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後編

お悩み相談室。(他)

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 急に手元が暗くなった。影だ。

「やはりお主が持っておったか――アーベル」

 頭上から落ちてきた声に、驚きで目を開く。背後を音もなくとったその人を、アーベルは仰ぐように見た。

「お祖父様……」
「エーレンフリートは何も持っておらんかったからの。自然とお主を疑うことになった」

 アーベルの手の中にある紙を見ながら、国王は隣の席に座る。アーベルも国王から視線を外し、手元へと落とした。

「離宮行き、そこで何かが起こるのか?」

 アーベルは無言を貫いた。国王もそれを分かっていたのか、追及はしない。だが、深々と息を吐いた。

「……取り敢えず、アリサとローデリヒには謝っておけ。随分と心配しておった」

 物陰から白い尻尾が見える。長毛種特有の長い毛がひょんひょんと揺れていた。不細工なデブ猫が聞き耳でもたてているのだろう。

「お主が具体的に話せないのも、未来が大幅に変わってしまうことを恐れたのも、理解は出来るのじゃ。だが、このような形で知られてよかったのか?離宮行きで何かが起こると、示してよかったのか?」

 アーベルは口を閉ざしたまま、紙きれを本のページの間に戻す。キルシュライト王国詳細図、第三巻。表紙の金箔の押された文字が、煌めいた。

 国王は頬杖をつきながら、アーベルの一挙手一投足に注目する。

「……意外と、時空属性の縛りも緩」

 国王の言葉が不自然な所で止まる。アーベルへと手を伸ばし、文字通り光の速さで何かを掠めとった。
 ジャラリ、と金属の擦れるような音が響く。沢山の鍵の束を見て、国王は考え込むように黙り込む。

 離宮行きの予定を記した紙を取ってくる事が目的だった。
 アーベルは過去に起こった離宮行きについて知っている。アリサの様子を見て、日程をズラした事も、この紙の通りに進まない事も。

 正確には――、この紙を自分達以外の手に渡らないようにする為だった。

 だが、アーベル一人の行動では、目的に対する解決策として無意味だったかもしれない。無駄だったかもしれない。

「鍵はちゃんと、閉めていたんです」

 だから、この時代の人間に変えてもらうしかないのだ。未来を。

 国王はようやく引っかかる事に思い当たり、唇を戦慄かせた。

「まさか、お主……じゃったのか……?!」

 アーベルの口元が薄く弧を描く。目を細めて、彼は酷く満足気に微笑んだ。



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 幼い頃、手のひらから血をよく流していた。

 父親が剣の天才だったから、自分も才能があると信じて。立派な父親に少しで追い付けるように、近付けるように。純粋に憧れていたのだった。

 柔らかかった手は模擬剣を握る度、幾度も隆起し、血を流し、やがて段々と硬くなっていく。

 努力はローデリヒを裏切らなかった。
 しかし、ローデリヒを凡人の枠から出すこともしなかった。

 悔しくて悔しくて、自分に才能が無いことを突きつけられても、ローデリヒはグッと歯を食いしばって耐えてきた。

 一般国民としてなら天才だっただろう。
 だが、直系王族としては、特筆するような部分はなかったのである。

 勉強だってしがみついた。
 例え天才でなくとも、やればやる程秀才へと変えてくれるから。

 やれる事はなんでもやった。自分が伸ばせる事は、とことん伸ばした。
 だって、全てはローデリヒの母親の評価となるから。

 同世代と混じって遊ぶのも、城下町に降りるのも、嫌味ったらしい教師の授業をサボるのも、全部全部我慢した。

 だからローデリヒは、我慢強くて理性的な方だという自覚がある。

「――だが、呆気なく理性が飛んだんだ。私は欲求不満なのだろうか?」
「ゴフッ」

 真顔で相談してきたローデリヒに、イーヴォは飲んでいた紅茶を吹き出した。「汚い」とローデリヒから穢らわしいモノでも見るような顔で言われた。納得がいかない。イーヴォとしてみたら、いきなり主君から悩み事があると言われ、執務の休憩がてら、二人でお茶をしながら聞く流れになったのだ。

 そして、問われたのが〝自分の嫁に呆気なく理性が飛んだ。自分は理性的だったはずなのに何故だ?〟といった内容。

 深刻な相談かと、やや身構えていた自分がアホらしい……、とイーヴォは懐から出したハンカチで口元を拭う。嫁に逃げられたゲルストナー公爵といい、戦闘狂バーサーカー気質のあるヴォイルシュ公爵家の末子といい、最近隠し子疑惑が出ている国王といい、何故こんなにもキルシュライト王家の血を引く人間は個性が強すぎるのか。優秀な血が混ざりすぎて、頭にまで影響しているのではないだろうか。

「……いや、自分の嫁に欲情するのは決して不思議な事ではないと思いますけど……?」

 気管に入ったらしく、むせながらイーヴォは答えると、ローデリヒは難しい顔をして押し黙る。何をそんなに悩むことがあるのかと、落ち着いてきたイーヴォは続けた。

「俺だって婚約者とイチャイチャしたいですよ。そりゃあ、健全な十九歳の男ですから」
「イチャイチャ……」
「まあ、俺はヴァーレリーの事が好きですから、キスだってしたいし、まあ普通にその先もしたいですよ。まあ、ヴァーレリーが相手だから特にムラムラするって感じなんですけど」
「ムラムラ……」

 完全にイーヴォの言葉を反芻するだけになってしまったローデリヒ。その様子に中々の重症なんじゃないだろうか?とイーヴォは頭を抱えたくなった。

「……そんなに欲求不満なら、娼婦でも呼びます?」
「要らん。婚外子は作りたくない」
「そういえば百発百中でしたね……」

 嫁が妊娠しているから浮気する男はいるにはいるが……、ローデリヒも当てはまるタイプだったのか?いや、一人目の時はそんな事はなかったか……と、イーヴォは内心首を捻る。

「前にアリサを抱いている時も理性的だった。油断したらこちらがられそうだったからな」
暗殺者アサシンでも抱いてるんですか?」
「……だが、キスだけであっさりと理性を飛ばした」
「はあ……」

 何を聞かされているのだろうか、これは。

「なんというか……、もっと触れていたいって思ってしまってだな……」

 本当に何を聞かされているのだろうか。
 イーヴォは自分の目が死んだ魚のようになっていくのを自覚した。だが、主君の為だ。

「殿下……。そういえば最近、自然と奥様の事見たりしてます?」
「自然と?……うーん、危なっかしくて目が離せない、と思った事はあったな」
「……奥様が悲しい顔をされたらどう思います?」
「悲しい顔?王太子妃に悲しい顔をさせること自体が不敬だろう?」

 イーヴォの目はさらに澱んだ。恐らく死後三日経った魚の目になっている。

「では最後に……、奥様が他の男と仲良くしてるのは?」
「仲良く?出来るわけがないだろう。王太子妃なんだぞ」

 急に不機嫌になったローデリヒに、「例えですよ」とイーヴォは宥めながら聞く。

「想像ですけど、奥様が他の男の腕の中にいたり、奥様が他の男とキスしてたり、奥様が他の男と寝てたり……」

 ローデリヒは数日前のアーベルのタイムスリップを思い出す。一日キッカリ経ってアーベルは帰ったが、一番最初の対面時に、アーベルがアリサに抱き着いていた。その光景を見て、ローデリヒは頭が真っ白になったのだ。

 アーベルはローデリヒと顔がそっくりだし、息子なので最初の衝撃があっただけだったが――、それを他の男に置き換えてみた。例えば、目の前に座るイーヴォとか。

「………………処刑台に送りたくなるな」
「えっ、ちょっ、なんで俺に向けて殺意飛ばしてるんですか?!」
「良い気分にはならない。私の嫁だ」

 イーヴォは肩を竦めた。やれやれ、答えはもう出ているのに、と。

「もうそれ、奥様に恋してるじゃないですか」

 ローデリヒは穏やかな海色の瞳を恐怖に見開いた。まるでそれが、全ての悪とでもいうように。

「……恋、ではない。妻への愛情があるだけだ」

 片手で顔を覆う。ローデリヒの顔から色はすっかりと消え失せていた。「今までのは忘れろ」と自分の分のティーセットを持って、退席するローデリヒを見送って、イーヴォはティーカップに口を付けた。

「……拗らせてるなあ」

 重症である。認めてしまえば、楽になるはずなのに。ローデリヒだって、薄々感じていたはずだ。
 そうボヤいて、イーヴォは苦笑した。
 自分も人の事は言えないな、と。
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