしたのだ。

成長期を迎えて体格に恵まれていた私は、寝ぼけたフリをして父を昏倒させると、部屋の外へ引きずり出した。…強い酒をその喉に流し込んでから。

額から流れ落ちる汗。ベッドに残る、酒とジジイの臭いに吐き気が止まらず、窓を開けて朝が来るのを待った。




最もマシな状況で、あの家から放逐された今、彼らに自分の生存を知られることは避けたい。

それに、あの変態ジジイの元に戻るなど御免だ。


この顔は目立つ。

夜が明けたら、噂話が父の元へすぐに届きそうな街道ではなく、険しい山道を行こう。

山賊が多い地域は既に当たりをつけてある。そこさえ避ければ、あとは野生動物を相手にするくらいで済むだろう。今は繁殖期ではないから、刺激しなければ向かっては来ないはず。


今夜が満月であったのも幸いした。

ランプを点けなくとも前が見える。

城の“隠し通路”を通り慣れているから、暗闇への恐怖心もない。


さっそく“貴族らしい服”から“庶民の服”に着替え、顔と靴を土で汚す。

靴は険しい道を歩けば自然に汚れ、痛むだろうが念のためだ。


僅かに道から外れた手頃な高さの木に登り、日が昇るのを待つことにした。


季節柄か、フクロウや虫の声はない。

吹き抜ける風、擦れ合う木の葉が鳴る音だけが耳に届く。


美しい光を放つ月、流れる雲、隙間から覗く星々。

それ以外、何もない夜。


ふと身に付けた古着のゴワゴワが気になった。

これは、重責を担わされた年下の友を息抜きさせるため、街へ連れ出す時に買ったものだった。

あの時初めて見た、彼の年齢相応な笑顔を思い出す。

焼きたて熱々の串肉を頬張って火傷したというのに、『こんなに美味しいもの、初めて食べたよ』と笑ったのだ。

普段、彼や私が食べているのは“毒味を経てから供される料理”。彼など私より厳しくチェックされるだろう。冷め切った料理は、いかに良い材料を使おうと味気ないものだ。


あぁ…他にも…、

次々と頭に浮かんでくる“彼との愉快な思い出”が心を温めてくれるようだ。



木の上で過ごす夜は冷える。

防寒布に包まって、別れを告げた私を抱きしめて泣いてくれた友を思いながら目を瞑る。


警戒と浅い眠りの狭間で、

夜が明けるのを待つ。
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